第四夜 民家にて
「一体、なんだったんださっきのは」
俺は去っていく鎧の男と兵士たちの背中を見ながらひとりごちた。急に聞こえてきた声といい、いきなり心変わりしたり、分からないことだらけだ。
だがとりあえずネーシャの両親と俺の財布が無事みたいだし、ひとまずは一段落なんだろうか。
俺は財布を拾いながら、ネーシャたちの元へ歩み寄る。3人はお互いの無事を喜んでいる。
「俺のせいで迷惑をかけたみたいですいませんでした」
「シュウのせいじゃないわ。悪いのはジャディたちの方よ。さっきも私たちに難癖付けて殴りかかってきたのよ」
ネーシャは俺と出会った経緯を両親に説明する。俺がこの街の水に慣れていなかったこと、言葉が通じない中で難癖をつけられてしまっていたことを。
ジャディというのは鎧を着ていた男たちの一人で、この辺では札付きとして有名らしい。
ネーシャの両親もわりとすぐに察してくれたようだ。
「大変だったわねえ。私はネーシャの母で、パール。よろしくね、シュウ。こっちは夫のシバよ」
「・・・シバだ。危ない目にあったが、みんな無事だ。アンタも随分遠くから来たみたいだし、何もないが家に寄ってかないか。一息つこう」
「ありがとうございます、ぜひそうさせてください」
俺たちの周りにできていた街の人だかりも1人、また1人とほどけてゆく。俺も緊張しっぱなしだったから、今はとにかくゆっくりしたい。シバに案内され、ネーシャたちの家に入る。
「パール、お茶を淹れよう。何もないがゆっくりしてくれ」
「ありがとうございます」
俺は勧められた椅子に腰かける。石造りの家の中には木製の家具が置かれ、ネーシャとパールは台所でお茶の準備をしている。家の造りといい、木製の家具といい、なんだか昔の時代に来たみたいだ。きょろきょろと家の中を見回す俺にシバは落ち着いた様子で話しかけてきた。
「シュウといったかな。君はどこの街から来たんだ?」
「横浜からです」
「ヨコハマ?・・・聞いたことない名前だな。2人は聞いたことあるか?」
台所でお茶を淹れてくれている2人は、いーえー?とばかりに首を横に振る。
「会社の屋上に出たと思ったら、この街に迷い込んだみたいなんです。・・・俺にもさっぱり訳が分からない」
「シュウの言葉も服装もこの辺じゃ見たことないもの。すごい上質な服よね。はい、お茶」
ありがとう、とお茶を受け取る。漂う紅茶の香りに少し緊張がほぐれるようだ。
「これはスーツといって、わりと平凡な服なんだけど・・・。見たことない?ほらお金、お金なら見たことあるんじゃない?」
俺は財布から硬貨や、夏目漱石先生を見せてみる。だが、見たことないね、と3人は首を横に振る。
スーツも無い、日本も横浜も知らない上に、通貨も違う。これはいよいよ、まずいことになってきたのかもしれない。考えたくはないが、どうやら俺は会社の屋上から違う世界に迷い込んでしまったようだ。
「今夜はウチに泊まっていったら?明日ネーシャにこの辺を案内させるわよ。それで元の・・・ヨコハマ、だっけ?そこに帰れるなら最高じゃないの」
パールはゆっくりお茶を飲みながら提案する。シバとネーシャもそれがいい、と賛成する。俺はありがたいその話に一も二もなく飛びついた。正直この見たことも聞いたこともない世界で、夜を超す当てなんてなかった。下手をしなくても野宿が関の山だ。
「はい、じゃあ今日はここで休んで。ベットは小さいけれど、大丈夫かな?」
ネーシャは俺を2階にある客間に案内してくれた。確かに小さめのベットだが、それでも俺にとってはこの世界で唯一の寝床だ。不満なんてあるはずがない。
「ありがとう。十分すぎるくらいだよ」
「じゃあ明日は街を案内するわね。屋台街を徹底的に探しましょ」
ネーシャは扉を閉め、一階に降りていく。足音が遠のき、部屋には俺一人。ようやく落ち着くことができそうだ。俺はスーツを楽にし、ベットになだれこんだ。
「あー・・・!疲れた。一体なにがどうなってんだ」
残業してたはずが、知らない世界に迷い込み、スパイ扱いされた上に連行されそうになって。もう頭が全然追いつかない。
それに、急に頭に聞こえてきた声。あれは何だったんだろう。
(・・・それは私のことでしょうか?)
「うお!・・・どこだ、どこにいる、誰なんだ!」
小さな客間には俺以外、誰もいない。だが確かに聞こえるこの声は、続けて話しかけてくる。
(私は手引書。あなたが迷ったとき、困難に遭遇したときに必要になるものです。マニュアル、とでも呼んでください)
「手引書?マニュアルだって?」
俺は自分の職場を思い出した。狭くて汚いあの職場には、所狭しと書類がひしめいていて、その中に確か「行政事務の手引き」とか「会計事務の手引き」があったはずだ。
だが、ある意味それらは仕事用の辞書みたいなもので、こんな風にしゃべってきたりは絶対にしない。
(私は公務執行時に、あなたをサポートする存在です)
「それだ、公務執行。あれはなんだ?どうして鎧の男が急に心変わりした?」
(あれはあなたの行える公務の一つです。教育強制は対象の認識を変え、その行動を変更させるものです)
「意味が分からない。そんな教育があってたまるか、それじゃただの洗脳じゃないか」
確かに教育は行政の大きな仕事の一つだ。だが、俺の知ってる教育はそんな相手を一瞬で洗脳するようなものじゃない。何年もの月日をかけて、少しづつ人間を育てていくものだ。
(今のあなたには横浜市の全行政職の権能が集中しています。その数およそ3万人分です。3万人分の教育を1個人に集中して行えば洗脳も可能です)
「待て待て待て!洗脳ってはっきり言ったな!それになんだって?3万人分?権能が集中?!全然頭が追いつかないぞ」
(問題ありません。そんなあなたをサポートするために私がいます)
「まったく答えになってないな、それ!」
(今はそれで構いません。それよりも今は体を休めてください。度重なる残業と極度の緊張の連続であなたは疲弊してます。)
突然迷い込んだ異世界。
知らない国。
知らない言葉。
知らない公務に、知らない手引書。
頭がパンクしそうだ。
まぶたが重い。
今は、寝てしまおう。
明日のことは明日考えよう・・・。
それが問題を先延ばしにしているだけだと、今の俺には知る由もなかった・・・。