第十三話:狂愛の記憶2 ※R15
私の名前は瑠璃。
二十八歳の誕生日を迎えた西暦二千十四年十二月二十日にこの世――日本を去るまでは、少なくともその名前だった。
私には家族が一人いた。配偶者ではない。十二歳も年下の弟だ。父親と母親はいなかった。最初からいなかったわけではない。死んだのだ。
私の暗い人生の中で弟が唯一無二の希望の光であり、私が日々働いて賃金を得ることも、私の内臓が複雑な機構を稼働させて日々身体の恒常性維持しているのも、弟を育ててどこに出しても恥ずかしくない一廉の人物にするために行っていることだ。それが私の人生の目標であり、悦びと言えば立派になった彼を見守る私を夢想することだけだった。
弟は生まれたとき、すごく小さかった。体重は千五百グラムしかなく、貧弱で、母親の乳を吸うどころか自力で空気を肺に送り込む力もなかった。たくさんのチューブに繋がれて、規則的な電子音がBGMの治療室で、透明な虫かごのような保育器に入っている彼を、滅菌されたガウンを着て、グローブ越しにではあるが触らせてもらった時、私は何かの機会を踏んづけて破壊し感電でもしたのでは、と感じた。
この子だ。
私はこの子を守るために十二年も早くこの世に生まれ、私の身体を構成する体細胞は粛々と細胞分裂を繰り返して成長しているのだ。
今朝初潮を迎えたのも偶然ではあるまい。この子の誕生をもって、私は名実ともに女となった。
私は毎日弟の身を案じて嘆いていた母を振り返り、確信をもって告げた。
大丈夫。この子は死なない。
私の予測の通り、弟は順調に育っていった。未熟児で生まれてしまったが、幸い日常生活に支障をきたすような障害は残らなかった。せいぜいマラソンは控えた方がいいとか、貧血気味だとかその程度だ。
乳児はマラソンなんてしないのだから、私が学校に行っている間に母乳の出も質も悪い母親が飲ませるミルクが喉に詰まりでもしない限り、彼が死んでしまうような心配はなかった。
私は学校から帰ると、つききりで弟の世話をした。初めての沐浴をさせたのも私だし、ミルクだって私が作ったものの方がよく飲んだ。おむつ替えや耳垢の掃除もした。病院に定期的に通わなければならなかったが、私が先生にお願いして放課後一緒に行けるようにしてもらった。
母は早く仕事に復帰したがっていたから、私のそうした行動を喜んでいるようだった。私が帰宅すると、いそいそと風呂に入ってコラーゲン繊維が変質し、表情筋が緩んでブルドックのような皺が寄り始めた顔に集中工事を施してから出かけて行った。彼女はタバコ臭い店で汗臭い客に酒を供する店を持っていた。
弟はよく夜泣きをした。
原因は酔っぱらって帰ってくる母親とうだつの上がらないサラリーマンの父親が繰り広げる壮絶な夫婦喧嘩だった。夫婦喧嘩の原因は、弟の父親が誰なのかということが九割を占めていた。
私はそれが始まると2DKのアパートを出て近所のコンビニに行き、小さなカップ麺を買ってお湯を入れるついでに、持参した水筒にも少々お湯を入れた。公園のベンチやブランコに座ってミルクを作り、弟に飲ませてやって、二人ともそのまま寝てしまったことだってある。
弟は病院から自宅に戻ってきた時点で生後十一か月だった。彼が離乳食を順調に食べて、ミルクがいらなくなるまでの約一年、そんな生活が続いた。
弟はあっという間に幼稚園に通うようになり、小学生になった。どうせ覚えていないだろうけど、身体が弱くて不器用だった弟は幼稚園生が大好きな遊びのほとんどが苦手だった。母親は「ママ友」なんてできるタイプの人間ではなかったし、そういう人たちと交流する気もなかった。おかげで弟には友達ができなくて、彼は幼稚園バスから降りてくるやいなや、迎えにきた私――母が追加の保育料を払って、私が放課後迎えに来られるようにしてくれた――の胸に飛び込んできたものだ。
私は弟の頭を撫で、荷物を持ってやり、手を繋いで家へ帰った。動揺を歌い、和室の畳に寝転がって絵本を読み、高校の購買で買ったパンをおやつに食べて、一緒にお風呂に入った。
母親はその間夫婦の寝室で寝ているか、パチンコにでも行っていた。
私と弟は、夕飯の買い物に行くのも、レンタルビデオ店で弟が大好きなアニメのDVDを借りるのも、いつも一緒に手を繋いで歩いた。私は少し湿っていて、暖かくて柔らかい彼の手が大好きだった。ぷくぷく、ぷるぷると揺れるほっぺをくすぐるのが好きで、しょっちゅう触っていたら嫌がるようになった。私は、その照れてはにかんだ笑顔が見たくてまたやってしまうのだった。
彼が小学校に上がって、私が専門学校に通うようになっても、私たちの生活に大きな変化は訪れなかった。どう考えても先に死んでしまう両親に、弟の一生を見守ることはできないし、そんな蓄えも期待できなかった。私は弟の世話をする傍ら勉強だけは真面目に取り組んだ。
弟は相変わらず友達ができなかったので、学校が終わると逃げるように家に帰ってきた。専門学校の授業が進んで実習に出かけなければならなくなると、私の帰宅時間は遅くなった。朝のうちに家族の洗濯を済ませて、晩御飯まで用意して家を出る。二十三時ごろ帰宅して弟の隣に倒れ込むようにして眠る、二,三時間後、夫婦喧嘩の声でたたき起こされるというのが私の新しい日常となった。
弟が三年生になったと同時に、私は歯科衛生士になった。
就職口には困らなかったし、週六日午前中だけの勤務でもかなりの収入があった。弟もさすがに三年生にもなれば、一人遊びをしながら家で待っていることくらいはできていた。私は家に生活費を入れながら、せっせと貯金に励んだ。
弟が五年生になった時、彼は地元の公立中学には行きたくないと言いだした。弟は暴力行為には発展しない、しかし陰湿ないじめを受けていることに心を痛めていた私は賛成した。周りの子に比べると塾に通ったり志望校を考えたりする時期が少々遅かったが、努力すれば何でもできる、が私たちの合言葉だった。
両親は学費の高い私立を受験することも、学習塾に通わせることにも反対だった。別に経済的には困っていないだろうに、理由は金だった。
私は週五日一日勤務に切り替えた。弟を学習塾に二年弱通わせて、受験させる程度の蓄えはあったし、パートで働いていた歯科医院に願い出て就職させてもらったことで、貯蓄を少しずつ増やしながら、受験の準備をさせることができた。
弟が全寮制の学校を第一志望に考えていると聞いたときはショックだった。
しかし、彼が初めて自分で考えて歩もうとしている未来を、私のわがままで潰してしまうわけにはいかないと、涙を呑んだ私は、応援するよ、とだけ告げた。
弟は本当に努力していた。目の下に隈ができるまで勉強して、小学校の授業で寝てしまうと先生から連絡があった。体育の授業中に倒れて保健室に迎えに行ったことが何度あっただろう。
彼が努力すればするほど、目標達成の可能性が上がり、それと反比例するように、私の気持ちは落ち込んでいった。それでも、私は明るく振る舞った。彼が貧血を起こしにくいように気を使った食事を作り、翌日に残りにくいように夜食のメニューにも頭を捻った。幸い、中学受験の勉強くらいなら教えてあげられる知識もあった。私たちは、二人三脚で中学受験に向かって進んでいた。
翌々年の春。弟は旅立って行った。彼が合格したのは、中国地方にある全寮制の中高一貫教育の学校だった。学費は年間二百万と少しだった。私はそれまで以上に仕事に精を出した。
弟は年に四回、実家に帰ってきた。帰ってくるたびに精悍な顔つきになっていく弟を見るたび、私は歓喜に震えた。彼の血も肉も骨も、私が働いて稼いだお金で造られている。小学生の頃のように寄り添って暮らしてはいなくとも、私はその自負だけで満たされた気持ちになった。思春期を迎えた彼が、私を口汚く罵ったり、せっかく帰ってきても自室に閉じこもって出て来なかったりしても、まったく気にならなかった。男の子はそういう時期があるものだろうし、母のように真っ向からそれに対立して関係を悪化させるなんて、愚かしい行動に出る気はさらさらなかった。
弟が中学三年の秋、実家に帰省した折、彼は高校には行かないと言いだした。
それは、寄宿学校にはもう行かないとかそういう意味ではなく、高等学校自体に行かないという意味だった。
理由は行きたくないから、俺はクリエイターを目指すんだとか言っていた。
それまで弟の進路に興味など示さなかったくせに、老いた母親はヒステリックに怒り、それ以上に老いた父親は頭を抱えた。
三人は夜遅くまで話し合い、最終的にはつかみ合いの喧嘩になり、弟は休暇を切り上げて寮へ帰ってしまった。
その翌週、両親が死んだ。
母親の店に入り浸る男との浮気を疑った父親が、店に包丁を持って押し入ったのだ。男ともみ合いになって腹を刺された父親は失血死し、何かを調理していた火が服に引火した母親は重度の熱傷を負って帰らぬ人となった。警察は逃げた男――恐らくは弟の本当の父親――の行方を追っていたらしいが、私にとってはどうでもいいことだった。
弟は希望通り、高校には上がらず実家に戻ってきた。
母の店を処分したことと、密かにかけておいた生命保険のおかげでひと財産を得た私たちは、横浜の繁華街からほど近い町にアパートの一室を購入して、そこに移り住んだ。
私は二十七歳、弟は十五歳だった。
クリエイターになりたいという弟のために、内装をリフォームして防音の部屋を造ってもらった。名前も機能もよくわからない音響機器やパソコン、テレビにゲーム機、弟に言われるままに買い与えた。
弟は食事と風呂とトイレ以外で私と顔を合わせなくなった。
ほとんど音が漏れない部屋に閉じこもり、耳と髪の毛に跡が付くほどにピッタリとヘッドホンをくっつけて何をしているのか、こっそり天井に仕込んでおいたカメラの映像ですべてを知っていたが、私は何も言わなかった。
私が仕事に行っている間も帰って来てからも、彼はパソコンかテレビ画面の前に腰を降ろしてゲームをしていた。彼は時々届く怪しげな通販サイトで購入したアダルト商品を受け取るとき以外――小遣いは潤沢だったはずなので、さすがにクレジットカードは与えていなかった――部屋から出て来なくなった。
食事をドアの前に置いておくと、一応は食べて食器を出しておいてくれるのだが、ぶくぶくと太り、薄汚れたスウェットに身を包んで背中を曲げて画面に向かう彼の体調を案じて話しかけたりしようものなら、すでに男性のものとして確立された怒声が叩きつけられるので、私はカメラの映像を頼りに、彼の生活を見守ることにした。
そんな生活が一年と少し続いて、私は二十八歳の誕生日を迎えた。もちろん、弟はおめでとうと言ってくれなかった。
カメラの映像に映る彼は、その日も朝から美少女ゲームと自慰行為に夢中だった。男性経験などない私が、カメラ越しに見る弟の欲望の対象のように振る舞うことなどできそうもなく、それまでは彼がプレイしているゲームを私も購入して、やり込んでみるくらいしかできなかった。しかし、私にとってはあまり意味のない人生の節目を迎えるにあたって、私はある計画を実行に移そうとしていた。
私は仕事に出かけると偽って、秋葉原へ赴いた。弟が当時もっとものめり込んでいた美少女ゲーム「ラヴ・ラヴィリンス」に登場するキャラクターのコスチュームを購入するためだった。そのゲームの世界には沢山の迷宮があり、主人公はそれを攻略することが仕事の冒険者を夢見る十五歳の少年だ。彼には姉が一人いて、その女性も攻略対象となっている。
ゲームの主人公は複数の女性と関係を持つが、弟はそのキャラクターが一番のお気に入りで、幸いその女性と私は容姿が似通っていた。ちょっと髪の色を変えて、ファンタジーっぽい服装にきがえただけで、私はゲーム画面から飛び出して来たような格好になった。
帰宅して衣装に着替え、家主としては当然持っている弟の部屋の合鍵を使い、彼の部屋へ侵入した。ベッドでいびきをかいていた彼は慌てて起き上がり、むき出しの下半身と異臭を放つ丸まったティッシュペーパーなどを隠そうとして――ポカンと口を開けた。
ネル、ただいま。
わざと、ゲームのキャラクターっぽく言ってみた。
床に散乱する黄ばんだゴミや、もはや食物とは呼べなくなるまで雑菌による分解に晒された菓子を踏みしだきながら、私は弟に近づいて行った。
姉……さん?
彼が私を「おい」とか「ババァ」以外の呼称で呼んだのは本当に久しぶりだった。私は感極まって泣きそうになったが、ネルの姉は明るくて、前向きで、太陽の様な少女だった。私は精いっぱいの笑顔でもって、もう一度弟の名を呼んだ。
次の瞬間、私は弟のベッドに組み敷かれていた。
覆いかぶさってきた弟の肉の感触は、手を繋いで歩いていたあの頃とは異質なものになっていた。皮脂によってヌルつき、毛穴で増殖した雑菌が放つ臭気に気が遠くなりそうだったが、彼の手が私の胸に伸びてきたことで意識を繋ぐことができた。
むしゃぶりつくような彼の行為を肌に感じるたび、めったに歯みがきをしない彼の口臭が鼻を突いた。糖尿病でも患っているのでは、と思わせる、独特の甘ったるい歯周病原菌が産生する毒素や分解されたタンパク質の匂いを鼻腔一杯に吸い込んだ私は、学生時代に見学に行った、医学部の人体解剖実習室を思い出していた。
天井の染みならぬ枕の染みを数えているうちに、獣の様な弟の行為は終わった。正直に言えば痛みしか感じなかったが、うつ伏せになった私の横に倒れ込んでいびきをかき始めた弟の顔を眺める私はたしかに悦びを抱いていた。私は弟を部屋に残してシャワーを浴びに行った。シーツに残る赤い染みを目の端に捉え、頬を赤らめながら。
その日、弟は部屋から出てこなかった。
私は人生で初めて経験する感情を持て余し、彼との行為を思い返しては熱くなる頬を両手で覆っていた。
翌日になっても弟は部屋から出てこなかった。
私は彼の感触が生々しく残る下腹部を撫でながら、出勤した。
帰宅した私は、強烈な異臭に鼻を覆った。
ガスだった。
ああいうとき人間は本能で動けるのか、今になって思えばテレビか何かでそういうシーンを見た記憶からとっさの行動に出たのか。
ともかく私は、部屋の窓を開けて換気を行い、ソファーにもたれて目を閉じている弟の元へ走った。
弟は死んでいた。
どれくらいそうしていたのだろう。
もともと白っぽかった彼の皮膚は、血の気が引いて豆腐の様な色になっていた。
もともと設置されていたガスの警報器には、ラップとガムテープで覆いが為されていた。ガムテープをしまってある場所なんて彼は知らなかったはず。食卓の上に放置されていたコンビニエンスストアの袋を発見した私は、最近近所に出店したそれの存在を呪った。
弟は死んだ。
私は人生の希望を失った。
窓を閉め、弟が最後に購入した遺品であるガムテープでドアや換気扇に目張りをした。
ガスが部屋に充満し、呼吸が苦しくなるのに長い時間はかからなかった。
私は、コンロのコックを思い切り捻った。
◇
強烈な発光。
それは私が――瑠璃が見た最期の映像となった。
今、私はリルという名前でラクロスという町にいる。それは弟がのめり込んでいた、あのゲームに登場する町の名だ。そしてリルは、ゲームの主人公ネルの姉に他ならない。
どういうカラクリか、私はこの奇妙な世界に入り込んでしまったらしい。それとも、ガス爆発からどうにか生き残った私が、病院にでも運ばれて生かされながら見ている夢なのだろうか。どちらでもいいし、どうでもいい。
私は新たな生を得て、再び弟と人生を歩むことを許されたのだ。
ネルは旅立ちの日、私に言った。
「姉さん、本当に何も覚えていないのか?」と。
あのときは何のことかわからなかったけれど、全てを思い出した今、その謎は解けた。
ネルも、前世の記憶をもってこの世界にいる。彼はシナリオ通り冒険者となって、迷宮で行方不明になった。私は記憶を失ったままではあったが、シナリオ通り彼を追ってラクロスの町にやって来た。これからやらなければいけないことは山ほどある。
ネル、あの時は、コスプレなんかして驚かせてごめんね。それとも、姉さんが初めてだったから、そっちの方がショックだったのかな。大丈夫。今度はもう、びっくりしなくていいからね。
私はリル・エルファー。
ゲームの世界で言うところのハイン歴1985年12月20日生まれ、17歳。
誕生花はアイビー。
花言葉は「死んでも離れない」だ。
アイビー(セイヨウキヅタ)
古い建物の壁を覆うアイビーの姿は、多くの場合魅力的な光景である。断熱効果の利点があるが、管理されていなければ問題が生じる。特にセイヨウキヅタは、非常に急速に成長し、茎全体に沿って生えてくる細根によってしがみつく。これらは、壁に見苦しい「あしあと」を残すことになる。除去するのが困難であり、場合によっては高価な再舗装作業を行う必要が出てくることもある。さらに、溝や屋根裏に侵入し、タイルを持ち上げて、排水路を塞ぐこともある。そのことが、ネズミなどの厄介生物の住処となる場合もある。再び生えてこなくするには、根元で切断し、切り株を掘り上げて根絶やしにする必要がある。
出典:Wikipedia