第六夜 応接室にて
息が苦しい。上手く息が吸えていないような気がする。ゆっくりと深呼吸をしようとするが、目の前の書類の山を見ると、やはりどうしても呼吸が浅くなってしまう。2日間の休日出勤を終えて、少しは書類を片付けることができた。なんとか他の課員の稟議書はすべて判を押せた。この業界は自分の仕事1つ行うのにも課員全員の承認が要る。つまり自分が異世界に行っていた間、他の人の仕事が滞っていたのだ。
「でもさあ、急に姿を消したんだからさすがに後閲にしててもよかったんじゃないかあ?」
思わず独り言をつぶやく始末だ。急いで仕事をしなければ困るような時には”後閲”と言って、いない人の承認と押印を先送りにできるのだ。さすがに課長や部長級は飛ばせないが、俺みたいなペーペーはいくらでも飛ばしてくれて構わない。
こちらに戻ってきてから、マニュアルは一切俺に語り掛けることはなかった。あの超強権的な「公務執行」も行ってはいない。まるで向こうの世界のことは夢だったみたいだ。そして目の前に迫るのは現実の仕事、仕事、仕事だ。
そして俺がいなかったこの3日間、携帯には何件か班長からの着信と留守電が入っていただけで、俺は有休を取得したことになっていた。それ自体はありがたい。無断欠勤はさすがにマズい、社会人として。だがあの異世界に行ったのは不可抗力だ、抗いようがなかった。っていうか会社の屋上が異世界につながってるなら、もはやそれは事故だろ!労災よこせ!
「鷹羽さん、手ぇ止まってますよ?」
隣の席から長沢が目ざとく注意してくる。何やってんだか・・・とか呟いてるのも聞こえる。お前の独り言は大きいから筒抜けなんだよ!とは言えない。俺はペーペー、長沢は何個も席次が上な副主幹様だからだ。だから長沢は仕事中にもバリバリお菓子を食べてもいいし、特徴的なハンドクリームを塗ってスメハラしても文句は言われないのだ。なんたる平等世界か!
3日間、仕事から離れていたはずだがもはや完全に「仕事にやられてる」状態だ。元のこちらの世界に戻ってきてから早1週間が経とうとしていた。そしてそれは突然訪れた。
「高校教育課の鷹羽 秀主事、至急4階総務室へ来てください。繰り返します・・・」
普段はめったに使われない庁内放送で職員の呼び出し、しかも対象が自分?
さてはお咎めなしだと思っていた無断欠勤が、悪い方向に行ったのか。
とにかく呼び出しには応じないといけない。俺は内心ラッキーとばかりに仕事の手を止め、4階総務室へ向かう。
「あのー、今呼ばれた5階の鷹羽ですけど・・・」
「ああ、よかった。ちょっとあなたじゃないと対応できそうにないのよ。ついてきて」
そう言うなり、総務室の受付職員は俺を応接室まで案内した。分厚い応接のドアからは、うっすらと聞き覚えのある声がする。
「シュウ!よかった、やっと会えた!」
「ネーシャ?!・・・なんでネーシャがここに?!」
応接室にはソファに座りながら、ネーシャが半分泣いていた。
「ああ、やっぱり知り合いだったのね。よかったわ、彼女あなたを探して迷ってたみたいなんだけど、言葉は通じないしで・・・。タカバ シュウっていう名前だけは聞き取れたからあなたを呼んだのよ」
一体彼女はどこの人なの?あまり聞いたことない言葉だけど、どこの国の言葉?とか質問攻めに遭うが、今はそれどころではなさそうだった。ネーシャの目が不安でいっぱいになっているのが伝わったからだ。
「一体どうしたんだ?何か向こうであったのか?」
「お父さんとお母さんが、連れていかれちゃったの・・・このままじゃ死刑にされちゃう・・・。あれからしばらくしてまたジャディたちがやってきて、スパイを匿った疑いで城に連れていかれたの」
事情を話しながら、ネーシャは段々泣き崩れるように嗚咽を漏らした。無理もない。それにしてもどういうことなのか、確かジャディには強制教育で洗脳したはずだが。
(教育の効果が切れてしまったようですね)
俺の疑問に答えるように、マニュアルがつぶやく。この野郎、この1週間まったくしゃべらなかったくせに。
「は?あれって効果が切れるのか?なんでそういうことを前もって言わない?!」
(言う必要がないと判断していました。それに教育は一時的に行うようなものではなく、何年も行って初めて効果が出るのは、あなたがよく知っていると思っていました)
減らず口を・・・。
とにかく今は責任のなすりつけをしている場合じゃない。
俺はネーシャを支えながら立ち上がり、屋上へと向かうべく彼女と応接室を後にした。
(またあちらに行くのですか?)
「当然だろ、このまま放ってなんておけるか。お前にも力を貸してもらうからな」
途中、5階に寄り、班長に一言お願いをしてきた。
「すいません、ありったけの有休取らしてください!」
これがこの世界での初めての「公務執行・強制教育」だった。