第六話:疑惑の朝
「あ、ルルちゃん! おはよう!」
朝五時。
眠たい目をこすりながらもベッドから抜け出し、狭いながらも洗練されたデザインのパウダールームで顔を洗ったリルは、爽やかなライトグリーンを基調に肩から袖口に向かう縦線模様が特徴的なジャージという出で立ち――昨晩ララが「前に住み込みで働いていたお手伝いさんが着ていたものザマスが、突然田舎に帰ってしまったので荷物が残っているザマス。よかったらトレーニング用に着るザマス」と言って手渡したものだ――に着替えて客間を出た。
そこで廊下の反対側からリルの方をジッと見ているものの視線に気づいた彼女は、元気よく挨拶をしたのだが。
「気安く呼ぶなと言ったはずですわ……まったく、人間のメスごときが……」
人間よりも多くの点で優れた能力を有する竜人族だが、彼らにも弱点はある。代表的なのが、この「朝に弱い」という点だろう。いや、早起きが苦手という意味ではない。彼らは変温動物であるドラゴンの血を濃く受け継いでいるため、体温を調節する機能が十分に発達していないのだ。
昨晩は特に、春らしからぬ冷え込みがラクロス周辺を襲ったため、冷え切った身体が充分に温まっていないルルはだらりと垂れた尾を引きずるように歩き、茫洋としながらも憎まれ口を叩いてトイレに向かったのだった。
余談だが「寒冷」に対して圧倒的に抵抗力が低い竜人族は、迷宮探索において不利な状況に陥ることが多い。それを補って余るだけの身体能力を有していることは間違いないのだが、力を十全に発揮するためには仲間のサポート必要な場面が多々あるのだ。
そのような背景は身をもって知っているはずのズズ・クライスンが単独でいかにも水属性のモンスターが多そうな「滝迷宮」に向かった真意は今のところ謎だ。誰もが認める上級冒険者の実力をもってしても「中級向け」の迷宮を単独で踏破し、無事に帰還を果たすことは難しい。冒険者たちはメンバーの特性を活かしつつ互いに補い合い、綿密な計画を立てて迷宮へ向かう必要があることを、改めてご理解いただけただろう。
さて、まだ日も登らないうちから起き出したリルが向かったのは、クライスン家の玄関だった。いくら方向音痴のリルでも、階段を下りて目と鼻の先にある玄関を目指したくらいで迷うことはない。
家人を起こさないようにそっと開錠し、リルは薄暗い庭へ出た。冷え込みによって発生した霧が綿菓子のように町を包んでおり、クライスン家の奇怪な植物たちの鉢植えを隠し、幻想的にすら見せていた。リルがゆっくりとその間を進み、門扉に手をかけたその時だった。
「おや? シャーリアさんかい?」
朝もやの向こうから、リルに声をかけてくる者があった。実家の両親から、農村や漁村の者でなければ早朝から起き出すことはないものだと聞かされていたリルは、ましてこんな霧の濃い朝から屋外で人と出会うこともあるまいと思っていたのだろう。とつぜんかけられた声に驚き、違う名前で呼ばれたことには注意を払えなかった。
リルが何も応えなかったのを不審に思ったのか、霧の中の人影はしばらく突っ立っていたものの、やがてタッタッタ……と、リズミカルに駆け出し、近づいてきた。白い幕の向こうから現れたのは背の高い人間の男だった。
リルは門扉の閂にかけていた手を離し、一歩下がって男の顔を見た。
茶色がかった髪に青い瞳――ラクロスの周辺では一般的な細面に玉の汗を浮かべた青年が、リルの姿を認めて表情を曇らせ、「おっと……人違いだったのか」と、呟いた。彼は首にかけていたハンドタオルで汗を拭い、他人と間違えたことを気まずく思ったのか苦笑いを浮かべて口を開いた。
「失礼。俺は毎日ランニングしていてここを通るんだが、この家のメイドとは顔見知りでね。霧が濃かったし、背格好が似ていたので見間違えてしまったんだ」
「いえ、構いません」
「彼女はシャーリアさんという、気立てのいい、綺麗な人間の娘さんだった……。あんたは、新しいメイドなのか?」
男は霧の向こうに黒く霞んで見えるクライスン家を見上げてからリルに視線を戻して質問した。男は吹いたそばから吹き出す汗を拭っていた。擦り切れそうな運動靴を履いていた。どうやら毎朝ランニングをしているというのは本当らしい。
「私はメイドじゃありません。昨日からクライスンさんのお宅に下宿させていただくことになったものです」
リルの答えを聞いた男の目が、大きく開いた。
「ここに下宿だって? なんだってそんな……あんた、変な事されなかったか?」
「変なことってなんですか。クライスンさんは、私が困っていた時に助けてくださった恩人なんです。あなたこそ、変なことを言わないでください」
男の物言いはたしかにぶしつけだったし、クライスン家のイメージを不当に陥れるもののように聞こえる。呪われた品々に囲まれて平気で暮らしているような連中なんてロクなものではないと思う点では同意見だが、リルは憮然として腕を組み、男の発言を非難した。
「どんな事情があるのか知らないが、クライスンの家では若い人間の女が何人も消えているんだ。シャーリアさんも、数か月前に突然消えた」
「前にいらしたお手伝いさんは、急に田舎に帰られたと奥さまから伺いましたけど?」
「彼女が田舎に帰っただって?」
リルが昨晩聞いた話を披露すると、男は門扉に一歩近づき身を乗り出した。
「そんなことは絶対にあり得ない。俺は一か月前、彼女の実家に手紙を出したんだ。娘はまだ戻っていないとご両親から返事があったよ」
「……私が聞いたのは、そのシャーリアさんとは違うお手伝いさんのことかもしれません」
「どうかな。あんたが着ているジャージは、シャーリアがよく朝の掃除をするときに着ていたものだぜ?」
「……!!」
リルはジャージの胸元をギュッと掴んでいた手を離した。
男は真剣な面持ちでリルに語り掛けた。
「ララ・クライスンに何を言われたか知らないが、子供たちも含めてこの一家は危険だ。悪いことは言わないから――」
「こ、来ないでください!」
男は背が高く、リルの肩口まである門扉も楽々乗り越えられそうだった。男はすでにそれの上端に手をかけており、そこを支点に飛びかかられでもしたらリルは逃げられまい。
「聞け。クライスンは――」
「朝早くから何をしている? ジョナサン」
「わっ!?」
ジリジリと後退りを始めたリルの背後から、ぬっと現れたのは、母親とは似ていない青みがかった髪を生やした頭をぼりぼりと掻きながら、羽毛がふんだんに使われているらしいダウンコートを着込んだジジ・クライスンだった。
「ジジ・クライスンか。この寒さの中、よく布団から這い出て来られたな。てっきり冬眠でもしているかと思ったぜ」
「ジョナサン……まだ日課のランニングを続けていたのかい」
ジジの爬虫類を思わせる独特の瞳が動き、ジョナサンと呼ばれた男の身体を舐めまわすように捉えた。
「君が種の壁を越えようと無駄な努力をするのは勝手だが、我が家に迎えた客に妙なことを吹き込むことはやめてくれないか」
「……俺は、事実を教えてやろうと思っただけだぜ」
「リルには僕がきちんと事実を伝えるさ。ジョナサン・ギアはシャーリアにフラれたショックで妙な妄想を抱くことになった、たびたびクライスン家につっかかってきて迷惑している、とね」
「てめえ……!」
「もうやめて、ジジ」
悪意ある言葉の応酬に耐えられなくなったのか、リルが耳を塞ぐようにしてかぶりを振った。
「ごめんよ、リル。君が困っているようだったから、つい……」
一転して柔和な笑みを浮かべたジジは、首に巻いていたシルクのマフラーを外して震えるリルの肩にふわりとそれをかけた。
「あんた、リルって言うんだな。優しい言葉に騙されるな。そいつの性根は、根元から腐ってる」
「あなたも、もうやめてください。私にとってクライスン家の人たちは大切な友人です」
リルはそう言うと、踵を返して屋敷へ戻って行った。ジジは勝ち誇った笑みを残してその後を追い、二人の後姿はすぐに霧に紛れて見えなくなった。ジョナサンはしばらくその場に留まり、鋭い目で屋敷を睨んでいた。