Ner side story episode1
これまで、リルという少女の物語を読み進めてきた紳士そして淑女の諸君。
今回語られるのは、瑠璃と共にラヴ・ラヴィリンスの世界に迷い込んだある男の物語だ。
彼は幼い頃から――前世でも今世でも――姉に守られて生きてきた。
前世では二十代後半――働き手として十分に成長していてもその調子だったわけだが、今世では何に奮起したのか十六歳で冒険者資格を取得し、周囲の反対を押し切ってラクロス新迷宮の探査チームに応募した。
その背景には、彼が十五歳の誕生日を迎えた朝、前世の記憶を取り戻したことが大きく関わっていることは言うまでもない。それまで平和な農村で穏やかに暮らしていたネルにとって、それはまさに青天の霹靂であった。
前世における最後の記憶――おぞましいばかりであの日々に戻りたいなどとは微塵も思わせない退廃的な生活に終止符が打たれた日の光景が、ネルの脳裏には極めて鮮明に甦ったのだ。
彼は慄き、しかし自身がネル・エルファーとして生まれ変わったことを神に感謝した。
穏やかで人懐こく、誰からも好かれる少年だったネルはこの日を境にまったくの別人と化した。
ネルが前世の記憶を取り戻した時期が、たまたま思春期――人の成長過程において精神的にも肉体的にも大きな変態を迎えるそれと重なっていたからいいものの、もしもっと幼少期に訪れていたらと思うと背筋が寒くなる。
諸君の住む世界の二十代後半の男性というのは、皆ネルの中身のように荒廃したというか、いささか倒錯した性癖を有しているものなのだろうか。もしそうなら――甚だ余計なお世話かもしれないが――残念ながら諸君らの民族の品位というか社会の成熟度はお世辞にも高いとは言えないな。
記憶を取り戻してからのネルは一日のほとんどを自室にこもって過ごすようになった。必死になって紙に何かを書きつけてはそれを綴じる作業に没頭していた。一心不乱に机に向かい、家族の理解を得る努力をまったく完全に怠る少年の背中は、在りし日の瑠璃の弟を彷彿させるのに十分だった。
やがてそうした作業がひと段落したネルは、幼馴染で攻略対象である少女アニマを訓練学校に誘い、十六歳になった春に冒険者資格を取得した。アニマはネルに誘われるまで、まったく冒険者に興味を示していなかったので、周囲の人間は首を傾げていたものだ。
さらに周囲を驚かせたのは、ネルがラクロス新迷宮の探査チームに応募し当選通知を受け取ったことである。
駆け出しに過ぎない彼らが新迷宮に挑むなど、無謀を越えて、ただの愚行であると言われても仕方がないことだ。
しかしネルは知っていたのだ。ラヴ・ラヴィリンスはネルとアニマが新迷宮の探査チームにダメ元で応募し、大量の職務に忙殺されていた冒険連ラクロス支部のミスによって当選通知が届いてしまうというシーンから始まることを。
嬉しい知らせを受け取ったネルはそれまで抱いていた疑念をきれいに払しょくすることに成功した。
この世界はゲームの世界であり主人公である自分の選択によって未来の在り方が変わる。
数多のヒロインたちを生かすも殺すも自分の選択次第。
幼少期にはどちらかというと殺伐とした冒険者を嫌う傾向にあったアニマが自分に言われるままに冒険者となり、無謀な旅にのこのこ付いてくると言って聞かないのが何よりの証拠だった。
ここでアニマを突き放してラクロスへ向かうと、先輩ドS冒険者のスカーレットの攻略ルートが始まる。
アニマを連れて行くと同じく幼馴染で恋敵の少年と彼女を取り合うイベントルートに突入する。
さてどちらのルートを選択するべきか。ネルは記憶を頼りに書き上げた「攻略ルート早見表」を眺めて舌なめずりをした。
ラヴ・ラヴィリンスのヒロインの数は十や二十ではない。それら全ての攻略ルートやイベントの達成報酬を記憶できるわけもない。
ネルはガス灯の下で鼻の頭に皺を寄せてその下を擦り、匂いを嗅いだ。
かつての自分のものとは違い、毛穴で増殖した雑菌が発する嫌な臭いなど微塵も感じなかった。今の自分は美少女ゲームの主人公にありがちな美少年――ネル・エルファーだ。
ネルとして過ごした十数年の体験を顧みるに、この世界は現実と同じように時間が流れている。当然迷宮や町への移動をワンクリックで行うことはできないし、この世界に魔王が誕生するまであと何年あるのか見当もつかない。
魔王の強さは常識を超えている。ヒロイン攻略そっちのけで主人公を育成しても、奴が迷宮徘徊を開始した直後に遭遇したら勝ち目はない。
魔王に倒された場合のみ、ヒロイン一人を犠牲にすることで差し伸べられる神の手にしても発動する保証がない以上、魔王が現れる前に可能な限り強くなる必要がある。
自分に残された猶予はあと何年だ?
そもそも、もし自分が死んだ場合この世界はどうなる? ゲームをプレイしていた時は、最後にセーブした場所から再開できたが、残念ながらこの世界にゲームデータをセーブするという概念は存在しない。
まあいいさ。
ネルであったものは口中で呟くと、旅支度を整えて階下で待っている家族のもとへ向かった。
「ネル……気を付けてね」
かつてヒロインの中で最も愛情を注いだ女――リル。かつて自分の前にコスプレで現れた女よりも格段に美しい。黄金色の瞳が揺れ、心の底から弟の身を案じていることがひしひしと伝わってくるようだった。
ネルは歓喜に震え、泣き出しそうになるのを必死に抑えた。これから検証しなければならないことはいくらでもあるが、|自分と同時に《・ ・ ・ ・ ・ ・》死亡したあの女が、同じくこの世界に迷い込んでいないという確証が欲しかった。いつからか自分を粘液でも分泌しているかのような視線で見るようになった女。
どこへ行くにも何をするにも付いて回る悪夢のストーカー。
いつしかその狂愛に囚われ、自室を出ることすらままならなくなるほどに精神を破壊した女はもういない。
それを確かめないことには、ネルは第二の生を心から謳歌することはできない。
意を決し、ネルはリルの目をまっすぐに見つめた。
「姉さん、本当に何も覚えていないのか?」
「え……?」
一瞬表情を硬くしたリルだった。ネルの目は僅かな機微も見逃すまいとその挙動を凝視していた。わずかでも瑠璃の気配を感じ取った場合、全力で彼女の攻略ルートを叩き潰すのだ。
「ネル、ごめんなさい。なんのことかわからないわ」
小首を傾げて曖昧に微笑む姉の姿を見て、ネルは安堵の溜息を洩らした。
「なんでもないよ。行ってくる」
ネルは旅立った。
二人の幼馴染も一緒だ。
目指すはラクロス新迷宮。数々の転移装置が隠されており、進むルートによって待ち受けるイベントが異なる。
「ネル! 頑張って有名な冒険者になろうね!?」
「うん。一緒に頑張ろう、アニマ」
ネルは馬車の窓から外を見る振りをして口角を吊りあげた。頭の中でヒロインたちの――主にリル・エルファーの攻略ルートを反芻しながら。
次章 Ryl side story 狂愛の旅路 へつづく。