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プロローグ

 女の子は森に入ってはいけないよ。魔女になってしまうから。

 男の子は森に入ってはいけないよ。魔物にさらわれてしまうから。

 大人は森に入ってはいけないよ。魔物にされてしまうから。

 森に入ってしまったら、振り向かないでまっすぐ歩こう。魔女が後ろをついてくる。

 森に入ってしまったら、好きなあの子は忘れよう。魔女がその子を追いかける。

 森に入ってしまったら。

 森に入ってしまったら。

 きっと、あなたは、諦める。

 森に入って、しまったら。



  ――――静かな森の童謡集 (プリンシパル)



 森に入ってしまったら、好きなあの子は忘れよう。

 僕は、子どもの頃から何度も聞かされたフレーズを口ずさんだ。

 鬱蒼と茂る木の葉の隙間からこぼれた陽射しが、真っ黒な地面にぽつりぽつりと、三つずつ光の点を描いている。幾つもの無表情な顔が、ぼんやりと口を広げて僕を見上げていた。つられるように、僕も緑の天井を見上げる。


 そよ風が僕の頬を撫でた。ざわり、ざわりと森が泣く。手のひらほどもありそうなクモが、ハリガネのように細長い脚をもつれさせながら、木の幹を慌ただしく駆け上がった。そのうしろをのんびりと、石ころみたいな、灰色のカエルが追いかける。

 上からクモが落ちてきたら嫌だな。そう思いながら、僕はずり落ちかけた、重たい大きなリュックを背負い直した。


 ふかふかの絨毯のような、腐った落ち葉が積もった地面を歩きながら、街に残してきたものを思い出す。母さんの介護は、姉さんがやってくれるはず。姉さんはおっちょこちょいだけれど、義兄さんはしっかり者だから大丈夫。職場の魔法開発局は、ベルトマン主任がいる限り安泰だ。無茶苦茶な人だけれど、優秀で面倒見がいい。後輩のフランは……どうだろうか。少しだけ心配だ。素直ないい子だけれど、その分純情で、騙されやすいところがある。


 落ち葉に少しだけ隠れた、腐りかけの枝をよけた。森でうかつに音を立ててはいけない。どこから魔物が集まってくるかわからないからだ。

 一度だけ、魔物を見たことがある。ベルトマン主任が捕まえて、職場に連れてきたのだ。りんごに、ペンでぐりぐりと描いたような丸い黒目がついており、細くて短い手足が生えていた。突っついてひっくり返すと、手足が短いせいで起き上がれず、じたばたともがいていて、滑稽だけれど可愛かった。ベルトマン主任によると、そんな可愛らしい魔物でも、実はかなり凶暴で人間には危険があるらしい。なんでも、捕まえた当時は、何百体もの大群で、小さな弓や剣で武装していたとか。

 りんご系のくだもののような魔物程度なら僕でもなんとか出来るけど、大きくて強いやつが出てきたら、例え魔法を使ったとしても、大怪我をしてしまうかもしれない。不安だ。背後がとても気になってくる。

 そんなことを考えていたせいだろうか。


 ばきり。


 背後で、何かが折れる音がした。振り返りたい。振り返って、それが何か確かめたい。

 何がいる。魔物か。いや、さっそく魔女のお出ましかもしれない。魔女だったら、振り返ったらアウトだ。

 振り返りたい。確かめたい。

 ダメだ、森で振り返ってはいけない。

 僕は、腰に吊り下げたシースの、金属製の杖にゆっくりと手を伸ばした。背後の存在を刺激しないように、出来るだけ自然な仕草で。就職祝に、母さんが買ってくれたものだ。長さは三〇センチくらいで、握りやすくて振りやすい。先が尖っているので、いざというときに突き刺せる。

 ――母さん、守ってくれ。

 気配がすぐ後ろに近づいた。

 杖に指をかけ、するりと抜き放つ。逆手に持って、真後ろの気配にいつでも刺突できるよう、背中を軽く丸めて相手の気配を窺い――。


「メルン先輩!」


 すぐ近くから聞こえたのは、つい昨日も耳にした声だった。緊張感がほどけた。杖を下ろす。


「フラン?」


 僕の右隣に飛び出してきたのは、魔法開発局にいるはずの後輩、フランだった。小さな体で、僕と同じくらいの大きなリュックを背負い、押しつぶされそうになりながら、肩で大きく息をしている。僕を見上げる目は、涙で潤んでいた。


「メルン先輩! なんで! 森に入ったんですか! ベルトマン主任から聞いて、すごく心配したんですよ!」

「それは僕のセリフだ。なんで森に入ってしまったんだ?」


 僕が言えたことではないけれど、森に入るなんてどうかしている。死にたがりでもなければ、森には近づこうとすらしないのが普通だ。


「メルン先輩が森に行ったって聞いたら、いてもたってもいられなくなって、追いかけてきたんですよ! そしたら、本当に足跡があって。森に入ったら、想像よりもずっと怖くて、なんかすごい気持ち悪い虫がいて、走ってたら、やっぱりメルン先輩がいて!」


 気が動転して言葉遣いが変になっている。無謀だと責めそうになったが、僕は言葉を飲み込んだ。フランの頭に手を乗せる。


「落ち着こう。大丈夫だから。僕は魔法を使えるから、もう心配ないさ」

「うう、はい」

「森に入ったら、もう戻れなくなるよ。ここから夕方まで歩き続ければ、開拓村がある。けれど、そこにつくまでに魔物に襲われても、振り返って逃げることは出来ない。僕も聞きたいことはあるし、フランだって僕に聞きたいことがあると思う。でも、まずは覚悟を決めて欲しい。何があっても真っ直ぐ歩き続けること、絶対に振り向かないことだ。いいね?」

「はい」

「あと、もう手遅れかもしれないけれど、大きな音を立てるのもダメだよ」

「うっ、すいません……」


 フランは掠れるような、小さな無声音で返事をした。流石にそこまでしなくてもいいと思ったけれど、言わないでおく。

 まったく。どうしてこんなところに付いて来てしまったんだ。生半可な覚悟で来れる場所じゃない。来ていい場所じゃない。どうして誰も彼女を止めなかった。自分が最たる悪因だろうに、理不尽な怒りすら抱いてしまう。

 時間を無駄にしてはいけない。夜の森は、何が出るかわからない。何かが出ても、目の前に現れるまでわからない。僕は真横で揺れる、さらさらとした薄金色のショートヘアを視界の隅に収めながら、また歩き始めた。

 森が、薄ら笑いを浮かべながら、僕らを眺めている。


「あの、メルン先輩は、どうして森に入ろうと思ったんですか? メルン先輩は魔法が上手でしたけど、ベルトマン主任みたいに、人間をやめているほどではないですよね。やっぱり、危ないです。それなのに森に入ったのは、きっと、すごく大事なことがあったんですよね?」


 主任は人間をやめている、か。言い得て妙だ。あの人なら、並大抵の魔女に襲われても助かりそうな気がする。


「僕が森に入ったのは、永訣の魔女に会いに行くためだよ」

「永訣の魔女……メルン先輩は、大切な人を亡くされたんですか」

「うん。初恋の人だ。僕が弱かったせいで、僕の目の前で、僕のために死んでいった」

「そうでしたか」


 フランは消え入りそうな、沈痛な声で答えた。


「フランが気に病むことじゃないさ。こうして今さらになって旅を始めたとはいえ、もう、一〇年も前の話なんだ」

「それでも、今旅をするくらい、その方のことを想っているんですね」

「そうなのかもしれない」


 あの日から、僕の時間は過去に戻るために前に進んできた。そして、これからもだ。

 一割の愛と、二割の意地と、三割の罪悪感。それに、四割の自己満足だ。きっと、心の中にあるのは、そんなところだ。大切なひとかけらの思いに突き動かされ、捨ててしまうべき九割の思いに引きずられる。


「そういえば、フランはちゃんと、後始末をしてから来たのかい?」

「はい、大丈夫です。家族にも、主任にも説明してから来てます」

「ご家族は……」

「そういえば、公私を分けるために言ってませんでしたね。実は私の養父が、ベルトマン主任なんですよ」

「なっ……気づかなかった」

「頑張って隠してました」


 フランはくすりと笑う。

 主任が許したのなら、きっと、それは僕が守ることが前提なのだろう。これは何としても、あの場所に、フランと一緒に帰らなくてはならなくなった。


「他にやり忘れはないかい?」

「何も忘れてない、と思います。忘れてたら思い出せませんし」

「それもそうだ。逆に、好きな人のことは忘れてきたかい?」


 森に入ってしまったら、好きなあの子は忘れよう。

 魔女は、本当に追いかけて来る。森に生きた詩人のプリンシパルの歌には、嘘偽りは存在しない。だからこそ、親は子を守るために、静かな森の童謡を繰り返し歌って聴かせる。

 フランは首を傾げ、悲しげな顔をした。


「そうですね。きっと、大丈夫なんだと思います」


 僕は、その仕草が何を意味しているのか、わからなかった。だから。


「そうか。そうだといいね」


 と、当たり障りのない返事をした。


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