第十六話:疑惑のリル
滝の裏迷宮から一人帰還を果たしたリルは、まずラクロスの宿屋――冒険連施設の近くでも繁華街でもなく、町はずれの安宿――に向かった。目的の半分は、トーマを殺害して手に入れたマンティスの篭手を隠すためだった。
冒険連の職員だった彼の装備は――ましてや世にも珍しいレアアイテムともなれば――同支部にそれが彼の所有物だったことを知る者が少なからず務めているに違いない。
そう考えたリルはひとまず、それを人の目から隠す必要があると結論付けた。迷宮から持ち帰ったアイテムや素材の隠匿は犯罪とみなされるが、殺人に比べればはるかに軽い罪だし、発覚しない限り罪に問われることもない。
リルが仲間の安否を確認するよりも、冒険連施設からできるだけ遠く離れており、かつ危険な貧民街の近くに宿を取った理由のもう半分は、できるだけ身を清めるためだった。
リルは露店に立ち寄り、甘い香料をふんだんに使用した匂い付き石鹸を購入していた。冒険連の職員は人間族だけではない。やたらに鼻が利く獣人族と出くわせば、迷宮の水場で身体を拭った程度では洗い流せない「血の匂い」を、彼らは敏感に嗅ぎとってしまうに違いない。
年齢には不釣合いな強いバニラの香りを纏ったリルは、同じく血とドラゴンゾンビの体液の臭いが染みついた皮鎧やブーツは破棄し、私服に着替えて冒険連施設へ向かった。
サラとスイーツたちは、すでに帰還しているに違いない。リルはパーティーのメンバーが想定外の罠にはまり、どこへ転送されたかもわからない自分を探して迷宮をうろついている可能性は低いと判断していた。
実際には、リルがラクロスに戻った時は、彼女の身を案じたサラが渋るスイーツたちを説き伏せて捜索を続けている最中だった。しかしリルは、スイーツ三姉妹が全滅の危険を冒してまで自分の捜索に同意するとは思えなかったのだ。リルは、彼女たちはいち早くラクロスへ戻り、事態を冒険連に報告して対策を講じるだろうと考えていた。
「まだ、誰も戻ってきていない?」
「え、ええ……はい」
ラクロス冒険連迷宮課窓口係のマーガレットは、驚愕と落胆が合わさった奇妙な表情を浮かべて立ち尽くすリル――なぜか、老婆に手を引かれて案内されてやってきた――を前に、緊張でどもりそうになるのを押さえながら答えた。彼女は汗ばんだ手で手元の書類のページを繰る。
マーガレットが見ているのは、五日前にリル自身が作成し、提出した計画書だ。そこで目的の記載を見つけ、さらに念のため、卓上カレンダーの日付を横目で確認した。この日は十月二十九日。リル・エルファーをリーダーとする五人の冒険者が帰還するのはずっと先のはずだった。彼らは、十二月二十四日を帰還予定日としていたのだから。
「失礼ですが、お仲間とは……はぐれてしまったのですか?」
マーガレットは、迷宮内で十八歳の誕生日を迎えるはずだった女性冒険者に語り掛けた。その表情は、冒険連職員が冒険者と相対するには不自然なほど緊張感に満ちており、口調は酷くゆっくりで、慎重に言葉を選んでいることが伺えた。
リルは異例の速さで成長を遂げた期待の新人である。新迷宮が発見されたラクロスでは、若く、気力と実力を兼ね備えた冒険者を欲していた。冒険連は冒険者なくしては運営できないため、職員たちは冒険者にできるだけ長く支部に留まってもらえるよう、親身な対応を心掛けているものだ。
しかし同時に、目の前で下唇を噛んでいる若い女冒険者は、クライスン家焼き討ちと時を同じくして、ラクロス冒険連迷宮課課長の長女と共に失踪し、人間族でありながら「穢れた魂」をもつ要注意人物でもあるのだ。
「私がテレポーターの罠に引っかかってしまって、一人転送されてしまったんです。運よく、エレベーターの近くに転送されたおかげで、帰還することはできましたが……私、サラたちはラクロスにもどっているものとばかり」
「へ? テレポーター?」
マーガレットは一瞬、冒険連職員としての顔を忘れ、素の言葉を返してしまった。
「はい……攻略本にも記載されていないものでした」
「滝の裏に……そんな罠が……?」
マーガレットは、沈痛な面持ちで頷くリルから視線を逸らし、再び下に目を落とした。視線の先には、リルが提出した攻略計画書と、滝の裏迷宮の攻略本が置いてある。彼女はそれを手に取ったが開こうとはせず、軽く目を伏せて記憶を辿った。
迷宮課の職員は、所属する支部付近の迷宮の情報に精通している。彼女は脳内にストックされた、膨大な迷宮に関する知識を照会していくが、滝の裏迷宮でエレベーターへと続く回廊に至るテレポーターの情報に辿り付くことはなかった。
マーガレットは、再び計画書に目を戻した。
写真の中で髪を左側で束ねたリルが、能面のように無表情で見つめてくる。とても、目の前で複雑な表情をしている女と同一人物とは思えなかった。彼女の下には快活な笑みを浮かべたサラ・ブレア、十代とは思えない妖艶な顔をもつミライア、リルと同じく無表情だが、茫洋とした様子が伺えるフランキスカ、満面の笑みとピースサインが眩しいキャロライン・スイーツの四名の顔写真があった。
訓練学校の同期であるサラはまだしも、世界屈指の富豪の娘にして“超”がつくほどに有名な冒険者スイーツ三姉妹と、どうしてこの田舎娘がパーティーを組むことになった。
偶然の積み重ねでそうなったとしても、彼女らのレベルなら滝の裏迷宮ごときでパーティー離散などという憂き目に遭う可能性は限りなく低い。
仮に、リルの言う通り、滝の裏迷宮に「構造変化」が訪れていたのだとしても、レベル60を越えるシーフを連れたパーティーが、そうやすやすと罠に引っかかるものだろうか。
さらに、マーガレットはリルの出で立ちにも違和感を覚えて首を捻った。
提出された顔写真とは違い、肩の下まで伸びた亜麻色の髪を降ろしていて、それはたった今トリートメントしてきたかのように美しく整えられていた。解放された窓から流れ込む涼しい風が、彼女が纏う鼻の様な香りを運んでくる。淡い水色のワンピース、肩に白いカーディガンをかけ、うっすらと化粧までしていた。どう見ても、仲間とはぐれて迷宮から帰還したパーティーのリーダー、という装いではない。
「あの、いいですか」
「はい?」
不意に呼びかけられたマーガレットは、改めてリルの顔を見た。
細く、形のいい眉を寄せて精いっぱい苦悩しているような顔を作っているが、黄金色の瞳はまったく揺れていなかった。
「私、攻略計画を破棄します」
リルは真顔になって言った。
「……はい?」
マーガレットはそれまでの猜疑に満ちた表情から一転して、訊き返すと、ポカンと口を開けた。
「ですから、滝の裏迷宮の攻略を諦めて、白紙に戻します」
「い、いや……それは」
リルの言葉の意味を解したマーガレットだったが、リルの心情を読み取ることはできず、狼狽を露わにした。
冒険者法では、パーティーメンバーが迷宮に取り残された状態で、攻略計画書を提出した支部を離れることは禁じられている。当該冒険者全員の救出、または死亡が確認されるまで、生き残ったメンバーは待機していなければならないのだ。その間の滞在費は冒険連から融資を受けることができるし、事前に保険に加入していれば一時給付金を受け取ることも可能だ。
生き残ったメンバーは、迷宮課の遭難係に仲間の救出を依頼するか、新たにパーティーを組んで遭難者の救出に向かうこともできる。その場合は、遭難したメンバーの救出をもって新しいパーティーは解散しなければならず、多くの場合、協力してくれた冒険者に謝礼を払わなくてはならない。しかしその費用までもカバーする保険商品を、冒険連福祉課は用意していた。
大変に人道的なシステムだというと聞こえはいいが、支部で活動する冒険者を確保するための仕組みであるとも言える。どちらにしても、通常仲間とはぐれた冒険者が、彼らを放っておいて新天地へ旅立つことはない。
しかし、どんな法にも穴はある。
それが、リルが口にした「攻略計画の破棄」だった。
遭難したメンバーの安否が確認されるまで、冒険者の移動を禁じると規定されているのは、あくまで「攻略計画書を提出中」だけの話だ。
提出した攻略計画書は、リーダー本人またはメンバーの過半数の署名捺印がされた申請書を提出することで、破棄することが可能である。こうしてしまえば、仲間が迷宮に取り残されたままであっても、生き残ったメンバーは新たな迷宮の攻略に挑むことが可能となる。
無論、苦楽を共にした仲間を見捨てて旅立つものなどほとんどいない。ましてや攻略計画を破棄し、迷宮攻略に「失敗」したという汚点は、その後の冒険者生活に大きな影を落とすことになる。彼らは、冒険者証に大きな黒い星型の判を押され、「黒星冒険者」と呼ばれるのだ。
黒星冒険者は、先述した冒険連の福祉関係のサービスの多くを受けられなくなるばかりか、商店でまともなサービスを受けられなくなる。
新たな迷宮を攻略しようにも、仲間を見捨てて去るような輩とパーティーを組んでくれるものは皆無と言っていい。
故に、遭難したメンバーを放置して攻略計画書を破棄する、という行為は、多くの常識的な冒険者がまず選択することはない、禁じ手ともいうべき手段なのだ。
「その……一度、上に報告させてください」
マーガレットは、どうにかそれだけを絞り出すように言うと、リルの返事も待たずに席を立った。
足早にカウンターを回り込み、二階へと続く階段を、ほとんど駆け上るようにして上がっていく。
状況だけを客観的に判断すれば、リルがリーダーを務めるパーティーの迷宮攻略は一旦差し止めとなる。同迷宮に向かったトーマの安否も知れず、新迷宮を抱えたラクロス支部は捜索係も不足している。現在、ラクロスに集まる冒険者の大多数がその新迷宮を目当てにやって来ているわけで、リルが捜索チームを組んで再び迷宮に潜ることも難しいだろう。
彼女にどんな目的があるにせよ、止むに止まれぬ事情がある、と取れなくはない。
しかし。
マーガレットは迷宮課課長の執務室のドアを激しくノックし、荒くなった呼吸を整える。
一応遭難扱いとなったのはほかならぬ迷宮課課長の長女サラと、世界的な有力者であるスイーツ家の三姉妹だ。
彼女らを放置して攻略計画を破棄するなんて、まともな冒険者のすることじゃない。
竜人族の上級冒険者の失踪とその家族の死、今度は重要人物の遭難と突然の迷宮の構造変化。
リル・エルファーがやってきてから、ラクロス周辺にはおかしなことばかり起きている。
この問題は、窓口だけでは処理できない。
そう判断したマーガレットは、ドアが開けられると同時に、直属の上司であるロバートのオフィスに転がり込んだ。
ちょうどその時、ロバートのオフィスに設置されている二台の固定電話のうち、掃除の行き届いた部屋には不似合いな、錆の浮いたダイヤル式の電話のベルが、けたたましい音で鳴り出した。