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「あれ? やっぱり空が赤い。もう朝は過ぎたと思っていたのだけれど」

「我も随分と寝坊をしたようだ。既に夕暮れだ。約束を違え、長い時間を夢で過ごさせたことを詫びよう。償いはする、なんなりと申してくれ」


 空を見て思ったままのことを口にした僕に、不死鳥はそう言った。僕は首を小さく左右に振ってから、周りを確認した。目を覚ましたフラン、ルイがいる。ここに来たときのままだ。僕はひっかかりを覚えて、不死鳥に訊ねる。


「あの、枯れ木に囚われていた女の子――ルリアちゃんはどうなったのですか?」

「もうここを出て行った。我の目覚めとともにな。何かに追われるように飛び出して去って行きおった」

「そう、ですか」


 別にお礼を言われたかったとか、そういうことではない。なんとなく、あれっきりで別れるのが寂しい気がした。同じ恐怖から逃げ回った身。僕の勝手かもしれないけれど、なんとなく親近感を覚えていた。

 フランも残念そうに、ルイの表面を撫でまわしている。ルイも神妙な顔をしていた。

 不死鳥がぐっと胸を張り、首をもたげた。変わった雰囲気に、僕らは姿勢を正して不死鳥に向き直る。不死鳥の怜悧な動かない瞳は、今はなんだか優しげに見えた。


「償いの前に、まずは約束の二つを与えよう。まずは、永訣の魔女に会うための方法。これは簡単だ。この塔付近の森で、二日二晩のときを過ごすこと。魔女に覚悟を示すための儀式である。あまりにみっともない真似はせぬ方が良い」


 あまり逃げ回ったり隠れたりしていても、魔女から会いに来てくれないということか。できるだけ覚悟を示せるような振る舞いを意識しよう。


「次に、報酬だ。これも三名全員に与えよう。我が時間の一部を譲り渡そう。これは空が赤く染まる頃、我が力を与えられし者以外、何人も干渉できぬ時間を過ごすことが出来る。退屈ならば捨てることもできる時間だ。特にメルン。小僧は時間を削ったそうだな。特別多く、我が時間を譲り渡す。なにせ我は不死だ、命の時間など、無尽蔵に手に入る。好きなだけ使うがよい」

「あ、ありがとうございます」


 とうとう、永訣の魔女に至る明確な糸口を掴んだ。それも、はっきりと具体的なものだ。やっと、森の薄暗がりを歩いてきたこの目に、光明が差した。不死鳥が与えてくれた光だ。それどころか、削られた寿命への補てんもしてくれるという。十分すぎる報酬だった。


「あとは贖罪か……小僧らは何を望む?」


 何を望むか。つい、何もないと答えそうになる口を閉じる。考えれば欲しいものなんていくらでもあるけれど、どれも切望するほどじゃない。強いて言うなら――。


「僕が永訣の魔女と出会い、それからさらに三晩経っても帰らなかったら、フランを安全に森の外に送ってあげて欲しい」

「確かに承った。女童は何を望む?」

「メルンさんの身の安全をお願いします」

「それは叶わぬ。永訣の魔女に挑むに、我は力を貸すことは出来ぬ。他に何を望む?」

「メルンさんに、身の安全を守る力を授けてください」

「確かに承った。幼き英樹の子よ、何を望む?」

「おれは、そうだなー。メルンがいない間、フランを守ってほしいかなー。メルンはなんつーか、一人でもすげー強そーだし、俺も魔物だから森ならよゆーで生きていける。フランはなー。そんなおれらを守ってくれるからなー。せめて不死鳥さんに守ってもらわねーとなー」


 そう言って照れたように、にししと笑った。

 ルイはもともと森に生きる魔物。この森で生きる限り、余程のことがなければ、安全にその命を全うすることができるだろう。僕はルイに手を伸ばした。


「ごめん、ルイの安全も願うべきなんだろうけど、フランを優先させた」

「おれもメルンの安全願ってねーし、おれ、森だとつえーし。いいってことよ」

「ありがとう」


 ルイが突き出した拳に、僕も拳の先をつんと合わせた。

 日が沈んでいこうとする中で、不死鳥が僕に言う。


「で、小僧。今晩からすぐに、永訣の魔女に挑むのか?」

「いえ。明日から準備して挑もうかと思います」


 今からすぐに挑戦するには、いろいろとシミュレーションが足りていないし、何より、フランと全然話をできていない。あと一歩、最後の大詰め。森の中で二晩過ごすんだ。きっと、今までの旅の比じゃない危険さだと思う。

 楽しいこと、寂しい気持ち。何でもいいから、とにかく残りの時間を作って、フランと話をしたいと思った。こういう時間の使い方なら、全く惜しくない。


「スウェル」


 唐突に、不死鳥が言った。何のことか理解できていない僕らに再度言う。


「スウェル。我が名だ、覚えておくといい。何かに使えるときも来ることだろう」

「ありがとうございます」

「そうだ、小僧」


 眠たげにうつらうつらと閉じられかけていた不死鳥の瞼がぐいと引き上げられた。


「わかったか?」


 その一言で、僕は察した。この「とり」は本当に、何でも知っていてやべーんだな。そう本心から、ルイになった気分で感心した。


「ええ、今まで考えていたことがすっきりしました。所詮は予想でしかありませんが、さほど見当はずれでもないと思います」

「それは重長。彼奴らも喜ぶことだろう。では、久々に退屈を忘れることができた。礼を言おう」

「こちらこそありがとうございました。目指す者への道筋がはっきりとわかり、助かりました」


 こうして、不死鳥に別れを告げた僕らは、久しぶりに感じられる拠点に戻った。

 人の気配もなく、風も吹きこまない家を一日空けたくらいでは埃一つ積もっていない。不死鳥の夢の中の非現実感と相まって、本当にあの時間は存在したのだろうかと疑わしくなってくる。


「すっごい長い時間、不死鳥の夢にいた気がするね。なんでだろう、何も変わっていないことに違和感があるよ」

「私もです。とっても濃い時間でしたからね……。魔女に追いかけられるだなんて、二度と経験したくないです」


 フランは両手を寒そうに擦ってから、笑った、

 胸元から、オーガの角のブローチを取り出して、宙に垂らした。黒く濡れたような艶を帯びてきたそれは、以前よりも一層強い威圧を放っている。


「こえーなー、それ。まあ、この辺の魔物は不死鳥さんに慣れてっから、直接見せねーと効果は弱そうだけど」

「そういうものなんですか?」

「たぶんなー」


 へえ、と小さく息を漏らしつつ、フランはしげしげとブローチを眺めた。


「これがあったからこそ、助かったんですね。今までの旅を、誰とも関わらずにここまで来ちゃっていたら、危ないところでしたね」


 オーガのパストラルに角を貰った。人面岩のクロアと、猩猩のチペロにブローチに加工してもらった。りんごの魔物のルイに案内されて、不死鳥のスウェルに出会った。人間だけじゃない。魔物と出会い、魔物を助け、魔物に助けられる。思えば、そういう旅だった。

 フランが、旅の全てをぎゅっと集めたような、深い輝きをもつそのブローチを、僕の首にかけた。髪の毛にフランの指が触れた。その感覚が伝わるだけでどきどきしている自分が恥ずかしくて、わざと笑顔を作ってみたりする。もちろん、嬉しいのだけれど。


「このブローチが守ってくれるのは折り紙つきですからね! 今度はメルンさんが守ってもらう番です。あとちょっとなんです、お願いですから、どうか無事で帰ってきてください」

「……うん」

 僕は鋭い感触を確かめるように、オーガの角を握りしめた。


 不死鳥は二日二晩と言っていた。ならばと。夜明けを目安に終わりを見極められるよう、僕は早朝に森に入った。右手には杖、左手には鬼のブローチ。背中には村から拝借した、小さな背嚢が一つ。持っていくのはそれだけだ。

 一度不死鳥の塔の前まで行き、そこから少し奥まで、一〇分ほど歩いて進む。程よく開けた場所を見つけ、僕は土の上に敷き皮を広げた。下の土と相まって、柔らかく体を受け止める革に腰を下ろす。木に左半身を預け、もたれかかって力を抜いた。


 静かに地に体をつけていると、ぞわりぞわりと土の間から虫が頭を出す。僕の周りを数えるのも面倒なほどのムカデの頭が取り囲んだとき、僕は杖を振った。小さな炎を、杖の先端で引いた先に従って出し続ける魔法だ。虫をはばむ小さな炎の城壁に、ムカデたちはすごすごと土中に帰っていった。土は熱しすぎれば燃えてしまう。適度に周囲に溝を刻み、燃え広がらないようにしておく。

 静かに息を潜め、精神を研ぎ澄ましながら体を休ませていく。森はもう、怖いものではなくなった。いや、怖れてはいる。いるが、森は理不尽なものじゃない。僕がここにいることが間違っていて、だからこそ歪な僕は、正常な世界が怖いんだ。四面四角の石が並んで動き回っている中に、丸い粘土を落とし込めば、粘土はいずれ潰されて四角くなるだろう。


 誰かが僕のことを見つめている。無遠慮なじろじろしたものではなく、僕との出会いのその先に不安を感じているような、躊躇いがちなものだ。何をするのでもない。放っておくことにした。それからどれくらいの時間が経っただろうか。


「火は消した方がいいだろうか?」


 真後ろに近づいた気配に問いかける。息を飲むような音がした。


「貴方は、怖れていないの?」


 深い年月を感じさせる女性の声だ。


「君はもう、怖くないよ。ただ畏れている」


 僕は火を消した。もう夜になっている。赤い光が消えれば、残っているのは僅かな月光のみ。どこかで梟が鳴いた。


「今まで、魔物たちから僕を見守っていてくれてありがとう。枯れ木の魔女。いや――ルリアちゃん」

「……気づいていたのね」


 さくり、とすぐ近くで土を踏む音がした。肩に手が触れ、それから、背中側から抱きつかれた。なんとなく、違和感を覚えた。


「温かくない?」

「ええ。だって、魔女が温かいなんておかしいでしょう?」

「まあ、魔女らしくないね」


 なんの理由にもなっていない返事に、思わず笑う。説得力だけ飛びぬけている。


「もう、寂しくないのかい?」

「もちろん」

「そっか」


 僕の胸元で交わっている二本の腕に視線を落とした。黒のローブから覗く手首は、ローブが夜の闇と一つになっていることも相まって、ぼんやりと浮かんで見えた。


「女性の肌を見るものではないわ」

「失礼したね」

「ええ。あのね……お礼を言いに来たの。枯れ木から私を救い出してくれてありがとう。今こうして、人間らしく話せているのは、あなたのお陰だわ」

「自由になれたのかな」

「ええ。自由。素晴らしいことかもしれないし、辛いことかもしれないけれど。今の私は、間違いなく幸せ。ありがとう」

「どういたしまして」


 ルリアは僕の耳元に口を寄せて、ぼそり、と言葉を落とす。


「自由ってことは、何してもいいのかなー」


 その言葉に首筋が粟立つ。否定する気も起きないけれど、否定しなければならない気がした。


「縛られていなくとも、人は自分を律するよ。魔女にそれが通用するかは知らないけれど」

「そうね。とりあえずは、貴方を守ることにするわ。だって、それこそ自由らしいじゃない?」

「君にとっては、というよりも魔女にとってはそうなんだろうね」


 僕はため息をついた。くすくすと耳朶をくすぐる声がいやに艶っぽくて、悪い予感を加速させる。ああ、魔女っていうのは、本当はこういう生き物なのか。なんとなく頭をがりがりと掻いた。

 お互いに何も言わずに時間だけがしばらく流れてから、ルリアが言う。


「どうして、私が枯れ木の魔女って気づいたの?」

「君が、というよりも、まず最初に魔女そのものに疑問を感じていて、いろいろ仮説を持っていたんだ。君を助け出している最中は余裕がなくて考えられなかったけれど、不死鳥の夢から出たときに、君がいなくなっていて、そこではっきりとわかった。皆が皆、枯れ木に閉じ込められているわけじゃなくて、ほとんどは森のどこかでひっそりと朽ちていくのだろう?」

「ええ。不死鳥の夢にいたのは、ある意味幸運だったわ。長らく誰にも気づいてもらえなかったわけだけれど、それはご愛嬌ね」

「辛かったかい?」

「ええ、私は辛かったわ」

「そうか」


 やっぱり、魔女はそういう生き物なんだな、と思った。嫌いじゃない。

 ルリアに身の回りの世話を焼かれ、いろいろな話をして時間を潰し、二日目の夜までを過ごした。限界まで深く沈んだ黒い空に、不死鳥と過ごした時間を思い出す、茜色の光が突き刺さった。


「もうこんな時間なのね。楽しかったわ。お暇しようかと思ったけれど……最期まで、一緒にいようかしら?」

「遠慮しておくよ。一人じゃないと意味がないだろうし、ルリアの『さいご』がいつまでなのか見当がつかない」

「あら、賢い。そういうのは苦手だわ。それじゃあね」

「うん、さようなら」


 終始僕の前に姿を晒すことのなかった枯れ木の魔女ルリアは、僕からぱっと手を放すと、軽やかな羽音をお供にその気配を消してしまった。寂しさは感じない。吹き抜ける風の一つ一つを呼び止めないように。流れるように、興味の赴くままに、自分のために。それが、多くの魔女の本来の在り方なのだと思う。例外はある。


「珍しいな。いつぶりであろうかね? 人間が来るなんざ」


 朝の静謐な空気を、氷のように冷たい声が震わせた。

 とうとう、来た。現れた。心臓が急に跳ねだし、胸を内側からがんがんと叩く。血が頭と胸を忙しなく行ったり来たりして、首とこめかみがびりびりと痺れる。過呼吸になりそうな息に、喉が細くなっていく。それでも、なんとか言葉を絞り出した。


「初めまして。僕はメルンと申します」

「メルン……いい名前じゃないか。私が永訣の魔女。メルン、何を望む?」


 僕の視界いっぱいに、青い虹彩の瞳が映った。思わず仰け反るも、変わらず同じ大きさの瞳が目の前にある。

 逃げ切れない。死を連想しながら、途切れ途切れに言う。


「過去を、過去をやり直したいです」

「やり直して、どうする?」

「どうするか、じゃないんですよ。過去をやり直すことに意味があるんです」


 瞳孔がすっと小さくなった。汗で滑る手の平を、服の裾で拭った。


「愚か者め……。ただ言葉を交わしただけで、無条件に魔法を与えられると思うんじゃないね。永訣の魔女を何と心得る?」

「見送る者、慰める者、葬る者。魔女を救うための魔女です」

「そうか。そう思うかね」


 至近距離で僕の目を睨みつけていた永訣の魔女は、跳ねるように後ろに下がり、そのまま宙に腰かけた。黒いローブの裾がはためく。つばの広いとんがり帽子を目深に被り、僕からでは顔が見えない。

 永訣の魔女が何かを言おうとした、その機先を制すように言葉を放つ。


「あなたですか? プリンシパルを庇護した魔女は」


 ぞくり。

 永訣の魔女が放つ空気が威圧的なものに変化した。今すぐに背を向けて逃げ出したくなる恐怖に、腹の底から力を絞り出して、正面から立ち向かう。


「これまで見てきたもの。それらのうち一つでも欠けていたのなら、気づかなかったかもしれません。しかし、森を旅する中で、様々なものに出会い、考えさせられてきました」


 なぜ、詩人プリンシパルは、森の悪しき点ばかり歌にしたのだろう。本人は森に住んでおきながら。

 なぜ、個人差がある魔女たちは、一様に同じ行動をとるように感じられるのだろう。

 きっかけは、この二つの疑問だった。そして、個性的な魔物たちの振る舞いと、逆に、個性のない魔物たち。簡単なことだったのだ。個性の有無、プリンシパルの意図。これらは、一つのキーワードに繋がっていく。


「森を守る。そうですね? 人間と森は、戦争をしている。人間の兵士が開拓民ならば、あなたたちの兵士は、理性の無い魔女や魔物です。きっかけを得て、理性を取り戻した魔女や魔物は自由で利己的に振舞います。これが、魔女や魔物が持つ二面性です。理性ある魔女や魔物と結託した人間は、森にとっては厄介です。だからこそ、それらとのコンタクトを絶つよう、あなたはプリンシパルを通じて、魔女の負のイメージをばら撒きました。しかし、プリンシパルは優しすぎた。迂闊に森に入った人間が死ぬことを良しとしなかった。いや、それだけではない。彼は魔女の孤独もまた知っていた。だからこそ、中途半端に警告するような歌になった。――違いますか?」


 永訣の魔女は空中で、腕を組んでより深く俯いた。


「それは、あの不死鳥に入れ知恵されたのかい?」


 低く、相手に沈黙や嘘を赦さない色を孕んだ声だった。


「スウェルですか? いえ。自分で考えたことですよ」

「ほう、スウェルが名前を教えたかい。それじゃあ、魔女の行動も既に理解している、といったところかね」

「ええ。魔女は、自分が女の子だから、本質的には寂しいんですよね。そして、理性を失っている割に、人との関わりに不安や恐怖を抱いています。おそらくは、もともと人間であったがために。だから女の子を捕まえたら、同じ魔女にします。他の生き物は、ちょっと怖いので、魔物なんかにして遠ざけてしまいます。それでも、たった一つの楔から逃れられません。元の肉体を縛る森からの、森を守るための命令。永訣の魔女。あなたは、楔から解き放たれ、同時に様々なものを失った、自由になった魔女たちの心を慰め、ときには葬り見送ってきた。それこそが、永訣の魔法です。違いますか?」


 永訣の魔女が、感嘆の声を上げた。


「そこまで理解しているのかい。そうさね、情報は武器だ。それで交渉しようっていうのかい?」

「ええ。僕は、この情報を使って、森の敗北を早めることが出来ます。あなたはそれも、そして今ここで僕を殺すことも望まない。それですよね?」


 チッと舌打ちの音が響いた。永訣の魔女は苦々しげに、口の中に籠った声で言う。


「永訣の魔法は嫌いさ」

「それでも、お願いします」

「過去を変えてどうする」

「どうするか、なんて問題じゃなくなってしまったんです。変えるためだけの存在に、僕はなってしまったんですよ。過去を変えないと、僕はもう未来を生きていけない」


 いや、本当はそれすらも望んでいないのかもしれない。過去の世界に戻り、過去を変え、そのまま生きていたいと思っていた。けれど、今はそうとは言い切れない。そう言い切ってしまうのが怖い。


「気狂いさね。賢くて、気を違えている」

「いいえ、普通ですよ。それどころか、ただの弱い心の持ち主です」

「永訣の魔法は、未来を奪う」

「構いません、失ったのなら、それまでです」


 永訣の魔女は苦悩するように、頭を抱えて何度もかぶりを振った。永久を生き、他者との永訣を何度も知るこの魔女は、未だに心が擦り切れていないらしい。なんて優しいのだろうか。なんて強いのだろうか。


「何故、何故人間っていうのはそうなのさ。何故、人間の命はこうも軽い! ええい、いつに戻りたいのか言え。さっさと過去に叩き込んでやる。小賢しいやつと話すのは気分が悪い。なんだ、その悟ったような目は! まだ数十年しか生きていないだろう、大した別れも経験していないだろう! もっと、生きようとしろよ、してくれよみんなぁ!」


 叫びながら、永訣の魔女は手を高々と掲げた。その指先に、木々から集めたような緑色の光が灯る。涙滴型のそれは、永訣の魔女が手を振り下ろすと同時に、僕の胸元にゆっくりと飛んでくる。

 かわそうと思えば、簡単にかわせる速さ。僕は、永訣の魔女に言う。


「ごめん、ありがとう」


 フランの、あの表情が重なった。ごめん、約束を果たせるか、わからない。

 光が触れた。



◇◇◇



「なあおい。コハブが森に行ったらしいぞ」


 あの日の記憶は、いつもここから始まる。とりたてて思い出す必要もない日常の延長線に、ひょいとその言葉は挟まれた。村の大人がそう言ったのを、僕は聞いた。僕の人生に、はっきりと境界を刻んだ言葉だった。

 これが永訣の魔法か。僕は、過去に僕自身が聞いたものと一言一句違わぬ言葉をかけられている、幼き日の僕を眺めていた。まるで存在を極限にまで薄めてしまった亡霊のように、言葉も発せず、誰からも認められずにその場にいる。

 小さな僕は走り出す。自分の家に帰って、父から貰ったばかりの練習用の短杖を、自室の引き出しから取り出した。僕はため息をついた。半分失っているような存在の中で、胃の痛みだけが、やけにリアルに自己主張している。だめだ、それじゃあだめなんだよ。叫んでみようとしても、喉が声の出し方を忘れてしまったように、固まって動いてくれない。

 ああ、くそ。これでまさか終わりというわけじゃないよな。ちゃんと、やり直せるんだよな。

 一縷の望みにかけ、今目の前にあるものを、ただの嫌らしい記憶の再生として、ちょっとだけ他人事ぶって眺めることにする。

 小さな僕は、見るからに貧相な頼りない杖を、さも伝説の剣でもあるかのように携えて、走りだした。行先は、近所の小さな小屋のような家。そこで僕を待っていたのは。


「あれ、メルン。そんなに慌ててどうしたの? 変なものでも拾ったの? 捨てなさい。いいね?」


 当時の僕より、一つだけ年上で、それなのにお姉さんのように振舞う、きりりと吊り上った気丈そうな眉が印象的な女の子。リヨ。それがこの子の名前であり、片思いに終わった僕の初恋の相手の名前だ。まだ思春期の一歩手前ということもあり、彼女の方が体も大きく、心も強く、事実姉のように頼れる存在だった。恋の中に、憧れがたっぷりと混ざっていたような気がする。

 僕を叱るときの一歩手前の表情にたじろぎながらも、小さな僕は言う。


「コハブが森に行ったんだ。魔女が来ちゃうかもしれない」

「コハブが? 大丈夫なの? どうして? 誰か探しに行ってる?」

「いっぺんに訊かれても……」

「ほら、うじうじしない! 知ってること教えて」

「うん。コハブが森に行って、まだ誰も助けに行ってなくて。理由はよくわからないんだ。普段からなんだか『俺は特別なんだから』とか言っていたから、そういうのかもしれない」

「そう……で、なんでメルンは私のところに?」


 そう訊ねられて。

 あの日の僕は、躊躇ったんだ。コハブはいけすかないやつだったけれど、友だちだった。だから、言いにくかった。「コハブは、リヨのことが好きだったから、魔女がリヨを追っかけるかもしれない」って。好きな人のことを言いふらさないというのは、子ども社会で一番といっていいくらい大事なルールだ。緊急時にそんなこと言ってられないだろうけれど、子どもだったあの日の僕は、普段との違いをしっかりと分けることができなかった。

 だから。

 何もできなかったんだ。


 壁から、魔女が生えた。


 比喩でも見間違いでもなく。小さな僕の現実逃避のための妄想なんかでもなく、物理的に、リヨの背後の壁から魔女が生えた。まるでそこに、人一人がぎりぎり通れる穴が空いていたかのように、空間をこじ開けて、醜い老婆が這いずり出でる。見ただけで背筋が凍る醜悪さ。骨などないかのような、軟体じみた動き。何より、意志が全く宿っていない虚ろな瞳と、それに不釣り合いに豊かな表情。今見ても、ただひたすらに気味が悪い。

 事実。小さな僕は恐怖を通り越した驚きにあんぐりと口を開けているだけで、魔女の存在を受け入れられていなかった。その様子に異常を察して振り返ったリヨの反応は素早かった。僕の手を引き、走って家から飛び出そうとした。


 リヨ一人だけなら、逃げ切れたんじゃないだろうか。記憶を辿っても、今見ても、同じことを考える。よろけて足を止めた小さな僕につられ、一緒によろめくリヨ。その体に、追いかけてきた魔女の手が伸びる。小さな僕はそこで動き出した。

 杖を振り、覚えたばかりの魔法を放つ。子どもの力で石をぶつける程度の威力。今の僕から見れば、だからなんだというほどの効果しかない。けれど、当時の僕にとっては、唯一持っていて、そして、手にしたばかりの最高の力だ。もちろん、魔女はひるみもしない。ただ、一つだけ劇的な効果を生み出した。

 魔女が、僕に敵意を向けた。いや、殺意と言った方がいいかもしれない。明確な害意を持って、僕の首に魔女の手が絡み付いた。目の前で、あの日の僕が締め上げられ、顔を紫色に染めていく。

 ああ、そうだ。そのまま僕一人が死んでしまえば、それで終わったかもしれないんだ。見捨てて逃げてくれれば、もしかしたらリヨは助かったのかもしれない。けれど、リヨはそんなことを良しとする性格じゃなかった。そうだよね。

 細い、少女の腕で。リヨは、僕の首を絞める魔女を殴った。といっても、叩いたっていうくらいの音しかしない。


「メルンから、手を放しなさい!」


 悲痛な声だった。魔女の存在感に脚を震わせながら、何度も何度も殴打する。

 ぬるり、と魔女の指が小さな僕の首から剥がれた。虚ろな瞳がゆっくりと動き、リヨを捉える。びくり、と細い肩が跳ねた。

 リヨは視線を彷徨わせ、近くに立てかけてあった箒を手に取った。その柄を、魔女に向ける。もう泣きそうな顔をしているし、箒を握りしめる手は力んで真っ白で。

 いいよ。もういいよ。あの日の僕なんて、切り捨ててくれて良かったんだ。最悪を避けるチャンスは、いくらでもあったはずなんだ。それを出来なかったのは、僕が馬鹿だったからなんだよ。

 僕の声は、届かない。

 魔女の手が、箒の先端に触れた。乾いた木の棒の先端に、一枚の葉が生まれいずる。木はめきめきと若さを取り戻し、うねり、伸び、枝を根を広げた。


「うそ、なにこれ!」


 リヨが箒を捨てようとした。その手にがっしりと木の根が食い込んだ。瞳が恐怖と驚愕に彩られる。

小さな僕はもがき、リヨを助けようと起き上がろうとした。が、腹に先の尖った靴がぐりっと食い込む。地面に縫い付けられるように、弱っちい子どもの体は、足と地面に挟まれて自由を失った。

涙や吐き出したものなんかで汚れた顔で見上げる僕の目の前で。

禍々しい一本の植物は。

リヨの体を飲み込んでいった。

助けを求めるように虚空に伸びた手を、二本の枝がぎりぎりと螺旋を描いて包み込んだ。

ごきり。聞いてはいけない音がした。


「メルン、逃げて!」


 耳に届いたのは、そんな声だった。

 一度見たはずの光景なのに。この結末は知っているはずなのに。


「うわああああああああああああああああああっ」


 二つの悲鳴が重なり合って、僕の頭で反響する。

 ああ。



「なあおい。コハブが森に行ったらしいぞ」


 僕は上から降ってきた言葉に、思わず目を瞬かせた。ぼんやりと見上げると、僕よりもずっと背の高い男性が、困ったような顔で僕に言う。


「なんだよ、早速涙なんて流して。まあ、お前とコハブは友だちだったからショックかもしれんが……」

「あれ」


 僕は目の端を伝う液体を拭った。

 そうか。ここからが、本番なのか。僕は今、あの日の僕だ。あの日をやり直す、永訣の魔法が始まった。

 僕は目の前の大人を呼び止める。


「ねえ、プリンシパルの歌って、ほんとうのことなんだよね?」

「ああ、間違いない」

「大変なんだ! コハブはリヨのこと好きって言ってた。魔女がリヨを追っかけるかもしれない!」


 村の中で頼りにされている、働き盛りのしっかりとした体のその男性は、驚いた様子ながらもすぐに頷いた。


「わかった。村中の大人と、滞在している魔法使い様にも呼びかけて、みんなで集まろう。俺はリヨの家に行くから、メルンは他の大人たちに、リヨの家に向かうように呼びかけるんだ、俺の名前を出して説得するんだぞ」

「うん!」


 男性は本気で走り、リヨの家に向かって駆けて行った。魔女を相手にするのに、魔法使いがいないのは心もとない。僕は大きな声で、リヨの身に迫っている危険と、男性が一人で助けに向かっていることを訴えながら、村中を走った。

小さな体のもどかしさ、張り上げても届いてくれない声の小ささに苛立ちながらも、大人同士で伝え合ってくれたこともあって、多くの村の大人がリヨを守るために動いてくれた。

 太ももが痙攣するくらい必死で走り回り、僕もようやくリヨの家に辿り着いた。そこで僕が見たのは、目を白黒させながらも、大人に囲まれて家から出てくるリヨだった。


「リヨ、大丈夫だった?」

「うん、魔法使いの人たちがなんとかしてくれたけど……魔女って本当にいたんだね」


 どうやら、無事に魔女を追い払うことに成功したらしい。

 魔女は恐ろしいけれど、一人で村を壊滅させるほどのものじゃない。ならば、村人が総出でかかれば、魔女を追い払えるはず。僕の考えは上手くいったようだ。安堵の息をつく。


「あー、リヨとメルン。しばらくの間、リヨは村の大人たちが交代で見守ることになった。魔法使い様も協力してくださるそうだ」

「あ、ありがとうございます」


 そう言って頭を下げるリヨが心細そうに見えた。なぜだろう、心に小さな引っ掛かりを覚える。考えてみて、気づいた。

 小さかった僕にとって頼れるお姉さんだったリヨは、今の僕にとってはやっぱり、ただの小さな女の子なのか。ずっと、大人になってからも、リヨは僕より賢くて気丈な女性のイメージだった。けれど、大人の思考のままでこの日をやり直す僕の方が、当たり前だけれど、大人なんだ。だから、イメージと今感じるもののギャップに戸惑っている。

 僕は、リヨの手を握った。リヨの視線が、繋がれた手と僕の顔を行き来する。


「出来るだけ、一緒にいるから」


 リヨが俯いた。


「なんかメルン、変。急に大人っぽくなった。無理してるでしょ?」


 そう言って上げた顔は、いつもの「お姉さん」という雰囲気に戻っていた。僕は笑った、これでやっと、やり直したかった場所を無事に終えることができた。でも、胸に湧き上がるのは、達成感とかそういうものじゃなくて。

 僕はリヨの手を、少しだけ強く握った。


「うーん、心配だな。元気だしなよ」

「うん」


 こういう人生であったなら。あのとき、今のように出来ていたのなら。

 過去をやり直せば、後悔とかそういう感情が鎖を解いてくれると思っていた。けれど、繰り返した今なお、より一層強く僕を捕らえて離さない。痛みが消えてくれない。


「メルンは将来、どうするの? 魔法の勉強してるから、街で働くの?」


 二人一緒に寝られるように手配された部屋で、毛布にくるまりながらリヨが言った。


「うん、お役所で働こうと思って」

「そっか。ねえ、私もついて行っていいかな?」


 その言葉に、僕は目から溢れ出す涙を止めることができなかった。


「……ごめん」


 なんとか、言葉だけは震えずに言うことができた。

 そんな僕に、リヨはことさらに明るい声で。


「いいよ、わかってるから。メルンはさ、へなちょこだし優柔不断だし、いろいろと心配だからね。見守ってあげようかと思っただけ」

「うん」

「ねえ、メルン。本当は、わかっているんでしょ?」

「……うん」

「これは、所詮は幻想。本当の過去なんかじゃない。魔法には相応の代償が必要なんだから、過去の世界を作ろうとすれば、今と未来を生きるもの全てを代償に捧げなくちゃ」

「わかってるよ」


 リヨの声が揺れた。やめてくれよ、そんな、悲しそうに哀しいことを言わないでくれ。


「メルンは、私のいない世界で。いろんな人に出会って。仲良くなって。そうやって生きていくの。心配だけど。だけど、一緒にいてくれる人、ちゃんと見つかったんでしょ」

「うん。こんな僕でも、一緒にいてくれる人に、ちゃんと出会えたんだよ。心配ないよ」


 フランが、僕を待っている。

 リヨが目の前で死んだ瞬間に、その日を目指して逆向きに回っていた時計の針が、やっと未来を描き始めたんだ。


「それじゃあ、ちゃんと帰らなきゃ」

「リヨ。ありがとう。そして、ごめん。もう過去は引きずらないけれど、リヨのことは絶対に忘れない。この感謝の気持ちも、この罪悪感も、リヨを好きだったことも、全部抱えて、フランと未来を生きていくよ」

「あとで必ず、その子に謝っておきなさい」

「うん」


 リヨは毛布から体を起こすと、僕のそばに来て、頭を撫でてくれた。涙で崩れそうな心に暖かい風を送り込んでくれる。きっとこういう未来もあったんだろう。

 失って、改めて大事なものを得て。でも、失ったものは返ってこない。

 改めて、後悔だらけの人生だ。


「それじゃあ、ね」

「うん、さようなら。幻想の中だとしても、会えて良かったよ」


 そう言った僕の唇に、柔らかいものが触れた。


「これくらい許してよ? 羨ましいのを我慢してるんだから。――生きて」


 最後に僕の心に残ったのは、薄闇の中に映える、悲しいくらい美しい微笑みだった。



◇◇◇



 自分の中から何かが喪われる感覚がした。胸の内に眠っていた、熱い何かが、すっと抜けて行ったのだ。僕はなんとなく、それの正体がわかった気がした。

 幻想から帰ってきた僕に、永訣の魔女が複雑な表情を見せた。


「これは、とんでもないね」

「二つだけ、いいものを持っていたんです。それのお陰で帰って来られました」

「お人よしが森に増えると、ろくなことがないね」

「そうですか? 魔女ももっと心安らかに生きていける気がしますよ。それこそ、永訣の魔法の世界で、狂気を和らげてあげなくとも」

「無理さね。森は人と戦う運命にある。世界の仕組みは変わらない。魔女は戦い傷ついて、プリンシパルも生き急いでくたばって、人間も墓標ばかり積み重ねた。変えられるものなら、変えてみたらどうだい?」

「それもまた、素敵な未来ですね」


 微笑んだ僕に、永訣の魔女は顔をしかめた。


「素敵すぎるじゃないか」


 その通りだ。

 もう、過去を目指して生きたりはしない。未来を見て生きていく。どんな未来だって、きっと素敵なものになるだろう。今、僕の帰りを待っていてくれるひとが、ずっと隣にいてくれる。

 フランと会ったら、まずは不死鳥にお礼を言いに行って、それから、フランとの約束を果たそう。たった一つ、なんでも聞くお願い。フランの言葉を思い出す。

「お父さんに挨拶してくれませんか?」

 素敵すぎるじゃないか。僕は顔をしかめた。




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