第十四話:リル、起つ
シュミットの事務室で魔人族の少年アドリアルと再開したリルは、これまでとは違った意味で様子がおかしかった。
足早に歩いてはいても、その歩みにはどこかおっとりしているというか、親しみを感じさせる独特の「抜け」が感じられていたのだが、今の彼女の足取りは一部の隙も無い、確定した未来に向かって秒を刻む時計のゼンマイのような機械的なものに変わっていた。
知っている道でも迷ってしまうのではないか、きょろきょろと辺りを見回しながら、どこか小動物――例えばシマリスのような――を連想させていた彼女の目は、鋭く吊り上がり、炯炯とした光を宿す捕食者の目と化していた。
変わっていないのは、艶やかな髪の色や繊細なガラス細工のように透きとおった肌など、別段リルでなくとも、美少女と呼ばれるようなものなら誰だって持っているような外見的特徴だけだった。
「あんた……誰?」
だから、来客のために自宅のドアを開け、肩で息をするリルの姿を見たサラ・ブレアがこう言ってしまったのも仕方のないことだろう。
「サラ、弟は? ネルの捜索はどうなったの?」
「リル……? あんた、いったい」
「お願い、サラ。私はネルに逢いたいの!」
サラの自宅は意外にもクライスンの家から近くにあった。二ブロックほど南には、元は丘陵地だった土地を開いて作られた冒険連が運営する社宅群が並んでおり、管理職員用の大きな戸建の一つがそれだった。
太陽がまだ高い位置にあるこの時間帯は、社宅に住む大人たちの大半が働きに出ており、リルの声は周囲に立ち並ぶ白亜の石壁に反響していた。
「わかった、わかったから。とりあえず入って……!」
サラは、リルを屋内に引きずり込むように招き入れた。
◇
あちこちで道を尋ねてようやくたどり着いたサラ・ブレアの家は、かつて私と弟が住んでいたアパートよりもずっときれいなメゾネットタイプの住居だった。
「ごめんなさい。サラ、取り乱して……立派なお宅ね」
リビングに押し込まれた辺りで我に返った。記憶を取り戻したことで興奮しすぎたみたいだ。いきなり訪ねてきた女の子が、大声でまくし立てたら変に思われてしまうものね。
まあ、NPCの暮らしぶりなんてあまり関係のないことかもしれないけれど、サラとは今後も長い付き合いになるはずなので、彼女に関してはあまりないがしろにしてはいけない。
「そお? ありがと。ま、親父が出世するか、退職するまでの仮住まいだけど」
冒険者になるあたしには関係ない話かなあ、などと言ってからソファーに座るように促されたので、素直に従った。
彼女が飲み物を準備しにリビングを離れている間、歩きながら考察したことを整理してみることにしよう。
「迷宮探索型美少女ゲーム ラヴ・ラヴィリンス」は、ネルが旅立つシーンからゲームがスタートする。そこからはずっとネルの視点で物語が紡がれていくため、リルが行方不明になった彼と再開するまでの間のいわゆる「裏設定」の部分まで、私は把握できていない。
前世の記憶を失った状態の私は、無意識にシナリオ通りの人生を歩んでいたみたいだった。
たしかにネルと再開した時点でリルは冒険者になっていたのだから、冒険連の職員の態度に呆れ果て、自ら冒険者になろうとした私の行動は理解できる。初期のステータスを思い返せば無謀極まりなかったとは思うけれど、まあゲームの世界には「抗えない流れ」というものが在るのだろう。……これは、非常に大きな問題だ。
基本的にその流れを作るのは主人公を操るプレイヤーだと思う。今私が入り込んでしまったゲームの世界で、ネルの行動を支配するプレイヤーが外の世界――仮に「現実世界」と呼ぶことにしよう――に存在するとしたらどうだろうか。
ラヴ・ラヴィリンスに登場するヒロインの数は一人や二人ではない。主人公ネルの行動によってはまったく出会うことがないキャラクターも大勢いるし、中には敵に回ってしまうものもいた。
幸いリルを敵に回すというイベントは用意されていなかったと記憶しているけれど、それはあくまでネルが自由意思を持たない、プレイヤーに操作されるだけの傀儡であるという前提にしか成り立っていない。
そもそも、リルが攻略対象とならないただのモブ同然の扱いになってしまうことの方が圧倒的に多いのだ。
リルを攻略対象とみなしていないプレイヤーがネルの行動を操作しているのだとしたら、最悪ゲーム世界で彼と出会うことすらないまま、年を取っていく可能性だってある。
「冗談じゃないわ……」
現実世界とかけ離れたゲーム世界で、モブキャラに囲まれて暮らす自分の姿を想像して身震いした。
「何が、『冗談じゃない』わけ?」
サラが、木製のトレーに乗った茶器類をカチャカチャ言わせながら戻ってきた。どうやら私の独り言が聞こえたらしい。
「なんでもないよ。ごめんね。突然押しかけた上に、お茶なんか用意させちゃって」
「いいよ。あたしもリルには会いたかったからね。試験、どうだったの?」
さばさばとした性格の彼女らしく、単刀直入な質問だった。
「うん。ダメだった」できるだけリルっぽく聞こえるように気を使った。
「やっぱり?」
予想していたのか期待していたのか、サラは曖昧な微笑みを浮かべると、鮮やかなオリーブの葉が描かれた高そうな磁器と思しきティーポットから、同様の模様が描かれたカップに紅茶を注ぎ始めた。
脇の皿には焼けたバターの香ばしい香りを放つクッキーが添えられ、銘柄はわからないがどことなく柑橘系の爽やかさが混じる紅茶の香りとともに私の鼻腔をくすぐった。
「それ、あたしが焼いたんだ」
花型のクッキーを指差して言うサラ。
意外にも高い女子力を見せつけられたが、私は素直にそれを「おいしい」と褒めた。
サラ・ブレアはゲーム世界で攻略対象ではない。キャラクターボイスすら用意されていないモブもいいところだ。ネルを誰かが操作しているという仮定が崩れなければ、彼女が生きていることに何の不都合もない。
サラはリルが冒険者となってネルと再開を果たしたときも一緒にパーティーを組んでいたので、この先も何かと世話になることだろう。
「それで……弟のことなんだけど」
「わかってる。お湯を沸かしてる間に冒険連の人には電話しといたからさ。日があるうちは、親父も現場に行ってて確認取れないんだって。ただ、昨日までの調査では……」
カップの紅茶を一口飲んで、サラは首を横に振った。
まあ、当然と言えば当然だ。私はまだ冒険者にもなっていない。現時点でネルと再開できる可能性は限りなく低いだろう。今はとにかく、できうる限りの準備を進めるだけだ。
「ありがとう。サラ」
「電話の一本くらい、どうってことないよ。……それよりもリル、あんたホント、ここのところおかしいよ? クライスンたちと何かあったんなら、相談に乗るよ?」
カップをガラス製のコーヒーテーブルに置いたサラが、L字に配置されたソファーの対角線上に座っていた私に近づいてきた。
「さっきだって、えらい剣幕だったし……あ、リル」
「ごめんね、サラ。……大丈夫だから」
膝に手を置いて下から顔を覗き込んでくるサラの視線を避けて、私は立ち上がった。なんとなく、彼女が私にやたらと親切な理由が分かった。
「明日から、私もシーフ過程に参加するから。また、学校でね。お茶とクッキーをごちそうさま」
名残惜しそうなサラを振り切って、私はクライスンの家を目指した。ゲームの世界ではリルは方向音痴で閉所恐怖症といういかにも迷宮探索には向いていない設定だが、私は方向音痴でも何でもない。まあ暗くてジメジメしたところなんかは人並みに嫌いだけれど。閉所恐怖症かどうかはわからない。少なくともバスや電車、車に乗って冷や汗をかいたりすることはない。
それよりも、さっさと買い物を済ませて帰らなくては。大飯ぐらいの竜人族のために、食事の用意をするのを忘れてはならない。
◇
「なんだか、今夜は三人とも静かザマスねえ……」
リルとジジの会話にルルが割り込む――というか癇癪を起しながら食べる夕食が当たり前となりつつあったクライスン家のリビングダイニングは、数々の呪いの品が見守っていることも手伝って、ホラーハウスさながらに静まり返っていた。
どうにか静寂を破ろうとしたララ・クライスンであったが、リル、ジジ、ルルの三名は粛々と食事を続け、まずジジが席を立ち、後を追うようにルルが立ち上がり、残されたリルは二人の方に一瞥もくれなかった。
「ははーん。そういうことザマスね?」
一時、茫洋とした様子だったリルだったが、すぐに元の調子に戻って安堵したのも束の間、一転してツンと澄ましたような態度のリルと、普段の笑顔を消して険しい表情のジジ、二人を見比べて嬉々としているルルの三名を見ていたララが、彼女の正面で黙々と食事を続けるリルに向かって身を乗り出した。
「リル、ジジと喧嘩したザマスね?」
「……違います」
顔を上げたリルは軽く眉を上げて、これまでの彼女からは考えられないほど冷やかにひていしたのだが、ララの顔には笑顔が浮かんだのだった。
「隠さなくてもいいザマス。わたくしにはわかっているザマス」
「…………じゃあ、それでいいです」
「素直じゃないザマスねえ」
ふふん、と鼻で笑ったララは、若いうちは色々あるザマス。とかなんとか言いながら席を立ち、鼻歌交じりに二階へと上がって行った。彼女の足音がジジの部屋の方へ向かって行くのを階下で聞いていたリルは、盛大にため息をついたのだった。
◇
「ジジ~? ちょっとリルのことで話があるザマス! 入るザマスよぉ?」
聞えよがしとは、このことだろう。
ララは何を勘違いしたのか、ジジの部屋へ入って行ったようだった。
まあ、関係が悪化しているという意味では彼女の推察は間違っていないのかもしれない。しかし、ジジ・クライスンとは最大限距離を置かなくてはならない。彼は数年後、リルとの恋愛イベントの中盤において、ネルの元から彼女を奪い去ろうとするライバルとして立ちふさがるというイベントが用意されているのだ。たしか、「訓練学校の同期」ということ以外の事実をプレイヤーが知ることはなかった。現実世界でラヴ・ラヴィリンスをプレイしていた時は、一方的に恋い焦がれたストーカーだとばかり思っていたが、まさかリルとジジが肉体関係にあったとは。
そもそも、あの魔人族がリルを犯すというイベントさえ起きていなければ、夜な夜な夜這いをかけてくる竜人族を受け入れることなどなかったはずだ。亜人との行為は、私の人生観を大きく狂わせる原因となった。
ネルとするときはどんなだろう。
ごくりとローストした鶏肉を飲み込んだ自分の喉の音が、妙に大きく聞こえた。ゲームの流れを変える気はないが、少なくとも冒険者にならなければ私の夢想が現実になることはない。
さっさと、片付けて、お風呂に入ろう。家人が寝静まったら、行動開始だ。