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☆ Event of one day

ミュルは現在、学院の『副院長室』の椅子に、まるで石像の様にぴくりとも動くことなく座っていた。

彼女の首と右手首、右足首には枷の痕はあれどその姿はどこにも見られない。副院長ライラが鉄と長時間 奮闘し、外してくれたのである。

身体を動かしてもあのちゃらちゃらという煩わしい音はもうしない。

長年付けていたことによる赤黒い痣は消えることはないが、やっと自由になれたその嬉しさは変わることはない。

ミュルは静かに口角を上げる。今まで全くと言っていいほど表情の筋肉を動かした記憶はなかった。思い返すに、久しぶりに笑うのだ。

椅子に座って浮いた足をぶらぶらと揺らしながら、ミュルはライラの来訪を待った。


「―――ミュルちゃん」


きぃ、と音を立てて副院長室の扉を開けたのは、待ちに待ったライラであった。

彼女は片手に底の深い皿を持っている。何が入ってるのだろうと気になったミュルはしかし、椅子から立ち上がることはしなかった。

ライラはミュルに向かって柔らかく微笑むと、ミュルの目の前の机にコトリと底の深い皿を置いた。

美麗な装飾の施された陶器の中に入っていたのは、湯気がたったシチュー。バランスよく入れられた色とりどりの野菜と漂ってくる牛乳の香りは、ミュルの食欲を引き出した。

ライラがミュルの右手に木製のスプーンを握らせる。細く、白く長い女性として魅力的な指が、ミュルの手を操りシチューを掬う。


「熱いから、ふーふーして食べるのよ」

「は、はい……」


ミュルは言われたままスプーンに並々に掬われたシチューに息を吹きかける。

そのままシチューを口内に流し込んだ。

歯に当たっただけで崩れる人参。ふわりと香る魚介類の匂い。ブロッコリーも鶏肉もジャガイモも海老も全てが柔らかく、飲む込むのにそれほどの負担は掛からなかった。

ミュルは、何度もスプーンを皿の中と自分の口とで行き来させた。

徐々に減っていく器の中身に、ライラはほっとしたように息を吐く。


(ああ、よかった。ちゃんと食べられたわね)


多少の時間は掛かったが、それでもミュルはシチューを食べ切った。

水分で膨れた腹を擦り、満腹感からか次第にうとうとし始めるミュル。

ライラは苦笑するとまだ少しの熱を持つ器を下げ、ミュルの肩を軽く叩いた。


「眠るなら、ベッドにしましょう。立てるかしら?」

「……ライラさん、」


ミュルは眼を擦り膜の張った瞳で物言いたげにライラを見上げている。

しかし口を開いたと同時に青い顔をしながらハッと手で塞ぎ、黙り込んでしまう。何度も開いては、噤む。


(……この子は、自由に発言することも許されなかったのね……)


欲しい物を強請るどころか、それさえも。

目を細めてミュルを見る。彼女はチラリとライラを横目で見ては、先程までシチューの器があったテーブルを交互に見ている。

口元を覆う手が外される気配はない。このまま時間だけが経つのは惜しい。

ライラは決心する。こんなことを言いたくはないが、彼女の口から素直に言葉を引き出させるには、これしかないのだ。


「……ミュルちゃん、私はね、あなたをここから追い出すこともできる」

「え……!ぁ、」

「でも、私はそんなことしたくないの。ミュルちゃん、分かるでしょう?」

「…………」

「あなたに何があったのか、私はそれを知ることはできないけれど。聞きたいことは聞いていい。言いたいことも言っていいのよ」


―――だから、そんな泣きそうな顔をしないでちょうだい?


ミュルの目尻からぶわりと涙が溢れ顎へと滑り落ちる。

嗚咽が漏れないように、必死に手を口に押し付けている。

しかし鼻から抜ける息と同時にそれと似たような音が出てしまうのは仕方のないこと。

そのうち鼻さえも塞いでしまいかねないミュルの手を、ライラは解かせた。

栓も何もなくなったミュルの口からは唸るような掠れた泣き声が発される。


ああ―――まだ、この子は我慢をしている。

人間は感情が溢れ出すと涙を流す。悲しいときも嬉しいときも、悔しいときも寂しいときも。

耐えても必ず「感情」という箱が爆発するときは来る。それならば、耐えるよりも吐き出してしまったほうがいい。

何故、彼女は堪えるのだろうか。抑えるのだろうか。ここにはあなたに怒鳴る人間など、誰もいないのに。

ライラ自身は家庭で父母に虐げられた経験などなかった。

だから、先にも言った通りミュルの気持ちを分かってやれない。このグリュック学院に通う生徒の中にも両親から虐待を受けたことのある生徒がいたが、ライラは彼らに対してどう接せばいいのか最初は分からなかった。

けれど唯一分かることは、彼女達は自分よりも遥かに苦しく、辛く悲しい思いをしたということ。

肉体的ではない。肉体的なのであれば、一児の母であるライラもその痛さを思い知っている。

肌を叩かれる痛さよりも何よりも、心を休ませ安らぐ『家庭』という場所で、よりにもよって共に過ごす『両親』に精神的な傷をつけられるという辛さ。

何度も見てきた。誰も信じられずいつも一人だった生徒も、触れられるだけで青褪め悲鳴を上げた生徒も。

ミュルも、きっとそうなのだろう。あの枷や、彼女の身体に痛々しく刻まれている内出血の痕がそれを証明している。


喉に力を入れて唸り声を上げているミュルの頭を撫ぜる。

肩が跳ねる。しかしそのまま撫で続ける。ゆっくり、ゆっくり。照明に照らされきらきらと光る、それでも決して綺麗だとは言えない黒髪が、手の動きに合わせて揺れる。

黒髪を持つものは、この世界でたった数人だけの、極々珍しい存在だ。彼らが今生きているかいないかは知らない。

ミュルが忌み嫌われたのは、この黒髪のせいなのだろうか。

首を振る。なんにしろ、黒髪だからと言って自分達は何をするわけでもない。


「ミュルちゃん、もう寝てしまいましょう。そうすればきっと、嫌なことは忘れられるわ」

「……はい……」


鼻を啜るミュルの背中を押し、部屋の外に出る。


「部屋は、そうね。どうしようかしら……あ、」


唐突にライラの頭にアイデアが浮かぶ。

思い立ったが吉日、ミュルをもう一度部屋の中で待機させ、すぐさま放送室に向かう。

院内だけに流れるスピーカーのスイッチを押し、マイクに近寄る。


『二年Ⅱ組、ラゼッタ・ソルフェリノ。至急、副院長室に来なさい。繰り返します―――』



□ ■ □ ■ □ ■



「どういうことですか!」


息を切らして副院長室の扉を開けたのは、水色のショートカットに藍色の瞳が特徴的な少女。ラゼッタ・ソルフェリノだった。

ラゼッタは部屋に入るなり目縁が腫れぼったくなったミュルを見て、しばし固まる。

説明を求めている目に、ライラは苦笑した。


「来てくれてありがとう。後で次の授業の担当をしている先生に言っておくわ」

「当たり前です!」

「やだ、そんなに怒らないでちょうだい。今は休み時間でしょう?」

「そうですけど、そうですけど!……なんの、用ですか」


落ち着きを取り戻したラゼッタは、ライラとミュルとを交互に見て溜め息を吐く。


「ラゼッタちゃん、確か寮は097号室だったわよね?」

「……はい、そうですが」


少し離れた所でミュルが首を傾げて二人を見ている。

ライラはそれを傍目で見、再び視線をラゼッタに戻す。

その時点で何かを察したのか、ラゼッタは頬を引き攣らせ明らかに嫌そうな顔をしている。


「ミュルちゃんをあなたのお部屋のパートナーにしたいのだけれど」

「やっぱり……。お断りします」

「え?ラゼッタちゃんのお部屋のパートナー、誰もいないでしょう?」

「……あたしは一人がいいんです」

「……この前『引き受けます』と言ったのはどこの誰だったかしら?」

「うっ、」


ラゼッタは困ったように眉尻を下げる。

いつもあまり感情を表に出さない彼女にしては、珍しい表情だった。

ミュルは、捨てられた子猫のような瞳(※幻覚)でじっとラゼッタを見ている。

懇願するような目(※幻覚)に、更に動揺するラゼッタ。ライラはそれを感心しながら眺めている。

しばしの間、副院長室に沈黙が流れた。


「……分かり、ました」

「あら、本当!じゃあ、さっそく連れて行ってあげてちょうだい!」

「えっ……今からですか!?授業は、」

「私、これから初等部のクラスの授業なの。それに授業の内容は後で先生に言っておくから」

「っく……」


ラゼッタは苦い顔をし、諦めたように息を吐く。

それから思いついたようにライラを振り返った。


「名前は」

「え?」

「彼女の、名前は……どうするんですか」

「ああ……そうね。……よかったらラゼッタちゃんが考えてくれないかしら」

「あ、あたし……!?」


今日は本当に珍しい。

あらゆる教師生徒から冷静沈着と言われているラゼッタ・ソルフェリノの慌てふためく様を見れるなんて、明日は槍でも降るのかしらね。

なんて相手に対して大分失礼なことを、ライラは思っていた。

ミュルはあまり話が理解できていないのか、きょとんとしている。

ラゼッタは口元に手を当てて暫く思案してから、ミュルに目線を遣る。



「『セレナーデ・フライハイト』……、なんてどうでしょうか」



聴いた瞬間、ライラは目元を弛ませた。


「……あら。何故、そうしようと思ったの?」

「!……」


「あたしは、ある小夜曲が好きなんです。名前は、そこから。……それと、あたしがミュルに逢った時……枷がつけられていましたよね?」

「ええ、そうね」

「考えられるのは、監禁でしょう。……だから、『自由』とつけたんです。あまりに安易な、名前でしょうが……」

「いいえ、そんなことないわ!とても素敵な名前よ」


ライラがそう言った瞬間、ラゼッタの表情筋が少しだけ動いた。

それを目敏く捉えたライラは、ミュルの手を引っ張りラゼッタの隣に導いた。

ミュルは変わらずよく分からないといった表情で、ライラとラゼッタの顔を見ている。

ライラはミュルの目線にあうように屈む。


「いいかしら、ミュルちゃん?」

「は、はい」

「あなたはこれから、『セレナーデ・フライハイト』。この名前はラゼッタちゃんが考えてくれたものだから、大切にね」

「え?で、でも……わたしはミュル、で……。……?」

「そうね、あなたはミュル。けれどこれからは、『セレナーデ』として生きていくの」


今まではお情けほどの『貴族』という立場に引っ掛かって家名を名乗っていたものの、これから先は、まったくの別人として生きていく。

それはとても不安なことだろう。自分を一番に表す名前を違うものにするというのは、生まれ変わることとほぼ同義なのだから。

ミュルは今にも泣きそうな顔をして、大きな若苗の瞳は少しばかり潤んでいる。


「大丈夫よ。だってあなたにはラゼッタちゃんがついているもの」

「副院長!勝手に、」

「だから、安心して。あなたは一人じゃない。もう辛い思いをすることもないのよ」

「……ライラさん……っ」


ミュルの手をラゼッタの手に握らせれば、ラゼッタから厳しい視線が送られる。

それを軽く流せば、ラゼッタはミュルと自分の手を眺め、副院長室の出口へと歩き出してしまった。

突然引っ張られつんのめったミュルは、ライラを名残惜しそうに振り返り、長い黒髪を引き摺って部屋を出て行った。




ライラは二人を見送った後、己に与えられた部屋の椅子に座る。

瞑想する様に瞼を下ろせば、目の前には何も見えない闇が広がる。

彼女はうまくやれるだろうか。いや、やれるはずだ。

ラゼッタは彼女に出逢って、すでに変わり始めている。彼女自身もそれに気付いているだろう。ただ、それを素直に受け止めきれていないだけ。

天才少女も解らない事なんてこの世界には山ほどある。彼女はそれを知っている。本当に、賢い子だ。


「お義母さま……」


今はもういないであろう夫の母を想う。

彼女は自分にセレナーデを託し、去っていった。

これは、仕方のないことなのだ。

彼女の想いを汲むためにも、セレナーデをなんとか我ら夫婦で隠し通さねば。

ライラは薄紫の髪の毛を結い机に向かうと、一枚の紙と羽ペンを取り出した。



『セレナーデ・フライハイト、ここに誕生。』



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