閑話:ラゼッタ・ソルフェリノの場合
あたしがあの子に出会ったのは、丁度二年前の春ぐらいだった。
体育の授業後の休み時間、移動教室で一階の廊下を歩いていたあたしは何かにぶつかった。
例えるなら強風に吹かれたダンボールが体に一瞬引っかかったような、軽い感触。
どうやらぶつかったのは人間だったらしく、すぐそこに女の子が座り込んでいる。
その子の外見は、とても変わっていた。
まず視界に入ったのは、長い長い蛇のように光沢のある世間では珍しいぬばたまの髪の毛。……足首まである。
そしてその足首にも枷のようなものがつけられていて、そこから伸びる鎖は何かで砕いたのか途切れている。
上半身をよく見れば首と右手首にも枷がつけられており、鎖で繋がっていた。
真っ白な体の、なんと細いことか。皮と骨でしかできていないんじゃないかと思うほど、体の肉付きがよくない。
着る服は長く着ていたのか薄汚れ、端が解れて糸が垂れている。ところどころに窺える青痣や傷跡が痛々しい。それに、靴も履いていないではないか。
名前も知らない、得体の知れない彼女は、この学院の中で異様な存在に見えた。
少女はあたしを見上げて目を見開いている。驚いているというよりも、怯えている……?
流石にこのままでは気まずいし、面倒だったがこんな場面を他の生徒達に見られたら
有らぬ誤解を生みそうだったから、あたしは彼女の足元に歩み寄りしゃがんで手を差し出した。
「ごめんなさい、大丈夫?」
「あ、ぅ……は、はい……」
少女は躊躇いながらも手を重ねる。
あたしは目つきが悪い。表情も仏頂面がデフォルトで、殆どのクラスメイト達は怯えてあたしに近寄らない。
だから、彼女の反応も別に気になるようなものではなかった。
少女はゆっくりと立ち上がる。背は低く、普通に立っているにも関わらずあたしの鳩尾程度しかない。
「えっと、あの……ありがとう……」
「いいえ。怪我がないようなら良かった。」
抑揚もつけずに棒読みで返す。この時点では彼女のことなどどうでもよかったのだ。
ただ廊下でぶつかっただけの少女。手を差し出し助け起こしたのだってこの状態を見た生徒が誤解をしないために、だ。
おどおどしていた彼女は突然何かを思い出したように顔を上げると、あたしに迫り寄る。
「あのっ、あの……おんなのひとと、はぐれちゃって……し、しりませんか。」
「女の人と逸れた?……特徴は?」
「え?えと……うすむらさきいろのかみのけの、おばさま……?ジュリナが『ライラさん』って」
「ジュ……?『ライラさん』って、副院長のことかしら?」
一瞬『連れて行ってあげましょうか?』と言いかけて、口を噤む。
今は体育授業室から教室に戻る途中なのに……側の壁に掛けてある時計を見れば、そろそろ休み時間が終わる頃だった。
このままでは次の授業に遅れてしまうし、面倒ごとは御免だ。
悪いけど適当に流して立ち去るしか……明らかに年下に見えるこの子に付き合って遅刻とか、嫌過ぎる。
「ごめんなさい、授業」
「すみませんっ、『ライラさん』のところにつれていってもらえませんかっ」
「えっ、」
「おねがい……します、おねがい……」
「話を聞い」
「このままおいていかれたら、わたし……」
少女の綺麗な若苗色の瞳が水分を纏う。
勝手に泣かれても困る。こんな場面を見られて虐めていると勘違いされても困る。
……仕様がない、副院長はどこにいるだろうか。だいたいは夫婦で院長室にいることが多いから、まず最初にそこに行ってみよう。
ふうと溜息を吐いて彼女に向きなおる。結局逃げることは叶わなかったわね。
「案内するから、ついて来て」
「え……」
「ほら、早く。歩くこともできないの?」
「ぁ、はい……その、ごめんなさい……」
「こういうときは謝罪じゃなくて礼でしょう」
「えっ、あ……ありがとう、ございますっ」
時計を見れば、もう授業は始まっていた。
少女は無言であたしの数歩後ろをついて来る。
歩幅は狭くておまけに歩くのも遅い。とろとろしていて亀並みに遅いのかと錯覚してしまうぐらいだ。
このままでは次の授業まで遅れてしまいそうなので、彼女の細い左手首を引っ張って歩き始める。
真後ろで小さく悲鳴が上がったが、そんなことは気にしてなんていられなかった。
歩くのに合わせて、ちゃらちゃらと鎖が擦れあう耳障りな音が廊下に響いた。
二階への階段を上り少し歩けば職員室の隣の院長室が見えてくる。あたしは扉をノックし、返答を待つ。
扉が開き顔を見せたのは、薄紫色の髪の毛の女性……少女が捜す副院長だった。
「あら、どうしたの……っミュルちゃん!」
副院長は後ろの少女を視界に映すと、彼女に歩み寄り抱きしめた。
『ミュルちゃん』?彼女はミュルという名前なのか?それとも愛称?
自分の記憶が正しければ、確か『ミュル』はどこかの地方で……。どちらにせよあまりいい意味ではなかった気がする。
副院長は少女……ミュルから離れると、こちらに向き直る。
「あなた確か、二年Ⅱ組の……」
「ラゼッタ・ソルフェリノです」
「そうそう、ラゼッタちゃん。ここの生徒じゃないから逸れてしまったのね。やっぱり手を繋げばよかった……。
ラゼッタちゃん、この子を連れてきてくれてありがとう。」
「いいえ、ミュル……さんに頼まれただけですから」
「あっ……ありがとう、ございます」
「……見つかってよかったね」
「はい……。」
やはり彼女はこの学院の生徒ではなかったのだ。それなら、何故ここへ?
狭間にいた副院長が、あたしとミュルを交互に見遣る。
俯き顎に指を添え暫時考えるような素振りを見せると、彼女は顔を上げた。
「ラゼッタちゃん、今の授業の先生には後で伝えておくからここで待っていてくれないかしら」
「えっ?」
「ジョープとの話はすぐ済ませるから、ね」
「………はい」
呆然と頷く。
副院長はあたしの返事にほっとしたように微笑むと、ミュルを連れ院長室の中に入っていってしまった。
中から院長と、二人と思われる声がぼそぼそと聞こえてくる。よく聞き取れないので内容は知り得ない。
それから十数分後、彼女達は出てきた。
「お待たせ。ラゼッタちゃんに、少し話したいことがあるの」
「はい、なんでしょう」
「ジョープと相談して決めたのよ。実は、ミュルちゃんを転校という名目でこの学院に入学させることになったのだけれど。
最初の一年は教室で授業を受けるのではなく、あなたに……なんていうのかしら、案内……お世話係?を任せたいの。」
「!?」
あまりにも唐突で、間抜けにも口をぽかりと開けてしまう。
副院長はあたしのそんな反応を見て、申し訳なさそうに視線を外した。
「本当は私達が見てあげたいのだけれど、いろいろ……仕事とかがあってね。それに、一人の生徒だけを特別扱いするっていうわけにもいかないし」
「……は、はい……そう、ですね」
「他の子に頼むという手もあるし、駄目だったらそれでもいいの。……どう?」
「…………」
副院長の後ろにいるミュルを盗み見たが、彼女の顔は長い前髪に覆われ窺うことは出来なかった。
ぎゅっと握り締める拳が、微かに震えている。怒っているのか?それとも嫌がっている?……いや、先程のように怒られないかと怯えているんだ。
何をそんなに怖がっているのだろう。あたしが苛烈で非情な人間だと思っているのかしら。失礼ね、あたしは鬼女じゃないわ。悔しいとさえ思う。
そうだ、これを引き受ければ彼女の『ラゼッタ・ソルフェリノは嫌な女』という誤った認識を覆すことが出来る。
鉄砲玉食らった鳩のようなミュルの顔が頭に描かれる。自分でも何と勝負しているのか分からないが……勝った、そう思った。
「はい、引き受けます。」
困ったものね、優秀だと持て囃されるあたしだって考え付かなかったわ。
まさかこの子がこの二年の間にあたしにとって無二の存在になるなんて、誰が予想したと思う?
そして後にミュルが自分と同い年だと知ったラゼッタなのであった。
書き溜めた話はこれで終わりです。