第十五話:クライスン家の闇
諸君は、物語の冒頭で述べたことを記憶しているだろうか。この世界には「諸君が生きている世界の常識とは大きく事なる不可思議な、法則とは呼べないようなルールが存在しているのだ」という部分だ。これの意味を、明敏な頭脳の持ち主である諸君ならば問題なく理解していることだろう。
リル・エルファーは、美少女ゲームの登場人物である。すなわち彼女が生きているこの世界は、ゲームのルールに則って動いている。
どういうわけか、弟と共にゲームの世界に入り込んでしまった瑠璃という女は、ひょっとしたら諸君とどこかですれ違ったことがある女かもしれない。あるいは、治療に行った歯医者で歯科助手として働いていたかも。
などと思うと、空恐ろしい気がしないかね?
◇
クライスン家の夜は、一般的な竜人族の過程と比べて長い。
竜人族は変温動物の血を濃く受け継いでいるため、彼らは日の入りの後は可及的速やかに床に就く。少しでも体温を高い状態に保ち急な事態に備える防衛本能が働く故だが、春でも暖炉に火を入れ、石の壁と温かいカーペット、上等な夜衣に包まれたクライスン家の場合は夜のとばりが降りたあとで一家全員が就寝するのは夜中の十二時を回った頃のことだ。
二十二時を少し回ったところで家事仕事を終えたリルは、ジジの急襲を警戒しつつ風呂へ入り、同じように辺りに気を配りながら自室へ戻った。
魂に刻み込まれた忌まわしい過去の記憶を忌まわしい体験によって甦らせた彼女は、かつての無垢な瞳に宿っていた光とはまったく別種の、妖光とでも例えるべき穏やかならぬ煌めきをその目に宿していた――
◇
瑠璃だった頃の記憶を思い出したことによって、私――リルの内面には大きな変化が訪れた。
弟を愛する気持ちが、リルだった頃とは違う種類の愛情に変わったことは言うまでもない。私は彼を愛しているし、それは彼も同じだと信じている。旅立ちの日、記憶について彼が訊ねた時にどんな表情をしていたか思い出せない。あれは悲しみだったか、そうは思いたくないけれど、安堵だったのか。その両方か。または諦観だったかしら?
なんにしても、私は冒険者となり、堂々とネルを探して旅をするだけの実力を身に着ける必要があることに変わりはない。
『冒険者になる』
私は冒険連で支給されたメモ帳に書きつけ、二重三重の〇でそれを囲んだ。
記憶を取り戻す前の私は、自分で言うのも何だが純粋な女の子だった――と思う。穢れを知らず、他者をいたわり、儀を重んじることの大切さを知り、言い出したら聞かない芯の強さも持っていた。まさに、ゲーム内に描かれた通りの愛すべき太陽の様な女の子だった。
だけど、今はもう違う。
私は今、失われた人生を取り戻すことに執着している幽鬼だ。一度絶望の果てに死んで、地獄の底から甦ったモンスターにも等しい。魔人族と竜人族に身体を汚され、前世でも今世でも、血のつながった弟を求め続ける。スキル欄に穢れた魂なんてものが追加されていても始めは驚いたけれど、サラの家を出た後はもうそれを有効に活用しようと考えられるようになった。
穢れた魂。
言わずと知れた――といっても記憶を取り戻す前の私は知らなかったが――魔人族の固有スキルだ。
デメリットは聖なる武具を装備できなくなるということと、聖属性の魔法耐性および効果に大きくマイナス補正がかかるということ。簡単に言えば、私は魔法によって傷ついた身体を癒すことが困難になったということだ。回復魔法の効果は0.3倍、蘇生魔法の成功率に至っては0.1倍――これに運と体力などから計算されるプラス補正がかかるのだが、雀の涙――だ。
魔人族のヒロインを仲間にした場合、呪われた武具を装備していなければほとんど役に立たないといっていい。
逆に言えば、強力な呪われた武具さえ持っていれば魔人族ほど頼もしい仲間もいないのだ。
私が前世でラヴ・ラヴィリンスをプレイしていた時、魔人族ヒロインの最終職業は剣士だった。
攻撃力では最高峰の聖なる剣「エクスかリバー」と肩を並べる両手剣「妖刀村正」を装備し、身体には体力自動回復の付加効果に加えて物理攻撃回避上昇効果がある「鬼女ノ羽衣」、足には俊敏さ増強効果のある「呪いのトゥシューズ」。これは敵を高確率で混乱に陥れる固有スキル「狂喜乱舞」をもつ。その他すなわちアクセサリーには身代わりプラス相手を即死させるが一度発動すると消滅する「呪いのわら人形」が二つ。聖属性の魔法でボロボロにされないように「リフレクトリング」を一つ持つのも手だ。
それぞれ手に入れるために必要なイベントやドロップモンスターとその出現場所の名称をメモ帳に書き込む。
呪われた武具を入手できるイベントは多くはない。
前世では行先を指定すればそのフィールドへ一気にジャンプできていたけれど、この世界ではそうはいかないだろう。限られた時間の中で効率的にイベントをこなし、ネルと肩を並べて最終イベントへ臨むのだ。
私は万難を退け、弟と結ばれるためならどんなことでもすると誓った。
そのためにはこれから起こりうることを整理し、準備し、障害を排除して行かなければならない。固有スキル「穢れた血」は、きっと役に立つだろう。
さて、ゲーム内でネルと結ばれるためには絶対に「起こさなくてはならないイベント」がある。それは、「リルとネルの再会イベント」だ。
当たり前と言えば当たり前だろう。ゲームの世界が、ネルが最終的にヒロインの誰かと結婚するか、死亡その他のバッドエンドを含めたどこかで終了してしまうのだとしても、私とネルが出会うイベントだけは最低でも起こさなければ話にならない。出会ってから結婚までのエピソードは全て頭に入っている。そこまでの障害となりそうな人物も全て排除するのだ。
リルとネルの再会イベントの発生条件は、ネルが戦士レベル20以上かつ連れているヒロインが三人以下、そしてラクロスでのイベント「クライスン家の闇」をクリアしていないことだ。これらさえ整っていれば、ゲームの迷宮内をランダムで移動している私とネルが出会った瞬間、私の攻略イベントが解放される。
クライスン家の闇というイベントは、ネルがとあるダンジョンでズズ・クライスンと遭遇し、迷宮内を彷徨っていた彼を助け出すことで発生する。
ラクロスの東にある大滝の裏に隠された迷宮で、探索に必要なレベルは最低でも30だ。それはパーティーメンバー全員がその域に達していることを前提にしているが、それでも攻略は難しい。複雑な迷路と罠の数々、状態異常持ちのモンスターの数々が待ち受けており、現時点で――ネルが冒険者になって三か月足らずで潜れるようなレベルの迷宮ではない。
また、ネルが結婚前の絶対通過イベントである「魔王討伐」をスタートさせるためにクリアしなければならない迷宮の数は多く、その中にはレベルが500程度はないと入り口を探すこともできないものが在る。
すなわち、現時点で私とネルが出会うこともないままゲームが終了してしまうことはまずないと考えていい。ネルが前世の記憶を残している上、冒険者になって旅立っていったことからも、彼がゲームの流れに乗って攻略する気でいることは間違いないだろう。
私の攻略ルート解放の鍵は「クライスン家の闇」だ。これをネルがクリアさえしなければ、レベル20の段階で簡単には会えない距離にお互いが居たとしても、イベントの発生条件は整ったままゲームを進行させることができる――仮に、そんなことは絶対にないはずだけれど、向こうが探していなくても私が絶対に見つけるのだから、心配いらない。
本来のリルはどうだったかわからなくなってきたけれど、私は念には念を入れる。クライスン家の闇をネルにクリアさせるわけにはいかない。
私はこのイベント自体を、闇に葬り去ることにした。
◇
「やっぱり……ちゃんとあった」
クライスン家の地下階は、実は二階まである。地下二階への入り口はお風呂掃除用の用具入れの中だ。こんなところ、使用人しか覗かないからだろうか。
なんにせよ、ジジは地下二階の存在を私に教えなかった。大丈夫。「クライスン家の闇」を暴く証拠は、今の時点でもそこにあるはずだ。
階段ではなく梯子を下る。壁には熱湯が通る水道管が剝き出しになっているため、触って火傷しないように注意しながら一歩一歩。とはいえ、竜人族のズズやジジが通れるほど縦穴は広いのだ。私は火傷よりも足音を立てないように気を使った。
ジジあたりが私を探していないとも限らない。緊張と熱気で顔から汗が噴き出す。配管に触れなくても、地下二階にはさっきまで湯を沸かしていたボイラーがある。冷めやらぬ熱気に当てられて蒸し焼きにされているような気分だ。
たった二十段の梯子を降りただけで汗だくになってしまった。
念のため上を見上げて耳を澄ましてみる。用具入れのドアは閉めておいたし借りている客間の鍵も閉めてある。地下の風呂場まで降りてくる間に何度も後方を確認したけれど、家人につけられている様子はなかった。
大丈夫。
無音だ。
私は地下二階――ボイラー設備の脇を通って扉を開け、その先にある小部屋へと足を踏み入れた。
ひんやりとした空気がそこには満ちていた。私は数秒だけそれを楽しんだ。そして、小部屋の中で探していた通りの品々を見つけて、ほくそ笑んだ。
◇
目的のものを手に入れた私は、またゆっくりと梯子を上った。登り切った先で――あるいは用具入れの前で誰かが待ち構えているかもしれない。せっかく引いていた汗がまた吹き出してくる。
「どういうこと!?」
梯子を登り切った私は、誰にも遭遇しなかった。
しかし、用具入れの戸は開かなかった。
内側から鍵をかける用具入れなどあるわけがない。私は、閉じ込められたのだ。




