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ヴォオス戦記・暁  作者: 南波 四十一
12/42

スタインの秘策

「ずいぶんと待たせるじゃないか」

 ようやく現れたリタに、スタインが気取った口調で言葉を投げた。

 声に緊張の色はうかがえないが、周囲の気配を探ろうとする細かな瞳の動きが、スタインの緊張を表していた。


「いい女は男を待たせるって決まっているんだよ。知らなかったかい、スタイン?」

 スタインの言葉に、リタは軽口で応えてみせる。だが、その声は緊張でわずかにうわずっている。スタインの耳はこのわずかな違いを聞き逃さなかった。

「なるほど。確かにお前は待つだけの価値のある女だ」

 スタインは鷹揚おうように笑って答えた。細かく動いていた瞳が落ち着く。現状リタ一人であることを確認したスタインは、警戒はしつつも緊張を解いた。


「せっかく自由になったのに、ギルドに戻っていいのか? お前ほどの上玉なら、王都を出ればいくらでもやりようはあるだろう?」

 スタインが何気ない会話を装いつつ探りを入れてくる。

「ギルドの追手を常に意識しながらかい? あたしよりもギルドは長いんだ。そんな暮らしは神経が擦り切れるだけだってことくらい百も承知なんだろう?」

「俺ならそんな暮らしはごめんだね」

 リタの切り返しに、スタインは肩をすくめる。


「スタイン。あたしは話の面白い男は好きだけど、話の長い男は嫌いなんだ。あたしが出した条件を、ギルドは、というよりゼムは飲んでくれたのかい?」

 リタが主導権を取ろうと上から目線で問いかけてくる。

 表情や声の演技は及第点だが、その仕草の隅々にまでは行き渡っていない。無意識になのだろう。しきりと爪をいじっている。


(感情を取り戻すってのは、良いことばかりじゃあねえんだよな。洗脳されていた時には感じなかった不安が、意識の外側でいたずらをする。まあ、それを差し引いても上出来だな。俺が相手じゃなければの話だが)


 リタの言動から、スタインは余裕のなさを読み取っていた。

 そこには自身の洗脳が解けた時の経験が生かされたいた。感情を慣らす・・・には、当人が思っている以上に時間が必要なのだ。


 ゼムは懐から煙草を取り出すと、火をつける前にリタにたずねた。

「かまわんか?」

 つまらないじらしにリタがいら立ちの表情を見せる。

 その反応に歪んだ満足を覚えながら、スタインは煙草に火をつけた。深く吸い込み、大量の煙を吐き出す。

わずかな明かりに照らし出された煙は、まるで空中を這う毒蛇のように、地下水路の中を漂い広がっていった。


 顔の周りにまとわりついて来た煙を、煩わしげに振り払ったリタは、大きなため息をついた。

「あんたはやっぱりつまらない男だね。話の長い男は嫌いだって言ったはずだよ」

 スタインはニヤリと笑うと、再び大きく煙を吐き出した。

「短気は損気そんきって言葉を知らねえのか? 安心しな。お前が気にかけていたガキどもを、お出迎えに連れて来てやったぜ。なんなら二列に並ばせて歓迎の通路でも作ろうか?」


 スタインの言葉と共に、子供たちが姿を見せる。皆一様に表情のない顔をしている。

 その姿を見た途端、リタの顔に怒りが現れた。


「子供たちに何をした!」

 リタの美しくも鋭い怒声が、水路の壁に反射してこだまする。

 期待通りの反応に、スタインは下卑た笑いを押さえることが出来なかった。


「俺のせいにするなよ。お前らが勝手に洗脳を解いて逃げ出したりするから、こいつらにはきつめの洗脳が必要になっちまったんじゃねえか。だが安心しな。俺様特製の洗脳薬だ。脳への負担はない。まあ、習慣性が強いのが玉にきずだがな」

 スタインはそう言うと大笑いした。


「クズがっ!」

 リタが唾と共に吐き捨てる。

「おいおい! 美人がそんな品のない真似するもんじゃないぜ。せっかくのいい女が台無しだ」

「……死にたいのかい?」

 それまでの苛立ちが、一気に殺意に代わる。


「おっと! そこまで怒らせる気はなかったんだ! 悪かったよ」

 スタインが大袈裟な仕草で頭を下げてみせる。

 余裕を見せているが、手紙を握らされた時の恐怖は今でも覚えている。偶発的な事故で殺されたのではたまったものではない。


「これ以上じらして、お前にぶち切れられたんじゃかなわん。本題に入ろうか」

 スタインは言葉とは裏腹に、手にした煙草の煙が地下水路内を漂うのをしばらく眺めると、再び深く吸い込み、満足気に吐き出した。

「…………」 

 スタインの態度に、リタは殺気のこもった無言を返す。


「単刀直入に言うぜ。ゼムはお前を許さねえ。だからお前がギルドに帰ることは出来ねえ」

「そうかい。とんだ時間の無駄だったね」

 リタはそう言うとスタインに背を向け、さっさと歩き出す。その背中をスタインの声が追いかける。

「だがよ。ここで大人しく捕まってくれりゃあ、逆に大手を振ってギルドに帰れるぜ」

「寝言は寝て言うんだね。使えない男にこれ以上割く時間はないよ」

「まあ、そう言うだろうな。だが、お前はここで俺に捕まるのさ」

 スタインはそう言うとサッと片手を上げた。

 子供たちが素早く散開し、リタの退路を断つ。

 不安と怒りがないまぜになった表情がリタの顔を覆う。


(ようやくかい。仕事か遅いんだよ。早漏のくせに!)


 表情とは全く異なる悪態を、リタは心の中でついた。


 不安も動揺も、怒りさえも、すべてリタがスタインにそう思い込ませた演技だったのだ。

 スタインの観察眼は決して悪くない。むしろ相当確かだ。だからこそ逆にそこをつかれてしまったのだ。

 スタインの思考の流れは、カーシュナーに完全に読まれていた。その上でカーシュナーはスタインに、自身の有利を錯覚させるための演技をリタに指導したのだ。


 子供たちを不用意に動かさせるために――。


 互いに安全な距離を取っていたリタとスタインだったが、子供たちはじりじりとリタとの間合いを詰めていた。それを気がつかせないようにするために、スタインはリタをいら立たせていたのだが、その行動はすべて筒抜けで、実は逆にリタに引き寄せられていたのだ。


 後は子供たちに捕まるだけという段取りになったとき、リタは妙な胸騒ぎを覚えた。鼻孔を刺す煙草の臭いが、記憶の底を刺激する。

 本能が警告を発した瞬間、

「お前は、俺の言うことだけ聞い・・・・・・・・・・ていればいいんだよ・・・・・・・・・

 というスタインの言葉が、耳元でささやかれたかのように、耳の奥で響いた。


 不意に意識が揺らぐ。

 意識だけではない。手足の感覚すら遠のいて行く。リタはまるで魂が暗い井戸の底に落ちていくかのような不快な感覚に包まれ、意識を失った――。









 スタインの監視役が一人、離れて行く。

 どうやらリタが上手く捕まったようだ。ヘリッドはスタイン討伐隊の指揮官として、仲間たちへと合図を送った。

 スタインも、そのスタインを見張っている監視役たちも知らない抜け道を使い、仲間が二人背後を取る。まだギルド本部へと報告に走る監視役の気配が、すぐ後ろを走っているが、全く気がつかせることなく残りの観察者を始末する。

 人間からただの肉の塊に変わった男たちは、静かに冷たい水路の床に横たえられた。


 漂う煙すらかわすように、見事な身ごなしでヘリッドと仲間たちは、スタインとリタのいる通路へと忍び込んだ。

 うとましい煙が鼻孔をつく。

 スタインは闇を透かしてリタと子供たち、そして討伐対象でもあるスタインの位置を把握しようと努めた。そして異変に気づく。


 リタの姿が確認出来ないのだ。


 嫌な汗が背中を伝う。

 だが、スタインが意味もなくリタに危害を加えるとは思えない。

 何と言ってもリタはスタインのお気に入り・・・・・なのだから――。


 その気配は不意に横手から襲い掛かってきた。

 頭で思う前に身体が反応してくれていた。首筋を皮一枚の差で通り過ぎていった刃が視界の隅に映る。

 見覚えのある短剣だ。

 ヘリッドは人間とは思えない身ごなしで襲撃者との間合いを取ると、向き合うことになった襲撃者を目にし、一瞬硬直してしまった。ヘリッドの首を斬り落とそうとした相手がリタだったからだ。


「お前らも、俺の言うことだけ聞い・・・・・・・・・・ていればいいんだよ・・・・・・・・・


(しまった……)


 毒を言葉にした声が耳を打った次の瞬間、ヘリッドは自分を失っていた――。









 水がゆるやかに流れる音だけが、オリオンの鼓膜を揺らしていた。

 ともに後方で控えることになった仲間たちも、不安げな視線をオリオンに向けてくる。

 静かすぎるのだ。

 成功の知らせも、失敗の報告も届かない。それどころか、戦いの気配すら感じられないのだ。


 カーシュナーの読みが外れ、ギルドが多くの兵を伏せており、リタたちは反撃する間もなく捕らえられたのだろうか?

 いや、それはない。そうだとしたら、人の気配を感じ取れるはずだ。

 盗賊ギルドにおいて、五感の鋭さでオリオンを上回る人間はいない。仮に気配を消す術に優れた人間がいたとしても、せいぜいが二、三人だ。あのリタやヘリッドにまともに抵抗すらさせずに捕らえられるような人数をそろえらるはずがない。


 予想していなかった事態が、今オリオンたちを襲っているのだ。


「お前たちはここに残れ」

 不満を表す仲間たちをひとにらみで抑えつける。

「カーシュナーが来たら事態を説明しろ。後の判断は奴に任せる。その時は素直に従え」

 オリオンはそれだけを言い残すと、沈黙を続ける通路の奥へ、一人踏み込んで行った。


 水路の空気は、まるでびんの中にでも閉じ込められたかのように動かない。

 焦らずゆっくりと歩を進ませていくと、最初の異常に行き当たった。

 臭いだ。

 瞬時に判断した限りでは、どうやら煙草の煙のようだが、何かが違う。

 オリオンは布を取り出すと下水の水と言うことも気にかけずに濡らし、すばやく口元を覆った。


 さらに歩を進めていくと、次の異常に行き当たる。

 人の気配だ。

 前方にリタやヘリッドたちがいるのだ。人の気配があるのは当然だ。だが、それはまるで死人が歩きまわてるかのような、生気を感じさせない気配だった。


 なじみ深い気配――。


 それは暗殺者だけが持つ、洗脳により自己を持たないうつろな人間の気配だ。


「いるんだろ?」

 闇の奥からスタインの声が呼びかけてくる。

 自信に満ちた嫌味ったらしい声だ。

 だが、その声はオリオンに向けられてはいなかった。当てずっぽうで口にしているのだ。スタインに気配を消したオリオンの位置を感知するのは不可能だからだ。

 それでもオリオンの五感の鋭さは良く知っている。近くにいれば間違いなく耳に届くと見越しているのだ。


「いないならそれでかまわん。別に俺は困らんからな。今はリタと名乗っているのだったかな? こいつを手土産に引き揚げさせてもらうだけだ」

 その言葉がうそではないことを証明するかのように、複数の気配が移動を始める。

 オリオンはスタインの下手な挑発には乗らず、わずかずつ距離を詰めながら追跡を開始した。


 気配を探る意識が前方に伸びた直後に、それらは襲い掛かってきた。

 完全に消された気配と、そのあまりの鋭さに、さすがのオリオンもかわしきれずに手傷を負う。

 傷口が焼かれるように痛んだが、幸い毒は使われていなかったようだ。


 安心する間もなく次の攻撃が襲い掛かってくる。

 襲撃者は二人。闇の中でも的確にオリオンの気配を捉え、見事な連携で攻撃してくる。

 薄く漂う煙草の煙が邪魔をして、臭いで相手を特定出来ない。だが、これほどの技量の持ち主となれば限られてくる。


 リタとヘリッドだ――。


 オリオンは自分に襲い掛かる二人に対し、理由を問いかけるような愚かな真似はしなかった。次々と繰り出される必殺の一撃をかわしつつ、対抗策を講じる。

 だが、それを封じるかのように、先行していた他の仲間たちが襲撃に加わり、オリオンをさらに追いつめていく。


「おやおや、そんなところにいたのか?」

 あざ笑うかのような言葉に続いて、松明が足元に投げ込まれる。

 暗視能力を持つオリオンにはそれで十分だった。

 そして、見えてしまったことにより、より強く状況はオリオンを縛りつけた。

 子供たちが互いに短剣を持ち、それぞれの喉元に切っ先を当てている姿が浮かび上がったからだ。


「お前も、俺の言うことだけ聞い・・・・・・・・・・ていればいいんだよ・・・・・・・・・


 動きの止まったオリオンに、リタやヘリッドに投げかけられたのと同じ言葉がかけられる。

 オリオンは背負われていた人間が、不意に手を離されたように、背中から意識が抜け落ちて行くような感覚に襲われた。

 崩れかけた膝を利用し、咄嗟に後方へ回転し、間合いを開ける。

 その時には落ちかけていた意識はしっかりと戻っていた。


「やはりお前には利かんか」

 スタインの失望した声が響く。

 だが、転がる松明が普段の十倍は不機嫌そうに歪んだオリオンの顔を照らし出すと、スタインの失望はすぐに拭われた。


「何が起こったかわからない。そんな顔だな?」

 スタインが勝ち誇ったように問いかけてくる。

 当然そんな言葉に答えるようなオリオンではない。だが、その沈黙を勝手に都合よく解釈したスタインは、毒を含んだ言葉を続けた。


「深い意味はなかった。ただ、お前らをおもちゃにして遊ぶために、意識のもっとも深い場所に、俺に対する絶対的忠誠をすり込んでおいたのさ。もちろん発動なんかさせない。そんなことが知られれば、俺はあっという間に消されるからな。正直暗示をかけた俺自身忘れていたくらいだ」

 そう言ってスタインは自分を嘲笑うように笑った。それは自虐と言うよりも、今の自分を誇り、かつての自分に見切りをつけたかのような笑いだった。


「だがな、ゼムに追いつめられたおかげで、お前たちに仕掛けておいたとっておきの暗示を思い出した。そしてゼムの被害者意識が生み出した妄想を、現実に使わせてもらうことにしたのさ。実際奴の妄想はいい考えだよ。ギルドマスターの権威が絶対なのは、強力な力を持つ暗殺者たちを指揮下に置いているからだ。だが、それは裏を返せば、暗殺者たちを配下に収めれば、そいつがギルドの支配者になれるとも言える」

 スタインはそこで、オリオンに向けて毒で染め抜かれた笑みを向けた。


「俺と手を組まんか? 貴様さえいれば、俺は完璧にギルドを支配することが出来る。ゼムに見切りをつけたクロクスなら、ギルドマスターが誰に代わろうと気にも留めんはずだ。あのハゲ親父が支配するヴォオスで、面白おかしく生きようじゃねえか!」

 スタインはそう言いつつも、子供たちの立ち位置を微妙に動かし、自身の壁にした。


(乗ってこい! 誰がてめえみたいな危険分子と手を組むかよ! 寝首かれる前にここでやってやらあ!)


 嫌な笑みの中で、その濁った瞳だけが深い殺意をたたえていた。


「まさかこんな手を隠し持っていたとはな。人の悪意とは予測しきれんものだ」

 オリオンが苦り切った声をでつぶやく。


 スタインは全身から冷や汗が吹き出すのを、他人事のように感じた。

 オリオンから叩きつけられた殺意の強さに、危うく精神が麻痺しかけたのだ。


(こ、殺す気だ、この化け物! 仲間全員殺してでも、俺を殺す気だ!)


「か、かかれ! 全員一斉にかかれ!!」

 次の瞬間、悲鳴のような命令が暗い水路を走り抜けた。

 リタが、ヘリッドが、他の仲間たちが、一斉にオリオンに襲い掛かる。

 戦闘力で劣る子供たちも、約半数がスタインのための壁として残り、残りの半数がオリオンの行動を妨げるために、囲い込むように散って行く。


 限られた空間の中で、オリオンはまるで事前に定められた型でも舞うかのように、超一流の暗殺者たちの攻撃をかわしていった。

 攻撃の手数に勝るスタイン側は、一撃で倒すのではなく、徐々に削っていく作戦に切り替え、攻め立ててくる。研ぎ澄まされた攻撃ならばむしろかわしやすいのだが、当たれば儲けもののような攻撃は逆に軌道が読みにくく、かわしにくい。

 頭部や首ではなく、胸や肩など、的の大きい身体を狙ってくる。それと同時に隙あらば足元を薙ぎ払ってくる。スタインは完全な持久戦に持ち込むつもりなのだ。


 対するオリオンに、仲間たちを傷つけるつもりはなかった。

 かつてのオリオンであれば、スタインが考えたように、仲間を切り捨てるという判断を瞬時に下したかもしれない。だが、本当の仲間を見つけ、信じると言うことを覚えた今のオリオンの選択肢の一番上に、仲間を切り捨てるという項目はなかった。

 今、一番上に存在する選択肢は、仲間を救うという項目だ。当然オリオンはこの選択肢を選ぶ。


 かわす。とにかくかわす。大きく動かなければ隙は生まれないが、オリオンを捉えようとして動けば、能力の限界以上の動きを要求される。

 それまで隙なく動いていたはずの暗殺者たちであったが、ほんの一瞬生まれるわずかな隙を衝かれ、当て身を受けて意識を奪われていく。

 圧倒的有利な状況で暗殺者たちを倒されたスタインに動揺が走る。


 しかし、スタインの動揺とは裏腹に、オリオンの意図を察したリタとヘリッドが、前線でオリオンを攻めるのではなく、わずかな隙を狙って繰り出されるオリオンの攻撃を防ぐことに専念し出してからは、さすがのオリオンも手詰まりとなってしまう。

 先にリタかヘリッド、どちらかを戦闘不能な状態に追い込まなければ、事態を変えることは出来ないだろう。だが、それは不可能に近かった。


 隙をうかがいかわし続ける。地下水路の床を蹴る音。自分を切り刻もうと繰り出される剣を払う刃鳴りの音。剣先が空気を切り裂く音。それらが時の流れを計る砂の粒のように積み重なり、オリオンに残り時間が尽きようとしていることを知らせる。

 スタインについていた監視役が報告に戻ってからかなりの時間が経っている。ギルドの兵が駆けつけて来るまで、それほど時間的なゆとりはない。それまでに状況を打開しないと、離脱することも出来なくなる。

 嫌な汗が額に浮かび、頬を伝って顎から落ちた。


 やるしかないのか……。


 オリオンが選択肢の一番下に埋められていた項目に手を伸ばしかけた時、場違いなほど陽気な声が地下水路に響いた。


「ごめん。ごめん。遅刻しちゃった!」

 声の響きもそうだが、言葉の内容も完全に場違いだ。


 不意に背後から響いた声に、スタインが尻尾を踏まれた猫のように飛び上がる。

「誰だ貴様はっ!」

 不意を突かれた怒りから、スタインが怒鳴りながら誰何すいかする。


「お前がスタインか。こういう時に決まりきった台詞セリフしか言えないような小悪党は、すぐに死ぬって知ってたかい?」

 スタインの言葉を完全に無視して、好き勝手なことをほざいているのは、もちろんカーシュナーだった。

 その顔には見下した侮蔑の笑みが張り付ているが、普段は閉ざされている翠玉の瞳は鋼のように硬い光を放っている。


「カーシュナー! 気をつけろ! 全員洗脳されている!」

 スタインを挟んだ反対側から、オリオンが声をかけてくる。リタたちからの攻撃の手はいまだにゆるんではいない。

 カーシュナーはオリオンの言葉にうなずくだけで応え、視線は片時もスタインから離さない。


「今すぐだ。この程度のことで天下でも取ったみたいにニヤついているその顔を、絶望で歪めてやるよ」

 そう宣言するカーシュナーの顔の方こそ、心臓に手をかけた悪魔のようにニヤついていた――。


 

 

  

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