◆ Prologue:A story begins ◆
冷たい石造りの床。右足を動かすたびに響く鎖の音。
じゃらり、じゃらり。
首と右手首を繋ぐ枷、薄汚れて彼方此方破れている廃れた古着。
鉄の窓から吹いてくる隙間風。この身を包む薄いボロ布。ここ何日なにも入れていない腹が、可愛らしく鳴く。
栄養を十分に採れずに、身長がなかなか伸びない小さい小さい体。真っ黒で足首まで届くような髪の毛。埃に塗れたこの身体。身体にところどころ走る、裂傷。
今幸せか、と問われれば、否と首を振る自身がある。
お腹が空いた……とてもお腹が、空いた。
空腹感と気持ち悪さが自分に襲い掛かり、体を起こすことが出来ない。けれど、これももう慣れた。
「おにいさま…」
自分には、四つ年上の兄がいる。
優しい兄は三日に一回、食事を持ってきてくれる。暗くて寒いこの部屋に、わざわざ赴いてくれている。
それだけで、自分は十分だった。たとえ生まれたときから外に一度も出られなくても、父から暴力を振るわれたとしても。
少なくとも兄だけは、自分をぞんざいに扱うことはない…と、信じている。
だから、この家を継ぐために一生懸命勉強して疲れている兄のことを自分が持つ限りの精一杯の知識で癒してあげようと思っているのだ。
でも、わたしは…。
■ □ ■ □ ■ □
「お嬢様、…ミュルお嬢様」
いつの間にか寝ていたらしい。
肩に手を置かれて揺り起こされ、初めてこの部屋の自分以外の存在に気がつく。年老いた女性のメイドだった。
ずっと前からこの屋敷にいたらしく、唯一古参の使用人達の中でミュルに優しく接してくれる人間の一人、ジュリナ。
彼女はもともと下町出身だったらしいが、運良く父の父……おじいさま、に出会い雇われたという。
自分の兄の他に、ちゃんとミュルのことを名前で呼んでくれる人物。
きっとそれは、なかなか会えない自分の子の幼い頃をミュルに重ねているから……と、少女は考えている。
暗い部屋の中に漂う仄かな香り。
ミュルはジュリナが食事を持っていることに気付き、慌てて跳ね起きた。身体は休息を得たおかげか、軽い。
愛する兄ではなかったことに、少しだけ……ほんの少しだけだが、落胆した。
「ミュルお嬢様、お腹が空いているでしょう。さぁ、婆が食事を持ってきましたよ。」
「ありがとう、ジュリナ」
彼女の持つおぼんを受け取り床に置く。今日のメニューはパンに、出汁と塩で味付けたスープ。
実は、ミュルのところに来るメイドや執事の持ってくるご飯は大概が残飯なのである。
だから、ジュリナの作るご飯ははっきり言ってしまうと他のどのメイドよりも美味しい。…それも、気持ちを込めて作ってくれているからなのだと思うが。
ミュルは空腹感に耐えきれず、目の前の食事に飢えた獣のように手をつけた。
少し硬いが他の使用人たちが持ってくる物より比較的柔らかいパンと、具はないけれど適量の塩と鶏の出汁で味付けられたスープ。
10分もしないうちに、あっという間にそれらを食べきってしまった。
「ごちそうさま。…ねぇ、おにいさまはどこなの?」
ミュルが首を傾げてそう尋ねると、ジュリナは顔を顰める。線の入った顔が、更にしわくちゃになった。
彼女は迷うような素振りを見せ視線を彷徨わせた後、唇をもごもごとさせ口を開いた。
「フェイド様は、遠出しております。……当分は、帰ってこないかと。」
「……そうなの。」
少女は残念、と息を吐く。
フェイドは、とても優秀だと聞いた。そしてその人の良さから、他家の貴族の女性からも人気。
それに比べてミュルは、こんなにも低脳だ。外のことを何も知らないのだ。教えて貰っていないから、そのような立場ではないから。
ジュリナは沈んでしまったミュルの心とこの重苦しい空気を晴らすために、しわがれた声を張り上げた。
「しかし、少しすればフェイド様の誕生会が開かれるはずです。その頃には、きっとお帰りになられるでしょう!」
「そう……きっと、そうだよね。」
ミュルは、この屋敷にいない兄の無事を、そっと祈った。
胸の前で指と指を交差させて手を組み、少し下を向いて瞼を下ろす。
その様子を見ていたジュリナはしばらくすると空の皿しか乗っていないおぼんを抱え、音をたてないように静かにミュルの部屋を出て行った。
勿論、ミュルの祈りの妨げをしないためだ。
一人称だったり三人称だったり