第十七話:非常事態
「課長――」
マーガレットは、荒くなった呼吸を整える間さえも惜しんで上司に呼びかけた。執務室には電話のベルから発せられる騒音に近い音と、マーガレットにそれ以上言葉を発するのをためらわせるほどの緊張感が満ちていた。
ソファーに腰掛けていた冒険連ラクロス支部の迷宮課課長であるロバート・ブレアは、ゆっくりと立ち上がり、無言のままマーガレットに背を向ける。皮張りの頑丈なソファーは、かつてリル・エルファーがうたた寝をしていたものだ。ロバートはそれを回り込み、執務机の後ろ――窓と書棚の間に設置された年代物の電話機の前まで移動した。
「……黒電話、だ」
ロバートが発した短い言葉を耳にしたマーガレットが、はっと息を飲んだのと、ロバートが受話器を持ち上げた瞬間が重なった。けして広くはない課長の執務室に、一瞬の静寂が訪れた。
「――もしもし」
ロバートがそう発した時にはもう、マーガレットは執務室を出ていた。
黒電話は、冒険連職員の中である特殊な立場にある人物の部屋に設置されている。それは受信専用となっており、通常の冒険連職員が使用しているものとは異なる回線で繋がれている。
マーガレットは、末端の冒険連職員のほぼ全員と同様に、黒電話がどこに繋がっているのかを知らない。彼女が黒電話について知っていることは、たった一つだ。
「黒電話を使用して交わされる会話の一切を耳にしてはならない」
これは、冒険連職員が遵守すべき規約に明確に記されている。
この世界で暮らす冒険連職員は、規約に忠実だ。冒険連職員だけではない。この世界に息づく全ての生物は、運命の流れに忠実に生きている。
マーガレットはひとまず、ロバートの会話を耳にすることなく執務室の扉を閉められたことに、安堵の溜息を洩らした。つい先ほどまで、世界のルールと常識を大きく逸脱した女と相対していたのだ。
リル・エルファーは普通じゃない。
マーガレットが、あり得ない行動を取り続ける新人冒険者に対して抱いた違和感は、彼女に深刻なストレスを与えていた。
冒険連職員として働き、日々大きく変わらない生活を営むことに大きな喜びを感じていたマーガレットは、リルという異物を前にして激しく混乱したのだ。
あの、目だ。
マーガレットは執務室のドアに背中を預け、再び大きく息を吐いた。
金色の瞳……攻略計画の破棄を宣言したリルの目には、いささかの悔恨も、迷いも浮かんでいなかった。年端もいかない、冒険者としての格にしても、マーガレットが現役だったなら足元にも及ばない少女の視線に、彼女はすっかり怯えてしまっていた。
「あの娘……なんとか課長に説得してもらわないと」
マーガレットが冒険連に職を得てから十年。攻略計画の破棄なんて、冒険者の権利として認められてはいても、実際にそれを行使するリーダーにはお目にかかったことがない。研修中、冒険者証に黒星を刻印するための特別な機械とやらを見せてもらったが、それはサンドしたパンを焼くアレにしか見えない、朽ちかけた鉄製の道具だった。それも、倉庫の奥にしまい込まれ、埃の積もった箱から取り出されたものであり、使用頻度の低さを物語っていた。
研修の担当だった当時の教官は、「一般的な冒険者が攻略破棄を宣言することはない」と言っていた。
マーガレットの脳裏に、教官の微笑みが浮かんだ。
彼は常に口角を少し上げて目を細めた表情で過ごしていた。一見すると柔和な人に見えなくもなかったが、それはまさに「張り付いたような」笑顔であり、当時も今も、すこぶる不気味に感じている。
そういえば彼も、金色の瞳だったような……
「マーガレット」
「わっ」
執務室のドアが開かれ、それにもたれていたマーガレットはたたらを踏んだ。脇に抱えていた書類が床に散らばる。
「ああ、すみません。課長」
「いや。私の方こそ、待たせてすまない――」
ロバートの手が、迷宮攻略計画書の束の上で止まった。
マーガレットには、表紙に貼られた写真の、あの無機質な黄金の瞳がキラリと光ったように見えた。
「君の用件は、彼女らに関すること、かな」
ロバートの推察に、マーガレットは頷きを返す。
「大変申し上げにくいのですが……お嬢さまのパーティーは迷宮内ではぐれ、現在は――」
マーガレットは残りの書類をかき集めて立ち上がった。屈んだままの長身のロバートを見下ろす形になったが、彼がすぐに立ち上がったので、マーガレットはそのまま彼の顔を見上げて報告を続けた。
「現在は、リーダーのリル・エルファーのみが帰還し、彼女は攻略破棄の申請を窓口で申し立てました」
「こ……」
「信じがたい行為ですよね!? 報告書によれば、迷宮の構造変化によって、まったく予期していなかった状況に陥ったそうですが。だからといって、このメンバーを迷宮に残して計画破棄なんて!」
絶句したロバートに向かって、マーガレットはさらにまくし立てた。
自力での迷宮探索の継続、仲間の救出ともに不可能と判断し、事後の処置を冒険連に丸投げすると宣言することは、冒険者として活動することを諦めると公言したにも等しい。ましてや、ラクロスのおひざ元にある迷宮で、その迷宮課課長の娘とパーティーを組んだ人間のすることではなかった。
「迷宮の構造変化……? なるほど、な」
「課長?」
ロバートは、マーガレットの話に妙に納得した様子で頷いていた。まったく予想もしていなかったリアクションに、マーガレットは困惑して目を白黒させたが、ロバートは彼女の手から報告書を取り、素早くページを繰りながら何度も唸り、繰り返し首を上下に動かした。
「うん、うん……よく、わかった。このパーティーの攻略破棄を受理してあげなさい。ただし、黒星を押さずに、だ」
「はいぃ!?」
マーガレットは目を吊り上げた。
あなたの娘が迷宮に置き去りにされたんですよ!? マーガレットは食い下がろうと息を吸い込んだが、ロバートが先に、柔和な笑みを浮かべて口を開いた。
「リル・エルファーの報告に嘘はないだろう。恐らく世界中の迷宮で、構造変化や何がしかの変調が起きているはずだ」
報告書の束を突き返されたマーガレットが口を開く前に、ロバートは再び彼女に背を向け、執務室のドアノブに手をかけた。
「課長!」
「マーガレット」
「課長…………?」
マーガレットは言葉を失った。振り返ったロバートの顔には、あの笑みが張り付いていたのだ。それは、淡々と、何の感情も交えずに職務を説明していた、あの教官の微笑みとおなじだった。
思わずたじろいだマーガレットを一瞥すると、気味の悪い笑顔を作っていたロバートの唇が動いた。
「全職員に通達してくれ。冒険連本部から、非常事態宣言が出された、と」
「へ?」
マーガレットが「へっ?」という間に、ロバートの背中はドアの向こうへ滑り込むようにして消えた。
ロバートの命令は、マーガレットから一切の思考を奪っていた。
一時間後。
非常事態宣言の通達が冒険連ラクロス支部の全職員に行き渡った。
冒険連施設の入り口および各課の窓口には、白字で「非常事態」と印刷された赤い立て札が立ち、一切の業務を停止する旨が掲示された。
新迷宮の探索を続けていた迷宮課職員も早々に帰還した。彼らは装備と物資を整えると、すぐに周辺の迷宮へ向かい、攻略中のパーティーの救出に乗り出した。
サラ、スイーツ三姉妹も、ほどなくして滝の裏迷宮より帰還を果たし、彼女たちはリル・エルファーがすでにラクロスを去ったことと、全世界に向けて非常事態宣言が発せられたことを知った。
非常事態。
この言葉を耳にしたサラとスイーツ三姉妹は、張り付いたような笑顔の冒険連職員に言われるまま、それぞれが進むべき道へ向かった。




