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「とは言っても、いまだに心残りがあるんだよ。青年のことだな。じくじくと、罪悪感が残ってやがる」


 村長のレグシは言った。


「よく頑張りましたね」


 いい話です、とフランが涙ぐんでいる。

 僕はチペロに視線を向けた。


「つかぬことをお伺いしますが、なぜ、チペロさんは未だに子どもの姿なのですか?」

「魔法の制約のせいだ。人間のために魔法を使ってしまった魔物は、成長が止まるんだ。チペロはもう、大人になれない魔物だ」

「これは、失礼いたしました」

「気にしてないよ」


 幼い声が聞こえた。まだ少年と少女が同じ声をしている頃のような、澄んだ音が頭に届く。


「君の声、なのかい?」

「うん」


 チペロに訊ねると、まっすぐな返事をされた。目の前の自分よりも大きな猿が、こんなに幼い声を出すなんて、と少しばかり驚かされる。


「え? メルン先輩、もしかしてチペロさんとお話しできるんですか?」

「こいつはたまげたな」


 フランと村長が感心したように、僕を見る。そういえば村人はチペロとは話せないと言っていた。で、僕は話せて、村長も話せる。共通点は――。


「僕も、レグシさんと同じように、魔物に名づけをしたことがあります。きっとそれが原因ではないでしょうか」

「パストラル君に名づけしたのは、メルン先輩でしたもんね!」

「名づけか。ひょっとすると、ひょっとするかもしれねえな」


 どこか間違った言葉づかいながら、村長は得心したように手を打った。


「なるほど、同士か。それで、どんな魔物に名づけをしたんだ?」

「オーガです」

「そうかオーガか。オー……は? よく行きてんな、お前」

「珍しく温厚でした。出会ったときは、僕も死を覚悟しました。お互い幸運でしたね」

「ああ。運が良かったな……それじゃあ、長話で疲れたろ。俺も長話聞くのは苦手なんだ」


 村長は僕らが長話が苦手だと決めつけて、宿の場所を説明した。開拓村に宿があるのは珍しい。旅人なんて想定していないからだ。きっと、元旅人の村長が作らせたのだろう。

 宿は他の建物と同じ、二階建ての長屋だった。ブロックを二列と二段くっつけて、長く横に伸ばしている。端のブロックだけドアが開け放たれていて、そこに中年の痩せた女性が椅子とテーブルを置いて編み物をしていた。


「すみません、旅の者ですが、ここが宿屋で合っていますか?」

「おや、お客さんなんて珍しい。合ってますよ、一番森の深いところにある宿屋です」


 そう言って、女将さんは年齢に似合わない、茶目っ気のある可愛らしい笑顔を見せた。


「私がここの女将で、唯一の従業員のマーヤです。宿代は、食事が朝晩つきで、一泊銅貨一五枚ですよ」

「や、安いですね! 家計の味方です」


 フランがきりっと鋭い表情を見せる。が、僕の意識は完全に別のところに向いていた。そう、女将さんの名前である。


「……マー、ヤ?」

「メルン先輩、どうしました?」


 フランが訊いた。答えようとして、一瞬変なやつだと思われないか心配した。けれど、マーヤさんはともかくフランは僕を馬鹿にしたりはしないだろう。勝手な確信を持って言う。


「マーヤ、と呼ぶ声を、来る途中の谷で聞いたんです。ほら、フランが落っこちた場所あっただろう? そこに僕が降りたときに、後ろから小さな声でそう言っていた気がするんです。聞き間違えかもしれませんけど」

「ああ、あそこですか! そんなの聞こえたんですか? 周りに誰もいなかったと思うんですけど」

「だよね」


 確かに聞こえた気がするのだけれど、何分森は変な声がしばしば聞こえるので、ただの偶然かもしれない。

 マーヤさんは僕の話を聞き、なぜか目元を真っ赤にしていた。


「もしかして、若い男性の声でしたか?」

「はい」

「やっぱり……ああああっ」


 地面に泣き崩れるマーヤさんに、僕は戸惑った。対照的に、すぐにフランはしゃがみこんで、マーヤさんの肩に腕を回して寄り添っている。心の底にじわりと滲んだ自己嫌悪に気づかないふりをして、さりげなく自分も片膝をついた。

 マーヤさんは声を震わせながら言う。


「きっと、クロアです。昔、この村に疫病が流行ったことがあるのです。みんな高い熱が出て、一歩も動けないような状態で。このままでは一人残らず死んでしまう、そう思うくらい、ひどい有様でした。そんな中、私の恋人のクロアが、一人で薬を買いに、森に行ってしまったのです。もしかしたら、無事に街までついたかもしれない。そう、一縷の望みをかけていたのですが……きっと、谷で死んでしまって、今も亡霊として森を彷徨っているのでしょう」


 村長の話に出てきた青年だろう。

 死者が亡霊になることは、森ではままあることだ。何ができるってわけでもなくて、人が現れるたびにうわごとを繰り返す。ただぶつぶつと、死ぬ間際の想いを空に吐きだし続けるんだ。生きているのか死んでいるのか。本人なのか、魂なのか、それともただの墓標なのかはわからない。ただ、見ていて胸が痛む存在だ。

 亡霊に対する考え方は人それぞれだ。亡霊となってもときどき会いに行きたいという人もいれば、この世界に縛られている姿を哀れだと思う人もいる。

 僕の腰に下げられている杖は、魔法使いの象徴だ。亡霊を祓うことができるのは、魔法使いと聖職者だけだ。僕はマーヤさんに訊ねる。


「あの、もし良ければクロアさんの亡霊をお祓いいたしましょうか?」

「いいのですか? あなたは、魔法使いなのですか?」

「ええ。街で魔法を研究する仕事に就いていました」

「お礼はあまりできないのですけれど……」

「お礼は、今夜の夕ご飯をちょっと贅沢にしてもらえればそれでいいですよ。ああ、せっかくなのでふっかけましょう。二人分、ちょっとだけ贅沢にしてください」


 僕の言葉に、マーヤさんが笑みを零した。


「ありがとうございます。是非腕によりをかけて作らせていただきます。よろしくお願いいたします」


 僕も小さく頭を下げた。

 マーヤさんは、クロアの亡霊の開放を願った。だからといって薄情というわけじゃない。僕が敢えて付け足した「街で」という言葉。これで彼女は、亡霊を祓うのにお金がかかることを覚悟したはずだ。こんな最前線の開拓村で宿屋なんて、ほとんど儲からないだろう。村として食事なんかは配給されるのだろうけど、現金は得難く大切なはずだ。それを死んだ人の為に払おうとしたのだから、彼女のクロアへの愛は本物だと思った。


「それじゃあフラン、行こうか。難しい魔法でもないからね。見て勉強するといい」

「はい。難しい魔法のはずなんですけどね……」

「言い方を変えよう。君にとっては難しくないはずだ。こういうので大事なのは気持ちだよ」


 フランは下手な聖職者より、よっぽど相手の不幸に親身になることができる。亡霊を祓う魔法に必要なのは、そういう気持ちだ。受け止め、共感してあげつつ、しっかりと追い払う。この三点をできるなら、あとは魔法使いなら誰でもできる。

 日はまだ高い。荷物をマーヤさんの宿に置いていけば、日が暮れる前には余裕で帰ってこられるはずだ。部屋に大きなリュックをおろすと、マーヤさんが着替えを洗っておいてくれると申し出てくれた。汚れた衣類を預け、杖と貴重品、水筒と携帯食だけ持ち、再び森に戻った。


 森を今までと逆方向に進んでいて、ふと、僕は地面に視線を向けた。気になってしまったのだ。なぜだろうか。来たときに、顔に見えていた三角形の光の点が、引き返して歩いている今でも、顔の形に見える。日が傾こうが真上から差そうが、地面に映し出される影の形は変わらないはずだ。

 木々の梢は、秘密主義者らしい。どれだけじっと観察しても、分厚い葉っぱの天井しか見せてくれない。なぜ、この地面には顔が描かれているのだろう。何のために、顔は常に僕らを向くのだろう。

 考えても意味の分からないことは、考えないに限る。魔女だってそうだ。村長の話で、魔女は魔物には優しいと出てきた。けれど、パストラルの話では、魔女はオーガに積極的に関わろうとしていなかった。

がくんと。何かにぶつかったように、唐突に。今までの魔女へのイメージが揺らいだ


 ――魔女は、ただの自然現象なんかじゃない?


 魔女によって、魔物への接し方が違うというのなら。オーガを恐れたり、猩猩に優しくしたりするのなら。魔女には、感情や個性があるんじゃないのか? いや、考えれば、今までにもわかることだった。永訣の魔女なんていう例外がいるってことは有名だ。それが例外なんかじゃなくて、それぞれの魔女に個性があると、気づくこともできたはず。

 魔女って、いったいなんだろう。

 いや、むしろ。なぜ、今までこのことを深く考えてこなかったんだろう。

 頭にざっくりと考えが刺さった。全身の血液が凍るようなショックを受けた。なぜだ、なぜ考えてこなかった。考えても良かったはずだ。こうして、わざわざ森に足を踏み入れているんだ。魔女について、深く考えて当然なんだ。


 ……何が、僕の心を縛っていた?

 指先がぴりぴりと冷たくなっていく。信じたものに裏切られたような気持ち悪さが、胃の底を締め上げて暴れている。体の内へ内へとムカデが潜り込んでいくような感覚にぞっとした。

 もしかして。彼は、隠してきたのか? 知ってはいけないものが、そこにあるというのか。

 握りしめようとした指の内側に、するりと柔らかいものが潜り込んできた。あたたかく、そっと力をほぐしてくれる。


「フラン?」


 僕は驚いて、繋いだ手の先を見た。心配そうな表情で、フランがじっと僕の瞳を覗き込んでいる。澄んだ球面に映る僕は、揺れていた。


「メルン先輩は、いつも、大事なことを話してくれません」

「それは……」

「私は、それでいいんだと思っています。メルン先輩はいつもいろんなことを考えていて、頭が良くて、私と違ってひとに心配かけたりしないんです。でも、そのせいで、メルン先輩がつらそうな顔してたら、意味ないじゃないですか。大事なことは教えてくれなくていいですから、つらいことくらい話してください。聞かせてください……」


 僕はいつから、この子にこんな顔をさせていたんだ。先輩ぶってしたり顔でアドバイスしたりなんかして、フランのことを見ていなかった自分を殴りたくなる。


「ごめん。話すよ、長い話になるから、後で話す。それでもいいかい?」

「はい、すいません。わがまま言っちゃって」


 フランは恥じ入るように首をすくめた。繋いだ手が、熱い気がした。

 手を放す気になれないまま、足を滑らせた場所にまで来た。ざっと見たところ、亡霊はいなさそうだ。念入りに探す必要があるが、きょろきょろすることもできない。慎重に視線だけを上下左右に振る。


「あ」


 フランが僕の手をくいと引き、崖の、僕の腰くらいの高さの場所を指差した。そこにはただ岩があるだけ……、いや、土に半分以上埋まっているが、人の顔の形をしていそうだ。杖を振り、風を起こした。土をぼろぼろと削っていく。完全に土から掘り出されたその姿は、精悍な若者の頭部を模した、人面岩だった。


「注意しよう、人面岩は動けない代わりに、物の重さを操る魔法を使う。強い風の日には転がって移動できるくらい、軽くなることもできるし、人を地面に押し付けて餓死させたり、崖崩れを引き起こしたりもする」

「そんなことはしない」


 人面岩が口を開いた。綺麗に響くテナーだ。

 僕は杖を向けたまま尋ねる。


「君の名前は?」

「クロア。開拓村で、農業をやっていた。まあ、その村も、私がこんなことになってしまったから、残ってはいないだろうが」

「君はなぜ、こんなところで、そんな姿になっているんだ?」


 クロアは石の出っ張りみたいな眉を寄せた。



◇◇◇



 勤勉にして誠実。だからといって愚直というにはやや曲がったところのある青年。それがクロアだった。

開拓村に流れ着いた人間は、多くが何らかの欠落を抱えている。それは協調性だったり、継ぐべき土地だったり、いろいろとあるものだが。いずれにしても、生きるに必要なものが欠けているから、弾きだされるように開拓村にやってくる。

 そんな中にあっては、クロアは正しく「不審人物」だった。何も欠けていないのだ。不自然なくらい、真っ当だった。流れ着くや否や、すぐに村長に挨拶をし、仮設の小屋に泊まり、初めの一週間で自分のために粗末な家を建て、次の週には森の開墾に手をつけていた。


 礼儀正しい。所作にも品がある。容姿も都会的に洗練された目鼻立ちをしている。良く働き、嘘はつかない。要領が良く、ささやかなズルもする。

 ありふれた「いい人」であった。いや、良すぎるくらいか。

 別に深い理由はないのだ。ただ、愛情を注がれて育つも家を継げない次男坊が、仕事にあぶれたままここまで流れてきてしまった、というだけのことで。

 そんな「普通」の青年に、開拓村で生まれ育った一人の少女が恋をした。村長の娘だ。


「好きだ。結婚してほしい」


 実に率直な求愛だった。未開の地を切り開く戦場生まれ戦場育ちの女は、どこまでも直線的だった。花を愛でることで間接的に自分の美しさを見せつけるでもなく、流行に乗り続けることで己の美意識を誇るでもなく。家事をするエプロン姿を、自分の最大の魅力とばかりにクロアに突きつけたのだ。

クロアは悩んだ。開拓村で年頃の娘と結婚できるなんて、またとない僥倖だ。それに、相手は村長の娘。この村でいっとう上等な相手になるだろう。それでもだ。都会で育った感性が、即答を躊躇わせた。


「えーと、婚約ということにしよう。いきなり結婚は早すぎる。気がする」


 なんとも間の抜けた返事をしたものである。問題の先送りにすらなっていない。結婚に同意してしまっているのだ。

 古参の村人に冷やかされる日々が始まった。最初は恥ずかしく、また、結婚を現実として受け止めきれていなかったが、慣れてくると、今度はこそばゆい幸せを感じた。村長の娘――マーヤは、最初の衝撃こそ冷めずとも、話せば話すほどに、その実直な人柄に惹かれていった。

 過酷な田舎らしい、誠実な夫婦ができようとしていた。が。

 そんな幸せは、いとも容易く吹き消された。


 熱病だ。


 ことの始まりは、クロアが開拓村にやってくるずっと前だった。たまたま風の強い年があった。たまたま、老木が倒れた。差し込んだ日の光を浴びて、真っ赤な花が咲いた。一抱えもある、細かな花弁に包まれた丸い花だ。ふわりと柔らかく、甘い空気をたっぷりと含んでいて、滴り落ちるほどの蜜を育んでいた。蜜に蟻が群がり、あっという間にその数を増やした。その蟻を餌に、毛の生えていない、赤眼のアリクイが森に湧いた。毛の生えていないアリクイは、血を吸うカメムシの恰好の餌食になった。増えたカメムシは森中に散らばっていき。ことごとく、村人を刺した。それらは村人の手ですぐに駆除されたが――なにかが、村人の体に入り込んだ。

 半年後。一人の男性が熱を出し倒れた。彼は最も幸運な病人だった。何故なら、看病を受けられたのは彼だけだったから。あっというまに村全体に熱病は広まった。誰もが、村そのものが死の口に放り込まれようとしていた。


 きっと魔女なんかが空から村を見下ろしたらば、そのしわだらけの首を傾げたことだろう。炊煙の一本も立たない、静かな村の空だった。ちぎれた雲が一つだけ、もの寂しげに浮いていた。

 クロアは日々体が重たくなっていく中で、ひとつの予感を得た。それに突き動かされ、村長の家を訪ねた。マーヤに会うためだ。


「マーヤ、もうだめだ。助かる気がしない。寝ていても、ちっとも良くならない」

「馬鹿言うな。一番若いクロアがそんな弱音を吐いてどうする」


 意地でそう口にしたものの、マーヤの体は横たわっていて、シーツは汗でじっとりと湿っている。やせ我慢もいいところだ。クロアはマーヤの手に触れた。汗ばんでいて、冷たかった。だから。クロアの決意は、固まった。


「そうだ。意地の見せどころ、だ。村長に伝えておいてくれ。クロアは、薬を買うか、薬師を連れてくると。隣の村に行ってくる」

「やめておけ」


 即答だった。森の恐ろしさを知るからこそだった。


「大事なものが出来てしまってな。それに……死ぬのはごめんだ」


 クロアもまた、熱病の恐ろしさを。日に日に動かなくなっていく体への恐怖を知っていたからこそ、頑なさを見せた。


「大丈夫だ。ちゃんと帰って来る」


 帰ってくるあてなど無かった。熱病が流行っているとみれば、隣の村から放り出されるかもしれなかった。最悪、隣の村も熱病で全滅しているかもしれなかった。なにより、ふらつく体で森を無事に抜けることは至難の業だった。それでも、クロアは言った。最近仲良くなってきた婚約者を安心させるために。


「帰って来てくれないと、私はずっと独身でいるぞ」

「それは困った」

「だから帰れ。無事に帰って来てくれ」


 濡れたタオルを顔に押し当てているのは、熱を冷ますためだけだったろうか。目元を隠してしまったマーヤの声にだけ見送られ、クロアは村を旅立った。

 森を歩く。隣の村に行く道中は、谷になっている。坂道を、坂に沿ってスプーンで抉ったような形をしている。クロアの村から真っ直ぐ行こうとすれば、スプーンを差し込んだ場所にあたる断崖にぶち当たり、進めなくなる。逆に、隣村から真っ直ぐ来ようとすれば、崖で足を踏み外すことになる。だから、崖の外周をよくよく注意して進むのだ。


 油断していた。いや、張り詰め続けるほどの気力も残っていなかった。

 ぐらり、と平衡感覚を失って、それが足を踏み外したのだとクロアが理解したとき。もはや、後悔する時間も、村を思い出す時間も。そして、マーヤの顔を思い出す時間も残っていなかった。転げ落ちて振り返ったクロアの目の前にあったのは、醜悪な老婆の顔。黒いぼろ布のような衣に身を包んだ、やけに顔の大きな老婆が、目と鼻の先にいた。

 ぎょっとすることも出来ず。ただ目の前の恐怖と相対したクロアは、刹那の生を噛みしめるように、ぼやいた。


「ああ、死にたくない……」


 果たして、願いは聞き届けられた。クロアははっきりとした意識を取り戻した。クロアはクロアのまま存在していて……その体は、ただの石になっていた。


「薬を、薬を買いに行かなくちゃ……」


 動けない肉体に気づく。それは、絶望との出会いだった。


「足をくれ、走らせてくれ! 鶏でも小鬼でも、蛙のでもいい。なんでもいいから、薬を買いに行く足をくれ!」


 叫んだ。禍々しいことを叫んだ。それでも、何も起こらなかった。ただ、歯を食いしばって過ごす時間が過ぎていくだけだった。

 婚約者の名を忘れないように。人の心を忘れないように。ただ、一緒に愛に触れようとしていた、ただ一人の女性の名を呼んでいた。崖で足を踏み外した人を救うだけの、路傍の石と成り果てて。



◇◇◇



「思えば……土壇場で死にたくないなんて願った、私の自己中心さ、我が身可愛さが村の全滅を招いたようなものだ。もしあそこで、あくまで薬への執念を燃やしていたならば、あるいは、歩く薬草くらいにはなれたのかもしれないな」


 クロアは自嘲するように、ふっと笑った。僕はそれには何も言わず、ただ訊ねる。

「村に帰りたい「無理だ。帰る村はないし、私は魔物だ」

「帰りたいか、とだけ訊いている。マーヤさんに会いたくないのか?」

「生きているのか⁉ 会いたいに決まっている!」

「君の村は、とある魔物を連れた旅人が起こした奇跡によって、みんな生き延びることができた。マーヤさんも生きているよ。それに、魔物が普通に村長の家にいるから、きっと、君が行っても大丈夫だ」


 クロアは目を閉じ、岩の隙間から澄んだ湧水のような涙を流しながら、空に吠えた。数十年の哀しみの重みが、宙に広がり、溶けきらずに漂っている。


「軽くなれるはずだ。運ぶから、重みを減らしてくれ」

「なぜ、私に親切にする? マーヤに頼まれたのか?」

「それもあるんだけどね。この子を助けてくれただろう?」


 僕は拾い上げたクロアを、フランの方に向けた。手の中で、またクロアから水が滴り落ちる。


「良かった。いいことは、してみるものだ」


 僕らは一度、スケさんたちがいた村に戻ってから、すぐに反転してマーヤさんが待つ開拓村に向かった。


「そういえば、クロアの魔法は何を代償にしているんだい?」


 僕は、ふと思いついたことを訊ねてみた。


「記憶だ。でも、いつの記憶かは選ぶことができる。森で一人、何十年も暮らしてたんだ。要らない記憶は、掃いて捨てるほど、たんまりとある」

「なるほど」


 魔物の生い立ち、魔法を使う魔物、人から成った魔物。これらの仕組みが、少しだけわかった気がした。

 クロアを連れて帰った先の村では、見たこともない人たちがずらっと並んで、僕らを待っていた。何時間かけたかははっきりしないけれど、前後の村で往復したのだ。かなり時間がかかっている。既に日は朱を帯びているのに、多くの人たちが、真剣な表情で、帰ってきた僕らを見ていた。

 緊張と人掬いの安堵が、奇妙なバランスで張り詰める空気の中。一人の女性が僕らの前に歩み出た。


「……マーヤ、か」

「クロアか? 本当にクロアなのか?」

「すまない。こんな姿に、なってしまった。もう、私は、人間じゃない」


 マーヤさんは僕の腕からクロアを受け取り、その胸に抱きしめた。


「クロア、クロア。生きていてよかった」

「そっちこそ。生きていて、本当に良かった。それにしても、照れくさいなこれ」


 一頻り涙を流してから、マーヤはクロアを自分の視線の高さに持ち上げた。視線をしっかりと合わせ、微笑む。周囲の人たちなんて、まったく目に入っていない、二人だけの優しい時間があった。


「クロアは変わらないんだな」

「なにせ、岩だ。それに、いつだったか、ずっと昔に、崖に落ちた人を助けたことがあるんだ。それから、成長が止まっている。君は変わったな」

「ごめんね。おばさんになっちゃった」

「結婚はしたのか?」

「してるわけない。できるわけない……」

「どうやら、待たせたみたいだな。魔物になってしまっているけど、それでもいいなら……」


 ふと、クロアは慌ただしく視線を彷徨わせた。

 熱い話をしているな、とにやにやと眺めていた僕らと視線が合い、一層慌てた表情をする。マーヤさんも気づいたようで、ひどく焦って周囲を見渡した。

 二人を囃し立てるように、口笛が響いた。レグシ村長が、晴れやかな笑顔で指を口に当てている。村長が祝福したことを皮切りに、出迎えに来ていた村人全員から、歓声と口笛、手拍子が一気に突き上がって弾けた。降り注ぐ祝福に添えて、僕も魔法を紡ぐ。さあっと振りぬいた杖の先から、花びらが吹雪のように舞い散る。色とりどりの花吹雪に包まれた二人に、いっそうの歓声が沸き立った。


「ありがとうございます! 本当にありがとう!」



◇◇◇



 夜。畑の柵に腰かけ。薄ら寒そうな月を見やりながら、ぽつりぽつりと、フランに話していた。昔あったこと、今も昔に囚われていること、魔女と魔物について気づいたこと。フランはその一つ一つにしっかりと頷き、深く共感して聞いてくれた。その優しさに、胸の深いところを荒縄で締められるような痛みが走る。

 けれど、きっと、フランも同じような痛みを感じている。そう思えるほどに、青い光に照らされたフランの横顔は、深く傷ついて見えた。

 生ぬるい風が、僕らに気を遣うようにそろりそろりと逃げていくのが、なぜか無性に気に障った。自己嫌悪をぶつけているだけなのだけれど。

 フランの話も、聞くべきなのだろうか。そう思っても、自分から言い出すのはなんか違う。それは間違っている。

 フランも話すか話さないか迷っているのだろう。きっと、この話をした後では、する前には戻れない。決定的で、絶対的な線をここに引くことになる。曖昧なままがいいとは思わない。必ず、引くべきところにいつか線は引かれてしまう。けれど、僕自身の気持ちは曖昧なままで。

 認めたくないけれど、怖いんだ。

 優柔不断で、過去に引っ張られていて、未練なんて断ち切れないというのに。未来はあんなにも眩しい。


「ええと、先に謝っておきますね。ごめんなさい。今から、とっても自己中心的なこと言います」


 フランは、そう言った。

 彼女の瞳に、僕はどのように映っているのだろう。僕の目に映る彼女の様子は、それだけで、僕まで悲しくさせる。


「私は……」


 フランが何かを言いかけた、そのときだった。


「それは、どれくらいもつのだろう」


 すっかり日が落ちているというのに、クロアの声が聞こえてきた。それはただならぬ緊迫感に満ちており、フランは口を閉ざしてしまった。もともとフランが言い淀んでいたせいもあるかもしれない。ただ、クロアの声には、他のどんな音をも許さないような、厳しくも切実な雰囲気が乗せられていた。


「どのくらい、か。詳しくはわからないけれど、きっと君にとって大事なこと……マーヤさんと同じだけの時を過ごせるかというと、それには届かないはず」

「それはどのくらいになる? そう多くは望んでいないんだ。ただ、あまりにも短い時間になるなら…それは、あまりにも寂しい」


 フランが首を傾げた。空気感だけでは、彼が何を言おうとしてるのか全くわからないのだろう。ただ、悲壮だけが胸を打つ。僕は小声でフランに伝える。


「クロアとチペロが、なにやら大事な話をしているみたいだ。今日はもう、部屋に戻ろうか」


 フランは少しばかり躊躇うようなしぐさを見せてから、こくり、と頷く。


「頼む。あとあと、調整が出来るなら、最後に看取ってから私も。動ける体が無ければ、ただの邪魔な石になってしまう。私にもできることはあるはずなんだ」


 背中を追いかけてくる声を振り払うように、僕らは宿に戻る。なんともいえない、胸に沈殿する思いを抱え。

 清算出来ない過去。清算できない現在を抱えて、きっと僕らは明日も一緒に旅をする。

 翌朝、腫れぼったい目をこすって部屋から出ると、フランもまた腫れた目で部屋から出てきた。マーヤさんも目元が膨らんでいる。普通の顔をしているのは、抱えられているクロアだけだけれど、岩だから、やっぱりちょっとだけゴツゴツしている。お互いの顔を見て、みんなで小さく笑った。

 朝食のパンと卵は、久しぶりに食べるしっかりとしたタンパク質の味で、体に染み渡るようだった。単純だけれど、元気が湧いてくる。

 二人に今日また旅に出ることを伝えると、クロアが「ちょっと待っていてくれ」と言った。ほどなくして、チペロが現れる。


「君たちの荷物から、オーガの気配を感じる。角だろう? 是非、ブローチに加工させてくれ。せめてもの、恩返しをさせて欲しい」


 思わぬプレゼントだった。強い力を感じるものの、いまいち扱えていなかった角をフランが取り出し、チペロに渡した。チペロの手の中に生まれた、繊細な銀光。それで優しく角を包み込む。さあっと光が散った。そこには、銀の鎖と金の爪で止められたブローチが乗っている。あっという間に出来上がったブローチを、僕が受け取り、フランの首にかけた。緊張して息を止めている仕草を、今まで以上に意識してしまう。

「まあ、無骨なデザインかと思ってたけれど、綺麗な子がつけたらお洒落に見えるものね」

「お洒落なんだよ。私がデザインしたんだ」


 マーヤさんの言葉に、クロアがふてくされて答えた。それにも笑いながら、「ありがとうございます」とお礼を言った。


「礼なんて、よしてくれ。君たちがいなければ、今日という日は、なかった。本当に感謝してる」


 クロアの言葉に、マーヤさんとチペロも合わせて頭を下げた。

 宿屋の建物の陰から、村長も姿を見せた。差し出された手と、力を込めて握り合う。


「クロアさんのことは、俺の唯一の心残りだった。本当にありがとう。君たちの旅が無事に終わることを祈る」

「お世話になりました。興味深いお話も聞けて、為になりました。この村の一層の繁栄を祈ります」


 一度だけ小さく振り、ぱっと離した。

 少しだけ名残惜しさを感じながら、お世話になった人たちに大きく手を振り、僕らはまた、森に入った。

 きっと、クロアは体を得る。チペロの力で、石人形なんかの体を得ることだろう。錬金術師が研究している、ゴーレムのような。チペロは何事もなく、あっさりと生み出すはずだ。けれど、それを扱うクロアは、魔法の代償が求められる。


 ――永遠に近い、石の命を捧げるんだろう、きっと。そして、マーヤさんと共にこの世界を生きて、人と同じように死んでいくんだ。


 生きる為に、開拓村に来た。そのせいで、熱病で死にそうになった。村人を助ける為に命がけの旅に出て、力尽きた。そのために、石の魔物として命を存えた。そのことで、薬を買うことができなかった。けれど、石の魔物として生きていたから、マーヤさんに再会できた。けれど、それでは人と共に暮らすことが難しいから、命を削る体を望んだ。

 命は、皮肉の連続だ。

 フランと繋ぐ手は温かく。その温もりを受け取ることは胸を痛める。

 過去を変えたいと思って今を生きる僕の命もまた、大きく矛盾している。


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