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第十一話:紅の視界 ※R15

 唐突に、キスされた。


 それは、そのあとに訪れる彼との行為の前の儀式的な意味を含んでいたわけではなく、ただ私の体内を蹂躙し、汚すための通過点でしかなかった。そこには当然、恋だの愛だのという酷く人間的な、子孫を残すことこそ生命体が本来最優先に行うべき、まさに命題といえる生命体の至上目的を果たす上では邪魔にしかならない感情は存在しない。


 彼の舌は私の口中を文字通り蹂躙した。強制的に侵入してくる粘膜に覆われた筋肉の塊が蠢くたび、私の頭の芯がしびれていくかのようだった。唾液にそうした作用でもあるのかしら、そう思った次の瞬間、私の下腹部にかつて経験したことのない高まりが押し当てられた。信じがたいことに、私はそれだけで絶頂を迎えていた。


 魔人族とそんな行為に及ぶなんて、しかも、人が行き交う往来で? どんなに心が拒否していたのか知らないが、気がつくと私は、人目もはばからず獣のように叫び、彼の腰にしがみついていた。


 官能小説家 ヒラリー・ハンプ著 「パンデモニウム」より抜粋。

 ※彼女は十五年前この作品を最後に、失踪した。







 貧民街(ファヴェーラ)で人間とホビットの男性二人の遺体が見つかった。ラクロスの町においてその地区で死人が出ることなど珍しい話ではないし、いちいち市井に生きる一般人たちの話題に上ることもないのだが、この日ばかりは事情が違うようだった。


「『一人は首、一人は胴体を一刀のもとに切断されたらしい』だって。――リル、聞いてる?」


 赤いスムージーの入ったグラスにストローを突っ込んだり出したりしている、昨日と色違いのジャージを着たリルの顔を覗き込んだサラ。彼女は朝からリルの目が酷く虚ろなものであることを気にかけており、今日も昼休みになるとリルの腕を引っ張って、先日のカフェへと引きずり込んだのだった。


「『現場には二遺体の血液以外にも、微量だが第三者の血液が残されていた。専門家は、ファヴェーラの住人と戦って手傷を負わせられるような腕前では、こんな鮮やかな切り口はつくれない、とコメントしている。現在“警隊”は、血痕の主を探して周囲の聞き込みと捜索を行っている』だって。……リル!?」


 ため息の後、再び新聞に目を落としたサラは、カップルシートの隣に座るリルの顔がいきなりドアップになったことに驚いてのけ反り、危うくシートから転落しそうになったが、そこはシーフ志望のバランス感覚によって回避することに成功していた。


「ど、どうしちゃったわけ……?」


 サラが取り落とした新聞を拾い、食い入るように紙面を見つめるリル。瞬きすらしない彼女の様子を心配そうに見つめるサラだったが、彼女の呼びかけに、リルはなんの反応も示さなかった。


「あ、そうだ! ネル君のことなんだけど!」

「…………」


 これならどうだ、と、手を鳴らしたサラだったが、リルは紙面から顔を上げただけだった。


「えと、聞いてる……よね?」


 冒険連ラクロス支部迷宮課の課長を父に持つサラが、ラクロス新迷宮の探索に向かった新人冒険者ネル・エルファーの現状について語ったところによると、ラクロス新迷宮の探索は現在地下八階の半分程度まで進められているが、これは通常の速度の半分以下であり、それだけ新迷宮の攻略は困難であるということを示している。迷宮の探索を困難にさせている理由として考えられているのは――これはまだオフレコだそうだが――ラクロス新迷宮は「転移迷宮」かもしれない、ということだそうだ。


 転移迷宮とは、簡単に言って三つのタイプがある。迷宮内にワープゾーンが多数あり、正しい順番で転移しないと踏破できないものと、迷宮そのものが定期的に転移してしまうものと、両方の特徴を兼ね備えたものだが、それは迷宮だらけのこの世界でも極めて珍しいタイプである。これについての詳しい説明の機会は後々設けよう。ともかく発見されたばかりの転移迷宮に潜ったパーティーを追跡することは極めて困難であり、ネルを含め探索チームのほとんどが現在行方不明になっているが、ネルの初心者チームは冒険連の探索係と行動を共にしているらしく、存命の可能性は極めて高いだろうとのことだった。


「親父は『うちの探索係は実力者揃いだから安心してくれたまえ』って言ってたからさ……リルも、元気出してね」

「…………ネル」


 話し終えたサラから視線を外し、ポツリと弟の名を呟いたリル。迷宮課の職員とは最悪の出会いを果たした彼女が、サラの言葉でどれだけ安心できたのかはわからない。


「あんた、ほんとにどうしちゃったわけ……?」


 結局ランチの間、サラの呼びかけにそれ以上リルが応えることはなかった。







 昨日同様、一日の訓練が終了した後は立ち上がることもできなくなったリルは、これまた昨日同様体力回復薬(ポーション)のお世話になっていた。ただし、彼女がこれを口にしたのはまだ一本目だ。


 たった一日の訓練で、リルが劇的な成長を遂げたのか。


 そんなに簡単に体力増強が叶うものなら、誰も苦労はしないだろう。

 だがリルは訓練中、弱音を吐くどころか終始無言だった。昨日は砂嚢を引きずって走る訓練の途中で倒れたのち、泣いて起き上がることができなかった彼女であった。当然、今日も同じ訓練の途中で倒れはしたのだが、彼女は何事もなかったかのように無表情で立ち上がると、訓練を再開したのだった。


 そのようなリルの姿を、人間の生徒たちは気味の悪いものでも見るように、ジョナサンとサラですら遠巻きに見ているだけだった。亜人たちはさして興味がないのか自分たちの訓練メニューに勤しんでいたが、ジジだけはリルの様子をつぶさに観察していた。


 しかしさすがに限界を越えてしまったのか、訓練の終了と同時に運動場の地面に倒れ込んだリルは、見かねたサラに助け起こされてポーションを飲んでいた。


 そしてまた、そんな二人を照らす西日を遮ったものを見て、サラは顔をしかめたのだった。


「リル、家へ帰ろう」また、同じセリフの繰り返しだった。


 サラはまたしてもリルに向かって差し出された手から庇うように立ちふさがった。


「ちょっと、クライスン! あんただってリルの様子を見てたでしょ!? もう少し休まなきゃ無理に決まって――リル……?」

「サラ、ありがとう…………」


 ふらつきながらも立ち上がり、ポーションが入っていた小瓶を手にしたリルが、勝ち誇った笑みを残して踵を返したジジの隣に並んだ。







「いったい、今日のあいつはどうしちまったんだ?」

「あんたのせいじゃないの? いったい昨日何を話したのよ」


 あとからやって来たジョナサンが遠ざかっていくリルとジジの背中を気味悪げに見ながら言うと、サラは腕を組んでその顔を睨み上げた。

ジョナサンは「いやいや、あんな風になるようなことは言ってないぜ」と返して肩を竦めてみせた。


「おい、人間」


 サラがふぅん、と、鼻から息を吹いた時、背後から声をかけたものがあった。二人が振り返るとそこには狼の頭部をもつ獣人族がいた。


「……なによ」

「お前には話しかけていない。引っ込んでいろ」


 剣呑な表情で振り返ったサラに向かって、獣人族は短く唸ってみせた。狼の血を引くせいなのかどうかわからないが、彼らの社会では男尊女卑の傾向が顕著であり、一部のマゾヒストを除く人間の女性からは忌避される傾向にある。


「何の用だ、ハヴ」

「……お前、気付いていないのか」

「?」


 掴み掛らんばかりのサラの襟首を掴んだジョナサンの方に向き直った獣人ハヴの物言い――牙の先端が少し見え隠れする程度の、口を僅かに動かすだけの独特な動きだった――に首を傾げると、ハヴはフン、と、獣らしく鼻を鳴らした。


「お前たち人間や竜人の鼻が悪いというのは、こういうときだけは得だな」

「種族自慢なら他所でやってよね」


 ハヴの嫌味に反応したのはサラだった。


「おい、サラ」


 ジョナサンはそれを窘めたが、ハヴは無視した。まさに歯牙にもかけないといった態度にサラは余計憤懣をつのらせたが、ジョナサンの太い腕は彼女が行動を起こすことを許さなかった。


 ハヴはすでに人通りに紛れて姿が見えなくなったリルとジジが去って行った方を見据えて再び鼻を鳴らしてから口を開いた。


「あの編入生の女、血の匂いが染みついていたぞ」

「なん、だと?」




 ◇ ◆ ◇ ◆




 神様が血を流しているみたい。


 冒険連ラクロス支部職業訓練学校の運動場から空を見上げたリル・エルファーは、西の地平線に向かって沈みゆく恒星がもたらした赤い空を見てそんな感想を抱いた。


 あの日以来、夜が怖い。ジョナサンと別れてからどこをどうやって帰ったのか覚えていないし、身体が自分のものでないような違和感が常にある。


「リル、お疲れ!」


 少しハスキーな声に振り返ってみれば、編入初日から何かと気にかけてくれる友人が駆けて来るところだった。手にはいつもの体力回復薬(ポーション)が握られている。


「サラ……ありがとう」断るのも悪い気がしたので素直に受け取った。


「あんた、本当にどうしちゃったのよ。なんか最近全然平気そうじゃない?」


「うん……」どう答えたものか自分でもわからない。


 たしかに初日からは考えられない成長ぶりだった。マックス先生の特別メニューは、想像を絶する辛さで、初日は何度も倒れたし、体力の限界を迎えて気絶したこともあった。耐えがたい四肢の痛みに涙さえ流したこともあったが、やはりあの日から身体の感覚がおかしいのだ。身体の末梢は深刻な疲労とダメージを痛み信号として発してはいるのだが、それを頭が感じることを拒否しているような、感じてはいるけれど知らないフリでもしているような。身体に何がしかの負荷がかかると、そんな風に感覚が希薄になる。数日はそれが不気味で仕方なかったが、家事と訓練に忙殺される日々が一週間も経つ頃には気にしなくなっていた。


「戦士過程は絶対無理だろうって思ってたのに、最終日まで来ちゃったもんねぇ」しみじみと言いながら、サラはポーションの瓶を開けた。


「うん……」いちおう返事を返しておいたが、自分が訓練をやり遂げた、という自覚はない。


「明日の試験、頑張ってね!」


 バン! と背中を叩かれた。


 そうか、もう試験か。


 リルがサラにつられて瓶の蓋を開けたとき、運動場に並んで座る二人を照らす夕日を遮って近づくものがあった。


「リル、帰ろう」背後からかけられた声は、ジジのものだった。長く伸びた影の形を見て、彼が大きな荷物を抱えていることが分かった。


「……クライスン。毎度毎度、あんたは空気ってものを」


「明日の試験の資料をまとめたんだ。リルは座学に出ていないから、今夜中にこれだけやっておけば、筆記は大丈夫だろう」サラのことは完全に無視して話すジジの影が動き、頭の上に掲げた荷物が数冊の本であったことが判明した。




 帰りは毎日ジジと一緒だった。おかげで貧民街(ファベーラ)に迷い込むこともない。竜人族――ましてやラクロスでは有名なクライスン家に絡んでくる輩もいないのだが、同じく戦士過程を修了した竜人族は明らかに二週間前よりも迫力を増しており、絡んでこないどころか軽く避けられていた。


 帰り道で夕飯の買い物を済ませたリルは、クライスンの屋敷に戻るとすぐに風呂を沸かし、夕飯の支度にとりかかる。どうせ下味をつけた数種類の肉を焼くのと、消化不良を起こさないように適量の野菜をマリネしたりサラダを供する程度の簡単なものだ。竜人族は菓子を食べる習慣がない。


 どこへ行っているのか毎日外出するララの帰りを待っている間に洗濯ものを取り込んでたたみ、各々の部屋へ届けた。


「ん~。今日もいい匂いザマス!」


 ララが帰ってくると夕飯だ。肉ばかりが並ぶ食卓にも慣れたもの。竜人族の好みに合わせた肉の焼き加減も覚えた。


「美味しいよ。リル」ジジが野球のグローブの様なモモ肉のローストを骨ごと咀嚼しながら感想を述べた。


「ありがとう、ジジ」


「フン! 前のお手伝いさんの方が、お料理は上手でしたのに!」


 二人の様子を見ていたルルが毒づいた。


 ダイエット中だという彼女のために用意した二キロのササミをあっという間に平らげた後は、均等に切り揃えられた野菜スティックに手を伸ばしていた。


「ごめんなさい、ルルちゃん。そうだ、手洗いの分は別に出してくれると嬉しいな」謝罪と同時に希望を伝えておいた。クライスン家の全自動洗濯機は便利だが、ルルが好んで着用するフリフリが付いた下着やゴスっぽい仕様の服を洗うには、回転洗浄層は力が強すぎる。


「馴れ馴れしく呼ばわるなといつも言っていますでしょ!」ルルは、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「リルは本当に働き者ザマス! 冒険者になんてならなくても、ずっとわたくしの屋敷で雇ってあげるザマス!」


 会話の方向を、ルルの機嫌が悪くなるように変えたのはララだった。


「ずっと!? 冗談じゃありませんわ!」


 案の定、ルルはダン! とテーブルを叩いてから席を立った。初めのうちはオロオロしたが、こんな光景も見慣れたものだ。


 ルルが二階の自室に駆けて行く足音をBGMに食卓を囲む面々。しばし肉を咀嚼する音だけが呪われた品々が息づくダイニングに満ちていたが、竜人族の二人よりも先に食事を終えたリルが、紅茶でも淹れますね、と、言って席を立った時だった。


「母様、リルの今夜のお手伝いは休ませてあげてくれないか」クライスン家の長男が、立ち上がったリルの手を取って言った。

「ジジ?」

「…………」


 リルは驚いた表情を作り、ララは目を細めて首を傾げた。


「リルは明日、職業適性試験なんだ。今夜は少し時間をかけて、座学を教えてやりたいのだけれど」どうかな、と、ジジは目で問いかけた。


「構わないザマス。見事合格できれば、実家のご両親にもいい報告ができるザマス」ララは頷くと、食事を再開した。


「じゃ、リル。お風呂を済ませたら、部屋に行くよ」

「……わかったわ」




 ジジがまとめた座学の資料は、大変にわかりやすく、戦士という職業についてリルが理解を深めるのに十分に役立った。数回の口頭試問を経て、これなら明日の試験はバッチリだとジジが太鼓判を押すようになるまで、ほんの四時間程度の時間で済んだことは、これまで読み書き以外の学問をほとんど学んでこなかったリルの飲み込みの速さのおかげでもあった。


「う~ん、疲れたぁ……」


 客間のベッドに座って資料を確認していたリルが立ち上がり、大きく伸びをした。


「リル……」


「ジジ?」背中から腰に回された手を見つめ、リルは身体をこわばらせた。


「どうした?」


 耳元で囁くように問う声に背筋がゾワついたのも一瞬のこと、抱きすくめられたリルの身体は軽々と持ち上げられ、ベッドに横倒しにされた。


「ジジ……今夜はもう」

「ダメだよ。我慢できるわけがない」


 覆いかぶさってくる亜人の重みに耐えかねて洩らした吐息を勘違いしたのか、それを合図にジジの手が服を脱がしにかかる。抵抗しなければならないというのに、頭の芯がしびれて身体が動かなくなった。


 何者かの舌が唇をこじ開け、湿った音と感触を味わった後、それは下へ下へと降りていった。身体の感覚が希薄になっていく。感じるのは微かな重みだけ。


 視界は真っ赤に塗りつぶされている。


 あの夜と同じように。




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