波乱の挨拶回り編⑲ 目覚めしヘンリー
目を覚ましたゲスリー殿下は、場違いなほどゆったりとした動きで体を起こし、戸惑う私達の前で腕を頭上に掲げて伸びをする。
そしてちらりとこちらをみると、目をパチクリと何度か瞬きして首を傾げた。
「君たちは、誰?」
……は?
キョトンとした顔で唐突にゲスリーがそう言った。
思ってもみなかった言葉に思わず固まる。
「それに……ねえ、僕が誰だか、君達は知ってる?」
また、ゲスリーの口から呑気な声で意味不明な言葉が続く。
……目覚めた途端にこいつ、この後に及んで何を言い出すんだろう。
さっきから頭が真っ白になることばかりだ。
私は思わず目をすがめた。
「なんの冗談ですか? 全然面白くないんですけど」
私は警戒しながらそういうと、なんの含みもなさそうな瞳で私を見て、困ったように眉根を寄せた。
「冗談……? 違うよ! えっと、本当に僕は、僕が一体誰で何者なのか、よくわからなくて……」
不安で声のトーンがいつもよりも高くなってるのか、怯えた小動物のようなゲスリーから出た声は、ひどく幼く聞こえた。
え? どういうこと?
なんだか、よくわからないことになった……。
怯えた様子のゲスリーを見ながら、私もアランもカイン様だって固まった。
だって、記憶喪失ってこと……?
ちょっと意味がわからない。私がつかった呪文の中にそういう効果の魔法が……? でも魔法が発動した感じはしなかったけど……。
でも、実際にゲスリーさんが僕は誰? とかふざけたこといってくるわけだし……。
それとも魔法とは関係なく頭をぶつけた衝撃で記憶が飛んだとか……?
いやいや、もしかしたら私たちをこうやって悩ませることこそがゲスリーの狙いの可能性がある。
意味わからんことを言って、オタオタする私達をみて愉悦するという趣味の悪いお遊びなのでは……?
疑いの目でゲスリーを見てみるけれど、ゲスリーは引き続き怯えた草食動物みたいな顔をしており、その姿からはゲスリーの真意は測れなかった。
「殿下、ご自身が殺そうとした相手のこともお忘れですか?」
カイン様がそう言って近寄ると、ゲスリーの襟を掴んで乱暴に引き寄せた。
カイン様らしくない荒々しさに思わず目を見開く。
ゲスリーも怯えるように瞳を揺らした。
「こ、殺す……? わからない。君は誰……?」
消え入りそうな声でそう返すゲスリーを見て、カイン様は目を見開いた。そしてすぐに眉根を寄せて傷ついたような顔をする。
「ふざけるなよ……!」
絞り出すような低い声でカイン様はそういうと、ゲスリーを突き放した。
カイン様に襟元を引っ張られて少し宙に浮いていたような形のゲスリーは、突き放されるとそのまま地面に倒れ込み、顔に土につけて……綺麗な顔に汚れがついた。
今までのゲスリーなら、こんな扱い許さなかっただろう。
でも、ゲスリーは怒りもせず、汚れた顔にある大きな目を見開いてカイン様を見上げるだけだった。
その顔には、今までの自信たっぷりなヘンリーの面影は全くない。怯えた、子供のようなゲスリーがそこにいた。
「リョウの魔法がこうさせたのか?」
カイン様がゲスリーを見ながら私に問いかけた。
私は小さく首を横に振る。
「多分違うと思います。けれど……確証はありません」
「……さっき、リョウ達はルビーフォルンに魔法についてのことを知ってる人物に会いに行くという話をしていた。その人に会えば、殿下のこの状態についても分かるのか?」
「それも……確実とは言えません。分かるかもしれないですし、わからないかもしれない」
自分で言っていて、情けなくなった。
ゲスリーがこうなってしまった現象が私が先ほど唱えた呪文のせいかもしれないのに、私はそれを確かめることができない。
どうして私は、あの時、なんの準備もせずに色々呪文を試してみてしまったのだろう。
焦っていたのもあるけれど、それでも、もう少し慎重にやるべきだったかもしれない。
人を思いのままに操れる、そんな嘘みたいなことが現実になるかもしれない恐ろしさと、今の状況をどうにかできるかもしれないという期待が、私を冷静じゃなくさせていた。
そして、こうなった以上、余計に魔法のことについて真実を確かめなくてはいけないというのに、その方法はジロウ兄さんに会って話を聞くという、不確かなもの。
ジロウ兄さんに会えるかもわからないし、ジロウ兄さんが知っているかも定かではない。全てがあやふやだ。
「大丈夫だ。まずはその人に会いに行ってみよう。それからでも遅くはない。行ってみて、何もわからなかったとしても、それはその時後悔すればいい」
アランがそう言って。元気づけるように私の背中を支えた。
たしかにアランの言う通りだ。
今嘆いていてもどうしようもない。まずは確認しないことには分からない。
「そうですね……。どちらにしろ確かめに行くしかない」
私がひどく苦々しい気持ちでそう言うと、カイン様が頷いた。
「……そうか。なら、私も行く」
声は小さかったけれど、はっきりとカイン様はそう言った。
意外な言葉にカイン様を見た。
「殿下をこのままにはできない」
そう言ったカイン様の横顔は、すごく真剣で、先ほどまでの怒りは感じなかった。
あんな目にあっても、ゲスリーの身を案じているということなのだろうか。
カイン様の横顔を見ても、彼の真意はわからなかった。
「分かりました。場所はレインフォレスト領にも近い山の中腹です。ここからなら2,3日でたどり着けると思います」
ただ、たどり着いたとしてもジロウ兄さんに会える保証がないけれど。
でも、そこまで一緒に行動しているうちにゲスリー殿下の思惑も分かるかもしれない。
私は改めてゲスリーを見た。
頬に土をつけて、不安そうに私達を仰ぎ見る、弱々しい姿のゲスリー。
本当に記憶を失くしたのか、それともそういうフリをしているだけなのか。
そういうフリをしていた場合、彼の目的は何なのか。
一緒に行動しているうちに分かることもあるはずだ。
そうして私達は、ゲスリーを連れ、生物魔法のことを聞くためにルビーフォルンへと向かうことになった。