プロローグ ~漆黒と黄金の天使~
どうも、ヴォオス戦記を描いている人、南波 四十一です。
何とか年内に新しい連載をスタートさせようと、書き溜めが全然足りていないにもかかわらず、投稿してしまいました。完全に見切り発車です。
今回は作品舞台が王都に限定されること、登場人物もかなり限定され、小人数で物語が展開するおかげで、一話のボリュームを五千文字前後に抑えることが出来ました。前作よりは読みやすくなったのではないかと思います。
今回は新連載開始ということで、この後15時ごろと、17時ごろにあと二話投稿する予定です。その後の投稿も、毎週土曜日17時ごろ確定で、それプラス水曜日を目安に週二のペースで投稿を続けたいと思います。
暗殺者オリオンとカーシュナーの出会いの物語、お楽しみいただければ幸いです。
いつまでも泣き止まない子供のように、ぶ厚く空を支配した雪雲が、世界を埋め尽くそうと小さな白いかけらをこぼし続けている。
一年前、大陸は春を失い、終わることのない冬に支配されていた。
すぐにはその異常に気がつかなった人々も、春の中ごろになってもいまだに訪れない南風に困惑し、不吉な思いで空を見上げるようになった。
そして一年たった現在、人々は空を見上げなくなった。
そこには希望を持とうとする心に重くふたをする絶望しかなかったからだ――。
◆
そこは、「世界」とも「大陸」とも呼ばれる大地であった。
世界の辺境にはいまだに神々の大戦の名残りが見られ、神話の終わりから、まだ数百年しか時を経ていなかった。
神話の終わり、すなわち<神にして全世界の王>魔神ラタトスが、勇者ウィレアム一世に屠られてより三百年。
ウィレアム一世によって興された国、ヴォオスは、今急速に時代の暗雲に呑まれ始めていた。
<解放王>と称されるウィレアム三世により、ヴォオス国から奴隷制度が廃止された。
<馬上王>もしくは<鋼鉄王>と称される二クラウスは、先王ウィレアム三世の意思を継ぎ、奴隷制度廃止に反対する貴族を内に抱えながら、国内の混乱に乗じた近隣諸国との戦に明け暮れた。
<再建王>と称されるラウルリッツは、ウィレアム三世によって興された奴隷解放の思想と、その生涯を奴隷解放の思想を守るための戦いに費やした二クラウスの鋼の意思を受け継ぎ、疲弊した国内経済の再建と、解放された奴隷たちの教育に尽力した。
<三賢王>と称される偉大な王たちによって、ヴォオスは瞬く間に発展し、国力を強化していった。
発展を助けたのは、<三賢王>がこじ開けたヴォオス社会の間口から新たに加わった人々であった。
これまで才覚に関わらず、貴族出身者で固められていた地位に、積極的に才能ある下級層の人材が採用されるようになり、中には数年前までは奴隷の身であった者まで採用された。
ラウルリッツの実力主義は間違いなくヴォオスの文化を一段階上へと押し上げたのだった。
疲弊していたはずのヴォオスは、自国のみならず、大陸経済そのものを活性化させた。東西南北あらゆる土地の商人が、成功の機会を求めて集い、彼らの成功がさらなる富をヴォオスにもたらした。
成功の噂はそれを成し遂げた者自身の足よりもはるかに早く大陸の端々にまで伝わり、四本の大陸隊商路が唯一交差する王都ベルフィストは、名実共に大陸最大の都市となった。
ヴォオス経済が最高潮に達したその年、ラウルリッツは突然の病を得て急死する。
ラウルリッツに取り立てられ、成功を収めた人々は嘆き悲しんだが、ラウルリッツの死によってヴォオス経済に影が差すことはなく、むしろ天上へと旅立ったラウルリッツに、彼の残した栄華に歓声を上げる人々の声を届けようと、人々はさらに経済の発展に尽力した。
その中に、平民出の一人の有力な商人、ケースという人物がいた。
ケースは没落した貴族から爵位を購入すると、その活躍の場を市場から王宮へと移した。
才能こそ申し分のなかったケースではあるが、成り上がりを嫌われ、一代でのし上がることは出来なかった。だが、その後を受け継いだ息子のカスバールは、嫉妬が渦巻く王宮を、財力という名の強力で長い櫂を使って見事にこぎ渡り、確固たる地位を築き上げてみせた。
そして、父カスバールが築き上げた地位を受け継ぎ、それを足掛かりにさらに王宮という名の長い階段を登り詰めたのが、その息子、クロクスであった。
クロクスはただのし上がったばかりでなく、絶頂を迎えたと思われていたヴォオス経済を、さらに発展させ、洗練してみせたのだ。
もちろん世界を流れ渡る金貨の河が、必ず一度は自分の懐に大きな淀みを作るように経済の流れを引いたのは言うまでもない。
ヴォオスの経済をクロクスが牛耳るようになると、ヴォオスは建国三百年を目前に、かつてない繁栄を見せた。だが、それが甘美な毒であることに、人々は誰も気がつかなかった。
財力が権力に直結した時点で、<三賢王>が築き上げた王宮は、急速に腐敗を始めたのだった。
賄賂が横行し、不条理が金銭でまかり通るようになった。
発展のための公平さは貪欲の陰に追いやられ、貧困の差が激しさを増す。
それでも多くの人間が、成功と富を得ていき、その成り上がって行く姿が、人々の目を暗さを増していく社会に対する不満と不安から逸らし続けた。
いつか自分も! そんな甘い幻想の中で人々が歳月を過ごしていた時、不意に気がつかされることになった。自分たちの前に、どうすることも出来ないほどの高さの経済格差が立ちはだかっていることに――。
クロクスがヴォオス経済にもたらした甘美な毒はゆっくりと確実に浸透し、弱者を隅へ、外へと追いやっていった。
そして、人災に見舞われたばかりの人々に、天災が追い打ちをかける。
暦が春を告げようと、王都で春の祝祭が大々的に催されようと、空にあぐらをかいた雪雲は一向に去る気配を見せず、ヴォオスのみならず、大陸全土を終わらない冬に閉じ込めたのであった。
農業、畜産業が大陸規模で大打撃を受け、近い将来訪れるであろう大飢饉に、人々は震え上がった。
そんな中でも大陸の動脈っである四本の隊商路を確保し、人の流れを止めなかったクロクスの手腕は高く評価された。経済とは物資の流れであり、この流れを生み出すのが人間だ。人の流れが途絶えれば、経済も停滞する。クロクスはその危険性を誰よりも理解していたのだ。
衰えないみせかけの繁栄に、王都の人々が安堵している裏で、その輪に加わることの出来ない力無き人々は、急速に困窮していくのだった――。
◆
「お願いです! どうか、この子だけでも!」
弱り切ったか細い声で、女は懇願し、男の服の裾をつかんだ。
「汚い手でさわるな!」
男は邪険に女の手を払いのけると、容赦なく女を蹴りつけた。
女は手の中の幼子を庇ったため、側頭部に男の蹴りをもろに受けることになった。
意識が朦朧とし、女はばたりと倒れる。それでも倒れる時に幼子を庇って倒れたのは、母親のなせる業と言えるだろう。
「ここには二度と近寄るな!」
男は周囲を気にしながら吐き捨てた。
そこは王都ベルフィストの中でも比較的裕福な者たちが居を構えている人気の区画だった。
まだ朝も早い時間であるため、人通りはほとんどないが、それでも人の耳目がどこにあるかわからない。体面を気にする男は、自分にすがりつく女を早く追い払いたかった。
男はクロクスのもとで財を成した商人の一人だった。
直接の面識はないが、それでも目端が利き、利にさといことからクロクスに仕事を任され、生まれた時は粗末なあばら家住まいだったのが、今では富裕層の底辺あたりに居を構えるまでになった。
若いころは、絹服をまとい、通りを我が物顔で闊歩する貴族や商人を羨み、今の境遇から一日でも早く抜け出そうとしゃにむに働いた。
結婚どころか、女遊びの一つもするゆとりなどなかった。だが、その甲斐あって今の地位を男は手に入れた。
この辺りで商人としての男の名前を知らない者はいない程だ。
四十を目前にようやく結婚し、召使を雇うほどの屋敷も手に入れた。
さらにのし上がるために、男は妻を愛情からではなく、その社会的利用価値から選んだ。
美しくはあるが、頭がいかれているとしか思えない自分本位な女との結婚生活は、男に不満しかもたらさなかった。
男は当然のようになぐさめと安らぎを他の女に求めた。
今足蹴にした女も、そんな女の一人だった。
下働きとして屋敷に入ったその女は特別美しいわけでもなく、情欲をそそるような体つきをしているわけでもない。
ただなんとなく手を出したに過ぎない女だった。
だが、それでも子が出来た。
男にとって初めての子供だった。しかも男の子だ。
男は大いに喜んだが、そこに横やりが入った。
結婚して数年。いまだに子供を持てない妻が、直接男に文句を言うのではなく、男がのし上がるためにその名を利用したいと考えた父親を通して文句を言ってきたのだ。
実に痛いところをついてくる。そういうところも嫌なところだった。
賢いのではない。あざといのだ。
だが、その行為は男の首根っこを押さえるには非常に有効な手段だった。
男は女を、わずかな手切れ金を持たせただけで、子供もろとも屋敷から追い出した。
幼子を抱えた女に、望むような仕事を見つけることは出来なかった。
女は幼いころに両親を亡くし、苦労して生きてきた。頼れるような存在は、彼女のかたわらにはいなかった。
それでもなんとか生き延びようと懸命に働き口を探し、男から渡されたわずかな金を切り詰めて暮らしていたが、一年にも及ぶ終わらない冬の影響で高騰した物価にあっという間に吸い上げられてしまった。
暖を取ることも難しい状況の中、女は雪を口にし飢えをごまかしていたが、いよいよ乳が出なくなると、せめて子供だけでも助けようと、自分を捨てた男にすがったのだった。
母としての執念か、女は立ち去ろうとする男の足にしがみつき、必死で懇願した。
男としても、女はどうでもいいが、子供は惜しかった。だが、義父ににらまれてはどうすることも出来ない。下手に庇い立てすれば妻と離縁させられたうえで、商売を潰しにかかられかねないからだ。
義父に対する恐れが、女に対する苛立ちへと変わる。
「離さんか、この馬鹿女が! 子などまた他の女にでも産ませるわ! とっとと消え失せろ!」
そう言うと男は女の頭を数発殴りつける。
子供だけでも何とか救おうという思いから、女は必至でしがみつく。その力は痩せ衰えた女のものとは思えないほど強いものだった。
得体の知れない恐怖が男の背筋に走る。
その後も何発も殴りつけたが、女は手を離すどころか、より強い力でしがみついて来た。
男は恐慌状態に陥り、女を振り解こうとめちゃくちゃに暴れ出した。
容赦のない暴力が女の鼻孔を砕き、顎を割る。
女の手がゆるんだ一瞬の隙をついて脚を引き離すと、男は女を思い切り蹴りつけた。
痩せ衰えた女は驚くほど派手に吹き飛ぶ。そして石段に激突すると糸が切れた操り人形のように力を失った。
女の身体が傾き、ずるりと横倒しになる。その後を追うように、石段に血の曲線が描かれる。
不運な女は石段に激突した際、後頭部を石段の角に叩きつけられ、事切れたのだ。
母親の異変を察したのか、か細い幼子の鳴き声が、死んだ後も息子を抱えて離さない腕の中から漏れてくる。
そのあまりに貧弱な泣き声に、男は思い切り顔をしかめた。
「切り捨てて正解だったな。こんな貧相な泣き声しか出せんような子供に、俺の跡は継げん」
成功が男を狂わせてしまったのか、そこに親子の情は微塵も存在しなかった。
男は女の足をつかむと、ずるずると引きずり始めた。家の前に死体など置いておくわけにはいかない。
これは立派な殺人ではあるのだが、治安兵にいくらか握らせればどうとでもなる問題だった。女は所詮その程度の価値しかない人間なのだ。
富裕層の街区とはいえ、怪しげな路地が存在しないわけではない。男は終わらない冬の寒気の中、汗だくになりながら女の死体を引きずって行くと、普段あまり使われることのない路地に足を踏み入れた。
そこまで来ると男は、無造作に女の死体と生きてか細い泣き声を上げ続ける息子を捨てた。
「朝からとんだただ働きだ!」
男は唾を吐くように捨て台詞を口にすると、一度も振り向くことなくその場を後にした――。
終わらない冬が、無慈悲な行いに覆いをかけようと思ったのか、地表にこぼし続けていた雪の粒を大きくする。
泣き続けていた幼子の声が途切れがちになり、降り続ける雪の帳に遮られるように、世界から隔絶されていく。
静寂が訪れ、不幸な親子は汚れきった世界から、白一色の世界に包まれていく。
積もる雪を踏む二組の足音が、静かに近づいてくる。
足音は誰からも顧みられることのなかった親子のもとで足を止めた。
どちらも目立たないありふれた外套に身を包んでいるが、見上げるほどの長身だ。
そのうちの一人、2メートル近い長身を持つ男がかがみこみ、終わらない冬が白布代わりに被せた雪の覆いを親子から払いのけた。
幼子の上の雪を払っていた手がピタリと止まり、次いでものすごい勢いで雪を払っていく。
「生きているのか!」
もう一人の仏頂面をした男が驚いてたずねてくる。
「ああっ! 間に合ってくれよ!」
問われた男は祈るように答えた。
幼子は死後硬直からか、それとも母の深い愛情からか、固まり強張った母の腕にしっかりと抱えられていた。
「……よく頑張ったね。もう大丈夫。後は俺が引き受けるよ」
我が子を抱きしめたまま固まった手に、男はそっと手を重ねながらつぶやいた。
女の硬い腕がゆっくりとほどけていく。男は母親の腕の中から幼子を抱きとると、外套を脱ぎ、冷え切った身体が少しでも熱を取り戻すようにしっかりと包み込んだ。
もう一人の男が女の遺体を検める。
「手は痛めていない。抵抗出来ないままひどく殴られたようだ。死因は後頭部の傷だな。側頭部に足形がある。蹴りつけられ、何か硬い尖った物に頭を強打したんだろう」
「調べてくれ」
女の遺体を改めていた男に、幼子を抱きとった男が、雪が降り続く大気が凍りつきそうなほど冷たい声で言う。
「さらうか?」
問い返す声も、死神の吐息を思わせるほど冷たい。
「必要ない。それがどこの誰であろうと、手に入れたものすべてを奪い、無様にあがき、のたうち回らせながら地獄に落としてやる」
かつてこの地を支配していた魔神ラタトスの眷属ですら鳥肌立つであろう冷たい殺意のこもった言葉に、問いかけた男は満足気にうなずいた。
「今はこのまま捨て置くことを許してくれ」
仏頂面の男は、女の亡骸に驚くほどやさしく手を置くとつぶやいた。
「天上からこの子の未来を見守ってくれ」
幼子を抱えた男も、母親の手に手を重ね、つぶやく。
無残な最期を遂げた女の魂が、今、肉体を離れる。
魂は空を見上げていた視線を下に向ける。天上へ昇る魂には滅多にあり得ないことだ。
幼子を抱いた男が視線を上げる。細目だとばかり思われていた目が見開かれた。そこには、大陸に住む人間にはあり得ない翠玉のように輝く深い緑色をした瞳があった。
男は小さく幼子を掲げてみせる。そしてにっこりと笑ってみせた。
その様子に何かを悟った仏頂面の男も、隣で微笑む男の視線を追いかけた。
女の亡骸の上に、確かに何かの気配を感じる。
答えは一つだ。
仏頂面の男は隣の男を見習って、見ることの出来ない気配に向けて、残るであろう未練が少しでも軽くなるようにと不器用なりに微笑んで見せた。
笑う仏頂面という世にも奇妙な現象が出現する。
女の魂はそこに込められたものを受け取った。
長くもない生涯の中に、確かにあったものだ。
幼い頃両親と共に暮らしていたころに触れた記憶がよみがえる。
それは自分に向けられた見返りを求めないやさしさだった。
現世を離れた女の瞳が、二人の男の本当の姿をとらえる。
一人は不機嫌極まりない死神のような空気をまといつつ、その内側には驚くほど純粋な心を持っていた。
不条理と理不尽に対する激しい憤りと、いまだにどう扱ったらいいのか持て余し気味のやさしさにあふれている。
もう一人は、金色の髪に翠玉の瞳を持った、神話の中にのみ存在する天使のような容姿をしていた。
その内側には、現世を離れた女の目をもってしても見通すことが出来ないほど複雑な魂が存在した。ただ、その根底にあるのが、深いやさしさと、冷え切った鋼のごとき厳しさであることだけは理解出来た。
漆黒の天使と黄金の天使――。
女の魂は、二人の天使が自分の息子を守護してくれることを確信すると、再び空を見上げ天上へと旅立っていった。
二人の目には映らなかったが、女の魂が安堵と感謝の笑みを浮かべていたことを、去りゆく魂が残したわずかな残り香のような気配から察した。
ありがとう――。
二人はそんな声を聴いたような気がした。
雪は降り続く。
哀れな女の亡骸を埋葬するように――。
男たちは歩み去る。
哀れな女の最後の望みを抱いて――。
この後、女を殺めた男は事業に失敗し、成功のすべてを失った。
さらなる成功の後ろ盾にと考えていた義理の父親もろともだ。
そのあまりにも急すぎる転落劇に、誰もが不審なものを感じたが、他人の不幸は蜜の味とばかりに、二人の成功者の抜けた穴に群がった人々によって、その不審な思いはかき消されてしまった。
だが、何もかも失た男が、どのような最期を遂げたか、二人の男はよく知っていた――。
15時ごろ、第2話を投稿いたします。年末でお忙しいでしょうが、お読みいただければ幸いです。