~念写騒動~
夏休みが終わって二週間ばかり過ぎたある日のこと、その日は朝から快晴だった。盛りを過ぎた夏の熱気を払うように涼気を含んだ風が校庭を吹き抜けている。朝練を終えて部室に引き上げていく運動部の女子がその風の中心地よさげに伸びをした。十代半ば、高校生という年頃にふさわしいしなやかで伸びやかなその身体は朝の空気にますます活力を得たようで、練習後の疲れなど微塵も感じさせないように瑞々しい。
教室内からグラウンドを見ていた男子生徒の一人が開け放した窓の向こうに何かを見つけたように指を指す。数人がそれを見て笑い声をあげた。校庭の片隅をカラスが歩いていた。それだけだった。しかしたったそれだけのことがまだ若く挫折を知らない彼らにはおかしくてたまらないのだった。誰かが笑いながら窓を閉めると、教室内の喧騒は放出先をなくしてたちまち室内に満ちる。まるで山びこのように、室内は絶え間ない話し声と笑い声が反響しあって賑やかなことこの上ない。
そんな風に、始業前の教室内は朝の空気にふさわしく活発で若さに溢れ、無軌道なほどのエネルギーがほとばしっている。しかしそんな一角に淀んだ重い空気を漂わせ、他との交流を拒絶するかのように机に突っ伏している生徒がいた。彼は寝入っているのか無気力モードに突入しているのか、微動だにせずそんな彼に話しかける者も当然のごとく室内にはいない。
そんな時、教室の前扉を半開きにして、室内を窺う他学年の者があらわれた。それに気づいた何人かはちょっと怪訝な顔をした。最上級生が一年の教室を尋ねるなどあまり穏当な感じがしないのだ。
その三年生はそんなこと構わず一番近くにいた女子を呼び、突っ伏している生徒の方を指さす。女子は、小走りに彼の方に向かう。
「かいちょう、かーいちょー」
やや間延びした呼び声にも彼は反応を示さない。それは教室内の喧騒に声が聞こえなかったからでも、何も聞こえなくなるほど深く寝込んでしまったからでもない。
「ちょっと、会長ってば」
女子生徒は業を煮やしたように彼のところへ来るとその肩を揺らす。それで彼はようやく起き上がる。
「さっきから呼んでるのに、なんで無視するのよ」
女子は口を尖らせているが彼のほうは迷惑そうな顔をするだけである。
「俺は会長じゃない。ましてロプロスでもないからな。そんな風に呼ばれても誰のことだかわからない」
「わけわかんないこと言ってないで。それより、なんか上級生の人が尋ねてきてるよ。用があるんだってさ」
用もないのに尋ねてくるやつはいない、そう言い返したい心地を無視して彼は示された前扉のほうを見て、彼の客人であるらしい三年生を眺める。
「会長の知り合い?」
「いや……」
曖昧に言って彼は立ち上がる。知り合いではなかったが、知った顔ではある。曖昧さはそんな事情のあらわれであったが女子はそんなこと気づくはずもなく、用は済んだとばかり離れていこうとする。その背中に、彼は呼びかける。
「待て、小早川」
「なに?」
と振り向くその女子。
「さっきも言ったが、俺は会長じゃない」
「ああ、はいはい、ごめんね、元会長」
うんざり顔で去っていく小早川にはそれ以上感知せず、彼は尋ね人のほうに向かう。三年であるというのに一年相手に妙に卑屈な笑顔を見せているその人物。確か、生徒会の会議のときに見た顔だった。
「やあ、朝一番から呼び立てして申し訳ないね。でもどうしても急ぎの用件があるものだから」
「……はあ」
「ところで僕のことは覚えてるかな、前に生徒会絡みで顔をあわせたことがあるんだけど」
「超常現象研究部の松村部長、ですよね」
「ああ、そう、そうなんだ。良かった、覚えていてくれて。いや、君にこんな言い方は失礼かな」
含みを持たせるように言う松村を、彼はじっと見つめる。意志薄弱で主体性に欠けるその物腰に好感を覚える要素はあまりない。さっさと用件というのを切り出さないのが特にそうだ。この手合いが持ち込む用件というのは大概が厄介ごとだろうから、彼としては話を聞くのもご遠慮したいところだった。
「先輩、それで、用件というのは?」
だがそれを言わないうちは向こうもお引取りしてくれないだろうから、彼は自分から聞きにまわる。松村は聞かれると、なぜか戸惑うような表情を見せる。
「そのことなんだけど、君は……、いや、山井君は今度の文化祭では何か大きな仕事を持ってるのかな? クラスの出し物で重要な仕事を任せられているとか、仲間内で展示を出す予定とか……」
「いえ、別に何も。クラスの出し物の企画を決めるのにだけタッチして、あとはフリーです」
教室内には元生徒会長と超研部長のやりとりに期待を込めて聞き入っているのが少なからずいた。既に落ち果てたりとはいえ、かつての巨星にトラブルが持ち込まれるなら、それは学内に嵐を呼び起こすかもしれず、興味を持たずにいられないのだ。
そして彼らの興味は山井にとっての不吉な兆しである。その予感にたがわず、松村は唐突に拝むように手を合わせると山井に対して頭を下げた。
「なら頼む! うちの部活が文化祭に出展するのを手伝って欲しい。どうしても、君の助けが必要なんだ!」
その大声に教室内が静まり返った。山井も、一瞬あっけにとられてしまった。
「なんだって僕が……。文化祭の展示ぐらい自分達でできるでしょう?」
ようやく言葉を返しても、松村はまだ頭を下げたままでいた。承諾がもらえるまで一歩も退かぬとばかりに。
「それが今年は、いつものようにやっていては駄目なんだ。事情があって、どうしても文化祭のコンテストベストテンに入賞しなければならなくて……」
「事情?」
「そうなんだ。うちの部活は活動実績低調だから、今度の文化祭でコンテスト入賞の実績を作らなければ廃部って通達を昨日突然受けて、それで……」
言い募る松村の口調からは、苦衷が色濃くにじみ出ている。それでだいたいの事情は山井も飲み込めた。確かに、超常現象研究部なんて名前からしていかがわしい部活動、なんやかやと理由をつけて廃部にしたがる輩は学校側に多いだろう。この学校、帝西高校は県内屈指の進学校で、学業に資するところの少ない部活動に対する締め付けは厳しい。その処分を免れるために突きつけられた条件は、妥当に見えるがそのハードルは高い。各クラス、各部活動の展示内容に生徒、職員、外部来場者が投票で行うコンテストはまぐれで上位に食い込めるものではなく、上位の顔ぶれなど例年決まっている。
「それでどうして僕のところに来るんです? 僕が役に立てるとは思えませんが」
そこのところが山井にはわからない。かつて生徒会長であった彼でも、超常現象研究部の活動内容などまるで知らないのである。文化祭の展示を手伝って欲しいと言われても、何をすればいいのかさえ思いつかない。
「いや、君以外に僕らの助けになれる人はいないよ。学校始まって以来の天才、入試全科目パーフェクトの伝説を持つ君なら、必ず僕らの力になれる」
ようやく頭を上げた松村は、そう断言してみせる。それはおだてなのか本心なのか、どちらにしても山井にとっては笑うべき台詞であった。いまさら、そんな肩書きにどんな意味があるというのだろう?
「そう言ってもらえるのはありがたいですが、やっぱり僕が役立てるとは思えませんね」
つまるところこれは因果論だと山井は思う。存在意義に乏しく、活動も低調な部活が廃部の危機にさらされている。当然の展開だしそれに抗する実績をあげてこなかったのは彼らの責任である。ならそのけじめは彼らがつけるべきことで、他人の手を借りるのは筋違いなのだ。
「そ、そんなことはないよ。僕らには君の助けが必要なんだ、どうしても」
「遠慮させてください。先輩は僕を買いかぶり過ぎだし、なにより僕の気が進まない」
ぐっ、と松村が歯をかみ締めた。追い詰められたとき、切羽詰ったとき、人間というのは思いもよらない行動に出るものである。この時の松村もそうであった。彼は、山井の足元に土下座して見せたのである。
「頼む! 頼れるのは君しかいないんだ、君に見捨てられたら、僕らはもう……」
教室内が大きくざわめいて、視線という視線が二人に向けられた。下級生に土下座する最上級生。それは彼らの目に山井がそうさせているように見えたかもしれない。そんな体裁を気にする山井ではなかったが、こう出られると対処に困るのは事実である。
「……ちなみに、廃部の通達なんぞ出してきやがったのはどこの誰なんです? 指導部の嶋田ですか? それとも教頭の成川とか?」
目先を変えるために発した質問に、松村は山井が疑問に感じるほど明白に言葉に詰まった。そして聞かされた名前は、山井にとっても平静でいられなくなるもの。
「それが、現生徒会長の、海野さんなんだ……」
海野夕子、あの女が……。
山井の胸中が揺れたのは、土下座したままの松村からは見て取れるはずもない。その名は彼にとって禁忌とされるべきもの。彼の履歴に汚物をなすりつけ、その輝きを失わせた張本人。学校始まって以来初めて一年生で前期生徒会長になり校内改革に乗り出した山井の職責を陰謀と謀略でもって奪い、学校始まって以来初めて任期途中で解任された生徒会長という恥辱をくれた学内秩序の暗黒面を支配する女帝。
何の反応も返ってこないことに疑問を覚えた松村は顔を上げて山井の表情を仰ぎ見た。山井は放心したように廊下の天井を見上げていた。その瞳には、運命の対決を覚悟したかのような力強さは、まだあらわれていない。
さて、ここで話を一日戻さねばならない。
放課後の部活動中、いきなり生徒会室に呼びつけられた松村は、生徒会長海野夕子に告げられた言葉を衝撃とともに受け止めねばならなかった。
「……そのようなわけで、代替部室の確保が出来なかったことと、活動実績が低調極まることから超常現象研究部については文化祭終了後に廃部とすることが決定されたのでここに通知しておきます。なお、この処置に伴い生徒会が超研に執行する予定だった本年度予算はその五分の三に減額され、未執行分は生徒会規則十九条第三項に基づき来年度予算に繰り越されます。本決定は既に職員会議でも了承され、生徒会報に記載され告知がなされたのち期日どおり実行されることとなり……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
判決を読み上げる裁判官のように淡々と告げる海野の言葉を松村はようやく止める。
机に向かい手元の書類に目を落としていた海野は、目前で立ち尽くす松村を見上げた。その凛とした黒い瞳は、ここでどんな反発を受けようともたじろぐことはないとばかり強く輝き、背中にかかったストレートのロングヘアはつけいる隙も与えないとばかり一条の乱れもみせない。松村はせっかく海野の言葉を止めておきながら、その外見上の気迫に圧されて続ける言葉をすぐ吐き出すことができなかった。
「なんでしょうか、言いたいことがあるなら遠慮なくどうぞ」
「こ、こんなの無茶苦茶じゃないですか、いきなり呼び出されて廃部を通告されるなんて」
促されて怒りをぶつけようとしても、感情が先走るばかりで松村の言葉は迫力にも論理にも乏しい。海野は表情一つ変えず切り返す。
「いきなりではありません。旧校舎の建替に伴う部室移転は教室の確保が難しいため部の整理を伴うことになるかもしれないことは私が生徒会長職に就いたときから告知しておきましたし、それが実行される段階では実績の乏しい部から対象になることも周知しておきました。手続きとしてはなんらいきなりということはありません」
「……いや、それはそうだけど、でも……、そう、横暴じゃないですか、当事者の意見も聞かずに一方的に決めるなんて!」
必死に言い募る松村を、海野は冷ややかに見つめる。一学年下の、非のつけようもない美形に見つめられているというのに蛇に睨まれる蛙の心地を松村は味わっていた。相手が秀才の優等生ということによるだけではない、人間の実力というか重みというか、根源的な力に差がありすぎるのである。
「言っておきますが、あなたがたの意見を聴かなかったのは対外的な活動実績が皆無で、かつ校内行事に貢献するわけでもなく、また部員が現在七名で部活動として認められるに必要な部員八人以上という要件を満たしていないなど、意見聴取するまでもなく廃部もやむなしとするのが妥当だったからで、それを横暴というならあなたがたは部の存続にふさわしい事実を示せるということになりますが、どうですか?」
「いや、それは……」
無い袖は振れないという言葉通り口ごもる松村。海野は家賃滞納の店子に支払いを求める大家のごとく語気を強める。
「そも私に言わせれば、あなたがたの普段の活動内容からして疑問符がつくことばかりです。去年の文化祭の展示では校内七不思議の考察と題した展示を行っていましたが、考察など名ばかりで拾い集めた噂話を張り出しただけ。年間活動の集大成たる文化祭の展示であの内容とあっては、日常活動がどれだけ無為なものか推して量れるというというものです」
畳み掛けられて松村はすでに落城寸前である。実際彼らの活動など、部室である地学準備室で三流のオカルト雑誌をネタに座談するぐらいのもので、部活動として部費までつけてもらってするほどのものではないのである。
だがそんなこと、教諭に言われるならともかく同じ学生に言われたくはないというのが松村の心情だった。
「いくらあんたが生徒会長だからって、そんなことまで言う権利なんてないだろう。生徒会ってのは、学生活動を支援し学生生活をより充実させるために存在するって、規則の最初に書いてある。生徒会長のくせに、あんたはそれを踏みにじるのか?」
「穀潰しが無駄に使う部費を取り上げて、それを本当に必要としている生徒達に再分配するというのも、生徒会長としての職務ですから」
そうまで言われて松村の肩は怒りに震える。だがそれも反論しようのない事実であった。何しろ支給されている部費の半分以上は、様々な名目をつけられた彼らの飲食費に消えているのである。
海野は、彼女を特徴付ける冷徹な表情を崩さず松村を見上げていた。その表情には、勝者の余裕が漂っているようでもあった。松村は、怒りが急速に萎えていくのを感じた。こういうことは結局日頃の行いの積み重ねがものを言う。海野とどこからどう議論を闘わせようが、これまで無為に時間を浪費させてきた自分達に勝ち目が無いのは明白だった。
「……じゃあ僕らの部活は文化祭までは存続が認められるんですね?」
あえなく白旗を掲げて松村は聞く。海野は長い睫毛を瞬かせ聞き返す。
「あら、言いたいことは他にないの?」
「もういいです。元はと言えば僕らがまいた種ですから、裁定は甘んじて受けようと思います」「そう、殊勝ね」
気落ちしたように呟いて海野は視線を落とす。松村は、不名誉な降伏を強いられたこの室内から一刻も早く離れたいとばかり海野に言う。
「話が終わったなら僕はこれで」
「待ちなさい、まだ私の話は終わっていません」
「このうえ、まだ何かあるんですか?」
「何かあるんですか、ではありません。あなたが遮った話の続き、超常現象研究部に対する執行手続きの話の続きです」
海野はまたつらつらと手元の文書を読み上げ始める。松村はもはや聞いてはいなかった。聞いたところで何の意味もない。自らが所属する部活動がどんな手続きを経て廃部にされようが、廃部にされるという事実に比べればそんなことは些事であった。
だが、海野が読み上げた資料の最後の一文は、松村の耳を引きつける。
「……ただし、以上の処置は廃部までの期間に超常現象研究部が何か目覚しい実績、例えば本年文化祭においてコンテストベストテン入賞などの実績をあげた場合は活動実態良好とみなし執行を中止、存続を認めるものといたします」
読み終えた海野が顔をあげる。つけいる隙を与えない冷徹な表情は少しも崩されていない。
「私からは以上となりますが、何か質問がありますか?」
「え……、それはつまりどういう……」
「質問は明白に! 今の説明のどの部分にわからないところがあったのですか?」
「いや、ええと……、さっきの最後の部分、文化祭のコンテストベストテンに入ったら存続を認めるって……」
「言ったとおりです、あなたがたが今年の文化祭でコンテストベストテンに入ることができたなら部の存続は認めるということです」
「じゃあ、無条件に廃止ってわけではないんですね?」
突き落とされた暗闇に、わずかながら示された希望の光。無表情に海野は頷く。
「じゃあその時は代わりの部室も確保してもらえる……」
「当然そうなります。まだ打診の段階ですが、美術部が美術室と美術準備室を占有しているので準備室のほうを建替えがすむまで譲るよう話をしておきます」
このときばかりは暴君の顔が聖母に見えた松村。厳しいことを言いはするが、酌量の余地はきちんと残してある。何かと悪評の多い生徒会長だが、その実なかなかの名君ではないか、そう思いさえした。
「あ、ありがとうございます!」
それなら何とかしてみせよう、打ち震える胸の余韻を隠すように頭を下げた松村。だが――。
それに対し海野は、それこそ冷や水を浴びせるように手元の文書を放り出しながら言ったのだ。
「お礼を言われる理由なんてないわ。どのみちあなたたちみたいな無能が、ベストテンに入るなんて難題クリアできるわけないんだから」
その言葉が、松村の胸の内にあった灯火を消し去る。眦鋭く顔をあげ松村は会長を睨みつけた。わずかでも感じた温情はまるで幻想だとでもいうように、海野は酷薄な笑みで松村を見ている。ほとんど殺意に近いものを、松村は覚えた。
「……そう思ってるならなんで、望みを残すようなことをするんです?」
「私はね、基本的に馬鹿が嫌いなのよ。道理もわきまえず物事も知らず、そのくせ一人前の顔をして行き当たりばったりに行動して人様の迷惑になる。その種の馬鹿が」
手ひどい言葉を、海野は顔をそらすこともせず告げる。そして相手が傷を負うのを楽しむように、なおも続ける。
「でもね、私はそれと同じぐらい馬鹿が好きなの。だって放っておけば自滅して勝手に目の前から消えていってくれるんだもの。右往左往あがきまわってね。そういう様を見るのは本当に愉快でたまらなく好き。もう趣味にしてもいいぐらい」
そう言って海野は、初めて慈しむかのような表情を馬鹿相手に見せる。
「だから私は、あなたたちがどんな悪あがきをしてどんな自滅の仕方をしていくか見てみたいの。まあ無能なうえに無気力なあなたたちではさして面白い見世物にもならないでしょうけど、今年の文化祭に華をそえるぐらいの醜態は期待してるから、せいぜい頑張って」
「そこまで言うのか、あんた……」
「ええ、何か問題があるかしら。どうせ相手はゴミ虫よ」
激発しそうになる怒りを、歯を食いしばって松村は押さえる。確かに今の彼らはゴミ虫だったのだ。ゴミ虫がゴミ虫でないと言い張るのは滑稽でしかない。しかし、未来永劫ゴミ虫であるとは限らない。
「……さっきの約束は、忘れないでくださいよ」
やっとの思いでそれだけを言うと、海野は余裕の表情で頷いた。憤然として松村は生徒会室を出る。胸に湧き出す怒りを今すぐ何かにぶつけたかったが、そんなことをしても益はない。彼がなすべきことは、この事態を打開する知恵を出すことだが、そんな知恵はそう簡単には出るものではない。
足を踏み鳴らすようにして廊下を歩く松村は、ふと前の生徒会長であった山井のことを思い出した。彼も今の生徒会長と同様に強引なところは多分にあったが、行動の軸足がはっきり学生のためと定まっていたので何かとやりやすかった。山井が生徒会長だったなら、あるいはこのような憂き目にあうことはなかったのかもしれない。
……そうか、彼なら。
松村はそう考えて立ち止まる。当時副会長だった海野のクーデター動議にあって解任された前生徒会長は、その後すっかり精彩を失って日々無為に過ごしているという。かつてのような行動力や知性、ひらめきは期待できないとしても、彼以外に部の危機を救える人間はいないのではないか。
再び歩き始めたとき、松村の心は既に決まっていた。山井が力を貸してくれるかどうかはわからない。仮に協力を得られたとしても与えられたハードルを越えられるという保証もない。
それでも、自分と山井なら共通の目的に向かえるはずだった。海野に一矢を報いるという一事において。松村はそれを不毛なことだとは思わなかった。なによりこれには、部の命運と男の尊厳がかかっているのだ。
「やっぱりお断りさせて頂きますよ」
放課後出向いた地学室、山井は改めて一通りの経緯を聞かされた後で静かに言った。
「どうして?」
松村が顔をしかめて聞き返すのを見て、山井は妙な気分になった。まるで裏切りにでもあったかのような表情だったのだ。なぜそんな顔をされねばならないのか。
「あなたがたには同情しますが、気が進みませんから」
「気が進まない?」
「進みませんね。僕が手を貸さなければいけない理由が見当たりませんし。それにまず頼るべきなのは僕じゃなくて顧問の先生になるでしょう? 顧問は、ええと、野村先生でしたっけ?」
「野村先生なんて、何の頼りにもなりはしないよ。残念だけど仕方がないって、その一言で終わったさ」
松村の言葉に山井はさもありなんと思わされる。野村はどちらかというと無気力事なかれ主義の教師だし、もう老境にさしかかって押し寄せる荒波に立ち向かう気力を失っているのだろう。松村はあてにもならない人物のことなど問題にしていられないとばかりさらに言いつのる。
「理由がないって君は言うが、君はすべての生徒に奉仕するのが自分の使命って前に言ってたじゃないか」
必死なのはわかるが、生徒会役員選挙の時の文言など持ち出されて山井はおかしさに吹き出しそうになる。そんなものは、もはや返済の済んだ借金の証文に過ぎないではないか。
「昔の話です」
短く答えて山井は室内を見渡す。松村とのやりとりを注視する他の部員たちの存在は、壁際の棚に並んだ化石の標本と同じようなものと彼には思えた。そして自分自身の存在も。
「今の僕には、そんなこと言ってたころの熱意はないし、あの頃だって本心からそんなこと言ってたわけじゃない。あんなのは選挙用のアジ文です」
「……君は、君の事を信じるのは愚か者だとでも言ってるみたいだ」
「頼むに値しないものを頼って、信じるに値しないものを信じるのは愚か者だと言われてもしかたないでしょうよ。真っ当な判断力を持ったやつなら、今の僕を見て本当の僕がどんなだかわかるはずだ」
松村はやや気色ばみ、ぐっと拳を握り締める。こんな程度の挑発で諦めてくれるなら願ったりかなったり。山井は怒りを叩きつけられるのを待つように視線を落とす。松村はそんな山井を殴ろうにも殴れない。殴れば唯一の頼みをあてにできなくなるし、殴ることは自らを愚か者だと証明するようなものであったからだ。
しばらく、誰も口を利かなかった。煮え切らない連中だな、と山井は思わずにいられない。殴ることもできず、思うことも口に上せず。ただつっ立っていることしかできない。そんなだから……。
と、そこまで思ったところで言葉を発した者がいる。
「いや、僕は信じるよ」
先ほどまで化石同然にしか見えなかった部員の一人が、唐突に言いだして山井を驚かせる。その化石は(山井と同じ一年だったが)、生気に溢れた瞳を向けて言ったのだ。
「だって君は、春の体育祭だってあんなに盛り上げてくれたじゃないか」
「そうだな、あのパネル効果でさ」
数人が、あの時の熱気を思い起こすように頷いた。春の体育祭では、各クラスごとに応援パネル(高さが数メートルはある巨大な看板のようなもの)を製作するのが恒例なのだが、新生徒会長となった山井は製作予算を一挙に倍額にし、さらに市の芸術センターからアドバイザーとして講師を招くなどして製作物の質を高めるなど工夫をし、その結果体育祭当日には地元の新聞社が取材に来て、大会は非常な盛り上がりを見せたのだった。
「うちの学校は偏差値こそ高いけどそのせいか内向きで、取材の対象になんてなることがなかったから、あのときはうれしかったよ。他の学校行ってる友達にも自慢できたし」
「うん、あれはいい思い出になってるよ。あれからだね、学校内の風通しが変わり始めたのをみんなが感じたのは。だからさ、次の文化祭とかも、会長がどんな手を打ってくれるのかみんな期待してたのに、あんなことになっちゃって……」
「ああ、海野のカタブツがいっきなり生徒会長になりかわりやがって、あれで学校は元の退屈でお勉強だけしてればいい場に戻っちまった」
言い合った彼らは、かねて抱えていて答えを得られずにいた疑問を、山井に質してみる。
「ところで、なんで海野さんは君を解任なんてしたんだろう?」
その質問を向けられたときの山井の表情! 苦虫をかみつぶす、渋面を浮かべる、表現はいろいろあるがこれほど煩悶に満ちた顔を彼らは見たことがない。彼にそんな顔をさせる、一体なにがあったのか。彼らは噂しか聞いたことがない。いわく、山井が激烈な学内改革を進めるべく生徒会長たる自分に全権限を集中させようとしたのに海野が危機感を持った、とか海野が生徒会の金を使い込んでその発覚を防ぐために山井を追い落とし自らが権力を掌握したとか、どれも三流ゴシップ並みの噂話だ。はっきりしているのは、教職員側と結託した海野が生徒会の面々を抱き込んで、これまで規約になかった執行職の解任に関する手続きを急遽成立させて山井のクビを飛ばしたということだけ。その背後にあった本当のことは、当人しか知らない。
「……俺がアホウだったからさ」
山井は全身の苦みを口に集めて、それを吐き捨てるみたいに言った。そこには自分自身への呪詛めいた響きさえ伴っていた。
「……どういうこと?」
聞き返されても、山井はそれ以上語るのはお断りとばかり口をつぐむ。その重苦しい沈黙に、彼らも自分達が聞いてはいけないことを聞いてしまい、その答えは決して語られることはないのだと悟る。もとよりその事件以降豹変してしまった山井を前にすれば、それがどれほどの衝撃を彼に与えたかについては明らかなことだったのだ。
「ともかく!」
重くなった空気が話の流れまで停滞させるのを防ごうと、松村が威勢よく言い出す。
「あの生徒会長に突きつけられたハードルをクリアするのには、君の助力が必要なんだ! お願いだ、僕らに力を貸してほしい」
懇願されて、山井は一つ大きく息をついた。そして立ち上がりながら言ったのは、
「お断りします」
の一言。
「どうしてなんだ?」
苛立ちを押し殺すように、松村は低く聞く。
「手を貸したところで条件をクリアできるとは限らないし、そのときに僕のせいにされたらかなわない」
「そんなことするわけないだろう。君に手伝ってもらってダメだったなら、こっちも諦めがつくよ」
「つまりはその程度の願望でしょう。なら僕が手を貸さなければ、諦めはもっとつきやすい」
眼もあわせずに言った山井は、不毛なやりとりはもう終わりとばかり出入り口に足を向けようとする。
「……もしかすると君は、海野会長にまた負けるのが怖いから逃げようとしてるんじゃないのか?」
その後ろ姿に松村は言い放つ。それは駆け引きのため出てきた言葉ではなく、もう純粋に山井への苛立ちから出てきたなじりの言葉であった。
「……俺があの女に負けるのを怖がってるって?」
足を止めて振り返った山井は、自分の感情が煮え立つのを感じながら呟いた。静かに激し始めた山井を前に、松村は自分が地雷を踏んだことに気づかされる。
「俺が怖がってるってか、あの女を」
繰り返した山井の口の端がふっと歪む。そこから怒りが噴出するのを予想して、その場の一同おののく。
けれど――。
「そいつはいい、そりゃケッサクだ!」
山井はそう言うと、実際おかしくてたまらないとばかり大声で笑い出した。それは怒りだすより恐ろしい反応であった。彼らには理由のまったくわからない、狂気の笑いとしか映らなかったからだ。
「言っとくがな」
ひとしきり笑った後で、山井はまだ抜けきらぬおかしさの余韻をかみ殺しつつ口を開く。
「俺はあの女に出し抜かれようがしてやられようがそんなこと気にしたことは一度もねえ」
「なら、どうして……」
「終わったんだ!」
「何が?!」
「何もかもだ! だから俺はもう何もする気がおきん! 誰かに頼りたいなら俺以外のヤツにしろ、俺には構うな!」
吠えるように山井は言った。最後の望みが絶たれたことに絶望したのか、松村がその場に膝を折ってうなだれた。もはや言うべきことは何もない。山井は天井を仰いで息をつき、無益な応酬に高ぶった感情の余熱を吐き出す。
「そういうわけだ。期待にそえなくて悪かったな」
そう言い残して、今度こそ立ち去ろうとしたときだった。
「……いいや、まだ何にも終わっちゃいない」
その声は地響きのように聞こえて、山井は驚きつつ視線を落とす。松村が、顔をあげてらんらんとした瞳を自分に向けている。
「終わった終わったと君は言う。何が終わったのかは知らないけれど、でもな、どんな物事もいつかは終わりを迎えるんだ。永遠に続くことなんてありはしない。このやりとりも、今日と言う日も、僕らの学生生活も。命だっていつかは」
山井は別人を見るような目で松村を見た。そこにいるのは、確かに先程までの松村ではなく、何か得たいの知れないエネルギーのかたまりであるかのようだった。そのエネルギーのかたまりは、抱え込んだ白熱を放電させるみたいにして山井に告げる。
「でも君は、命まで終わったわけじゃないだろう。僕らは生きてる限り、いつか終わりを迎える物事と苦闘して打ち倒されて、それでもまた立ち上がってきてまた新しい物事に挑戦しなければいけない。それなのに君は、終わってもいない人生まで終ったことにして、この先ずっと生ける屍でいるつもりなのか。この学校始まって以来の天才といわれた男は、その程度のやつだったのか?」
「偉そうなこといってんじゃねえ! その理屈が正しいならこんな部活すっぱり廃部にして次の部活でも探せばいいだろ。見込みのない悪あがきするよりそのほうがよっぽど建設的だ!」
松村の言葉に再点火を強いられたように山井が応じる。松村はしかし一歩もひかない。
「そうだろうとも! そういうことになっても僕は一向にかまわない! だが君は悔しくないのか、あの会長に、あんな目にあわされて!」
火を吐くように松村が吼える。同時にその双眼から溢れ出した涙が、思いがけぬ光景となって山井の胸を衝く。
「……僕は、僕は悔しいんだ。あんなことを言われて、何もできずに引き下がるなんて」
松村は、うつむき膝をついたままはらはらと涙をこぼした。山井は言葉もなくじっと彼を見下ろしながら、既視感に近いものを感じていた。やがて松村が顔をあげる。
「君は悔しくなかったのか、海野会長に、あんな目にあわされて」
「……悔しかったさ。これ以上ないってぐらい」
静かに山井は吐き出した。ようやく引き出された本音に松村はつけこもうとせず、ただ黙って頷いてみせた。それにつられたわけでもないが、山井の口からもう一つ言葉が自然と漏れる。
「それに、とても哀しかった」
おや、と松村は耳をそばだてる。それはここまでのやりとりで唯一山井が自分から明かした本心であった。しかしその言葉は解任されたことへの感情ではなく、何か全然別のことを指しているように思われた。
続く言葉を、松村はじっと待った。けれど山井はそれ以上のことは語ろうとせず、何か一つ吹っ切ったようなさっぱりした顔で聞いてくる。
「で、お前らあの生徒会長に一矢報いたいってのはいいが、何か算段はあるのか?」
「あ、いや、まだ何も……」
「おいおい、文化祭まであと一ヶ月しかないのに、それで大丈夫なのか?」
「だからこそ君に泣きつきにいったわけで……」
苦笑する松村に山井は同じように苦笑で応じた。先輩後輩の間柄など無視した山井の口調だが、そこには先程までまったく感じられなかった一つの共感があるのがわかって松村を心強くさせる。山井は机の上に二三冊置かれたオカルト本を手にとる。
「超常現象ねえ、俺も子供のころは好きだったな。UFOとか、超能力とか」
「そういうのに関心持たない男子はいないんじゃないかな。隠された存在とか大いなる力とか、男の子なら一度は興味持つでしょ」
部員の一人が話しかけてきて山井はまたちょっと苦笑する。
「その興味を捨てきれないお前らは永遠の男の子ってわけだ」
「山井君はもう興味なくしてしまったのかい?」
その問いには答えず手にした本を元のところに戻すと、山井は考え込む。そして立ち上がり横に来た松村に話しかける。
「なあ、昔あった、東大の千里眼事件を知ってるやついるか?」
「え? ああ、もちろん知ってるよ。東大の教授が透視と念写の実験をやったやつね。明治の終わりぐらいだったっけ、新聞で大きく取り上げられて、当時大きなセンセーションを巻き起こしたって言う」
「そうそう、あの実験では念写も透視も成功してるんだけど、手法に問題があるとかで結局否定的な見方をされて、今でも真贋が論争されてるよね」
また別の一人がそう言って山井は頷く。
「それなりに知ってるな。結構結構」
「でもあの事件がどうかしたのかい?」
「ならお前ら、俺がむかし念写に成功したことがあるっていったら信じるか?」
「え?」
と一同が目を剥くようにして山井を注視した。
「それは、本当なのか?」
「信じられないなら信じなくてもいいさ」
「いや、でも、だけど……」
「ちょっと待って、それはいつの話なんだ?」
「俺が小学校四年か五年の時だったかな。親父にもらったポラロイドで実験してたんだ」
「何を念写してたの?」
「漢数字を一から十まで順番に。あとは簡単な漢字をな」
「成功率は?」
「さあ、厳密に数えてたわけじゃないけど、数十回試して二三回だったから一割もないだろ」
ぬう、と松村は考え込む。かの千里眼事件のときでも成功率はもっと高かったはずだ。だが千里眼事件の被験者は女性でそして成人だったということを考えると、少年だった山井の成功率が低いのはむしろ自然なのかもしれない。
「それで、成功したその写真はまだあるの?」
「いや、とっておいたんだが、引っ越したときになくしちまった」
そう聞かされると一同は失望の色を隠せない。
「実験に立ち会った人はいなかったのかい? その写真を見た人とか」
「いないな、一人でやってたし、写真もだれにも見せなかった」
「どうしてさ?」
「写真だけあっても信じてもらえるかどうか疑わしいと思ったんだよ。どうせなら確実に成功できるところまで能力を高めて、人前で実演して見せたほうがずっと信じてもらいやすいだろ」
「……なるほど、それはそうだ」
「でもその後実験はやめちゃったんだよね? どうして?」
「なかなか成功しなかったし、次第に飽きてきてな。フィルム代に小遣いを使い果たしたところで投げ出しちまったよ」
「あはは、ポラロイドのフルムは高いからね、何十枚と買ってたら子供の小遣いじゃすぐ足りなくなっちゃうよね」
「ああ。それでお袋に小遣いの前借りに行ったら張り倒された。それが投げ出した決定的な理由だな」
低い笑い声が室内にたなびく。山井は穏やかな顔でその中に身を浸していた。一層打ち解けた気になって部員の一人が言う。
「ああ、でも君がその能力に開眼してくれてたらなあ。文化祭でそれを実演して見せてあの会長の度肝を抜いてやるのに」
「だから、そうするんだろうが」
「え?」
「文化祭までの残り一ヶ月の間に、俺は特訓して念写能力を身につけてみせる。超研の今年の展示はその実演に決まりだ。千里眼事件から百年、平成の世に降臨した新たな念写能力者、その驚異の能力が写し出すのは果して何か? みたいなコピーで人を集めたら、大ウケ間違いなしだ」
「そ、それは……」
その唐突な持ちかけに驚かないものはない。オカルトフリークの彼らからしても、それは破天荒な企画に思えたのだ。
「でもさ、うちの部にはポラロイドなんてないよ」
「馬鹿、そんなの写真部からでも借りてくればいいんだ」
山井の前で二人がささやきあう。それを聞いて山井は首を振る。
「違う違う、いまどきポラロイドなんて骨董品に念写したところでウケはとれねえ。現代なら現代にふさわしく、使うのはこいつだ」
山井がそう言って取り出したのは、携帯電話である。
「え? 携帯?」
「違う、こっちだ」
その携帯の一点を山井は指差す。先ほどよりずっと強烈な驚きが彼らを支配した。
「君はまさか、デジカメに念写しようっていうのか?」
「そうだ。それでこそこの情報化社会にも貢献できる実験になろうってもんだろうが」
「だけど、そんなことが……」
「できるさ。念写という力がどういう作用原理を持ってるかは俺もわかっちゃいないが、その力が本物ならアナログとかデジタルとかで媒体を選んでたら不自然なんだ。カメラとかの撮影機に念力で画像を結ばせるのが念写の本質なら、それはフィルムだろうがメモリだろうが同じように効果を発揮しなきゃいけないはずだ」
山井の言うことは一面真実をついているようだが、反面あまりに短絡的なようにも聞こえてとっさに頷くものはいない。重い沈黙が流れ、室内が静まり返る。
「……それは、確かにそうかも」
部員の一人がそれを遠慮がちに裂いて続ける。
「例えばさ、脳波を使った文字入力のシステムっていうのがあるだろう? 頭の中で思うだけでパソコンなんかに文字を入力できるっていうやつ」
「あ、ああ」
「それはもちろん文章入力のための機能なわけだけど、やろうと思えばそれを使って絵だって描けるんじゃないかと僕は思うんだ」
「どうやって?」
「わからない? 文字を使って描いた絵、アスキーアートだよ」
あ、と小さな声があがる。ネットの掲示板などでよく見かける、文字や記号の組み合わせで描かれるアスキーアート。実際のところ、掲示板にあるような手の込んだものはそれ自体コンピューターソフトによる処理が必須だし、頭の中で文字や記号を思い浮かべて作れるであろう程度のものはアートというにはほど遠くなるだろうが、念でもって像を結ぶという念写の本意からは外れていない。もちろん、
「でも、機械に頼らないと実現できないような能力は超能力とは言えないだろう?」
という問題はあるのだが。
「それはそうだよ。だけどデジタル機器であるコンピューターでそういうことができるなら、やっぱり媒体はデジタルアナログ選ばないって傍証になるんじゃないかと思ってさ」
一同はまた思考の海に浸かって黙り込む。聞き流すだけでその海に浸からなかった山井は岸辺から呼びかけるみたいに告げる。
「で、どうする。お前らの気が進まないなら俺は無理強いしない。ただ、俺が協力できるとするならこの線しかないから、これが気に入らないなら俺は手を引かせてもらう」
「いや、ちょっと待ってくれ」
松村が慌てて言う。実現すれば成功間違いなしだがその可能性は髪の毛の先ほどもあるとは思えない博打めいた話。決断するには、もう少し材料が欲しい。
「……念を押すようだが、君が昔念写に成功したっていうのは本当なんだな?」
「ああ」
山井は嘆息するように応じた。
「信じられないなら、信じてもらわなくてもいいんだ。全幅の信頼を置けないような相手なら、手を組むべきじゃない」
松村は、万感の思いを込めるように大きく頷いた。
「……そうだ、君の言うとおりだ」
そして差し出された手を、山井はじっと見つめる。
「よろしく頼むよ、山井君。僕らのために君の力を貸してくれ」
「任せておけ。あのクソ腹の立つ生徒会長に、一泡吹かせてやろう、俺達の手で」
二人の手が、力強く重ねられるのを、他の部員たちも熱い視線で見守っていた。
廃部の危機にさらされている超研が、前生徒会長の山井を助っ人に招請したという話は、翌日には校内中に知れ渡ることとなった。しかし彼らの目論見は厚いベールに覆われて表には聞こえてこず、かつての最強と永遠の最弱がタッグを組んで、何やらどでかいことをやらかすつもりらしいという噂だけが早々に学内の期待を高めている。
もう一方の当事者である海野はそれを聞いて、
「それはまた、切羽詰ってとんでもない愚行にでたものね」
と、むしろ超研のために嘆じてみせた。
「愚行、ですか」
生徒会室で、それを聞いた会計手伝いの桜井小波はちょっと理解できないという顔をする。
「愚行ね。目の見えないものが目の見えないものの手を引いて、二人仲良く穴に落ちるっていう、そういう種類の愚行」
「でもよく山井君がOKしましたよね。そのことだけは意外でした」
そう言ったのは副会長兼会計の荒木里美である。
「どうせ下手なおだてに乗せられてその気になっただけでしょ。あの男はおだてブタと同じで、その気にさせれば木に登るどころか月までだって飛んでいくのよ。それにしても超研の部長も、どうして寝た子を起こすようなマネしてくれるのやら、あの男は卒業まで腑抜けにさせとけばいいものを」
「それは、会長がどぎついこと言って彼らを挑発するからでしょうが」
「あら、間違ったことは言ってないじゃない。それにバカにバカということが許されないなら、おつむの中身を数値化して本人に突きつける学校の偏差値教育なんて最悪の犯罪って理屈になるわよ」
「またそういう極端なことを……」
「なんにせよ、あの手合いを動かそうと思ったら生半可な方法じゃダメなのよ。私に言われて少しは目が覚めたみたいだったけど、あの男に頼った時点で負けね。私も甲斐の無いことをしないで、さっさと廃部にしてやればよかった」
「そんなこと言って、助っ人はあの山井君ですよ。会長が思いもかけないような展開になるんじゃないかな」
「それこそ見ものよ、私としてはむしろそういう展開を望むわね。もっともどんな展開になろうとも、私があの男を叩きのめすことに変わりはないのだけど」
「叩きのめしてどうするんですか。会長が山井君のことを嫌ってるのはともかくとして、超研には頑張ってもらわないと。これは学生の自治権に関する問題なんだから」
「ふん、そうね」
荒木の言葉に海野は不本意でならないけれど、という風に頷く。
「で、連中はおだてブタを巻き込んで何しようっていうの?」
「それが、そこのところはさっぱり……。桜井さん知ってる?」
「いえ、私も何も……。でもきっと、山井君のことだからすごいことになると思います」
そういう桜井は、なぜか嬉しげであった。
「すごいこと、ね。ロクでもないこと、の間違いじゃなきゃいいんだけど。なにはともあれ、お手並み拝見というところね、元生徒会長さん」
海野は呟くように言って、あとはもう興味をなくしたというように机の文書に目を落とした。ただでさえ多忙な生徒会長は、文化祭を控えていつまでもどうでもいいことに時間を割いていられないのである。
しかし、切り札中の切り札である山井を迎え戦力をアップし、目標に向かって邁進するだけとなった松村たち超研部員の心中は、彼らに注目を向ける生徒達が思うほど明朗ではなかった。
肝心の山井が、ちっとも実験に取り掛かろうとしないのである。
打倒海野で結束したあの日、とりあえず文化祭が終わるまでは部員でいることになった山井は松村に、
「部の活動に関連したことで、先輩が新入部員に読ませておきたい必携の書みたいなのがあったら貸してもらえませんか」
と申し出たので松村は大喜びで地学準備室に転がしてあったその種のムック本を二三冊渡した。山井は一晩でそれを読んでしまって、他にはないかと翌日尋ねるので松村はそんなこともあろうかと家から持ってきた本を五六冊渡した。山井はそのままそれに読みふけってしまい、山井の入部初日は肝心の実験どころでなく終わってしまった。
松村たちも人がいいから、この種のことに興味を持ってもらえるならありがたいし、読書の邪魔をするのは悪いしで、初日が何もなく終わってしまってもそれは仕方がないぐらいの感覚だった。
その翌日、追加で借りた本も読み終えてしまった山井は、もっと何かないかと部室を漁り、やっぱり部活時間中に読みふけっていた。松村たちは松村たちで、なるほど入試で歴代トップの点を取る人間の向学心とはこういうものかと感心したりで、二日目も何事もなく終わってもまだ余裕があった。
しかし三日目四日目とそういうことが続くと、さすがに黙ってみているだけではいられなくなる。なにせ文化祭まで一ヶ月を切ったのだ。
そんなわけで松村がそろそろ実験に取り掛かりたい旨山井に伝えると、意外というか当然というか、山井はあっさりそれに応じた。実験のために必要な機材はすでに取り揃えてある。
ざっとした話し合いが行われ、まず山井がかつて成功したというポラロイドへの念写が再現されることになった。ここである程度の成功を収めるようになってから、本題のデジカメへの念写に挑もうというわけである。
山井は、写真部を拝み倒して借りてきたというカメラを手に取った。どこか不恰好で安普請に見えるそのカメラ。
「……これは、ポラロイドじゃないな」
山井の呟きを聞いた一年の矢口は応じる。彼は小柄でかわいらしい顔をしており、部内では超古代文明フリークで通している。
「うん、ポラロイドはもうカメラもフィルムも作られてないからね。これは同じようなインスタントカメラで、フィルムは国内製。見てくれは悪いけどできることは同じだから」
「よし、じゃあ始めよう」
松村が厳かに言って山井は着席する。始めるといっても、山井が気を集中させて数分間カメラに念を送り、その結果を確かめる、それだけである。その間松村たちは集中の邪魔にならないよう少し距離をおいて声も発しないようにするが、不正がないようにするため室内には留まる。
「じゃあ一回目、始めるぞ。まず漢数字の五で念写してみる」
山井が言うと二年生の梅谷(彼は中肉中背、髪を短く刈り込んで板前のような風貌を持ち猫とUFOをこよなく愛する)が記録用のノートに時間を書き記す。そこには既に今日の天気や気温、湿度が書き込まれ、さらに実験中の山井の様子も書き綴られることとなっていた。
だがカメラを前にした山井にこれといった動きはない。目を閉じうなだれる様に頭を傾け、微動だにしない。黙想している山井、静まり返った室内、まるでいつもと違う空気が、室内に流れていた。やがて五分は過ぎたころ、山井がおもむろに顔をあげる。
「いいぞ、見てみてくれないか」
待ちかねたように三年の富田(副部長、やせ型で見るからに線の細そうなタイプだが実はスポーツマン、心霊現象マニア)がかけより、カメラを手に取りフィルムを抜き取る。
「どうだい、手ごたえはあったかい?」
「さあな、集中はできたが、これっばかりは蓋を開けてみなければわからん」
「できてるといいなあ。インスタントカメラでも成功すればやっぱり歴史的な事績だよ」
超能力信奉者の二年生、田畑はこと期待を込めた調子で言う。
「まだ一回目だ。過剰な期待はしないでくれ」
「そりゃ無理な注文だよ、一回目だからこそ期待が高まるってものじゃないか」
二年でUMA研究家、いかつい体格は雪男さながらの梨田も応じる。
フィルムに像が定着するのを待ち、シートをはがす。だが露わになった画像面には、虚無めいた真っ黒な四角があるだけ。
「ああ、ダメか」
自称宇宙人研究家、一年の中野が落胆の声をあげる。けれど山井は落胆した様子もみせない。
「まだ一回目だって言っただろう。続けてやろう、今度は念を送る時間を長くしてみる」
松村も気を取り直した様子で頷く。最初の実験で最高の結果を望むなど愚か者のすることであろう。だがその日は結局なんの成果もなく終わった。その翌日も、そのまた翌日も。
そんな風に時間とフィルムの浪費が進めば、松村の心にも少しずつ焦りは募る。なにせ時間は取り戻せないしフィルム代は安くない。しかし山井はそんなこと気にする風もない。松村が何より残念なのは、だいぶ打ち解けたとはいえ山井がまだどこか超研のメンバーに距離を置いているように見えることで、部活を終え下校するとき、どこかの店でミーティングなどしたいときがあっても山井だけはさっさと帰ってしまう。付き合いが悪いとか孤高を好むとか言ってしまえばそれだけなのだが、松村たちとしてはちょっと寂しい。
そしてその日もそういうことがあって、薄暗い街並みを一人下校していった山井の姿を、町の図書館で思いがけず見つけたのは生徒会会計手伝いの桜井であった。制服姿のままの山井はその時、心理学関係の書棚の前に立って黙然と本に読みふけって桜井のことなど気づきもしないようだった。
「こんばんわ、山井君」
桜井が声をかけると山井はびっくりしたように顔を上げた。桜井は山井が会長だったころから生徒会の仕事に興味があるといって生徒会に出入りしていたので、山井も桜井のことは見知っている。
「ああ、桜井さん、久しぶり。こんなところで会うなんて意外だね」
「学校ではちょくちょくすれ違ったりで顔をあわせてますよ。山井君は気づいてもいないみたいだけど」
「へえ、それは失礼」
さして悪びれた風もなく言いながら山井は書棚に本を戻す。
「調べごとですか? 随分熱心に読んでたみたいですけど」
「ちょっと考えないといけないことがあってね。いろいろ調べてるんだ」
「超研部のことでですか?」
山井は答えず、桜井を見る。自分と同じく制服姿のままの桜井は、きれいに編んだロングの髪を背中にたらし、胸にはハードカバーの本を二冊抱え持って、いかにも純朴な女学生という感じで、中身も天然風味が強いことを除けばだいたいそのとおりの性格である。
「その本は、借りるの? 返すの?」
「返すところです。それでカウンターのほうに行ったら、山井君の姿が見えたから」
「ああ、そう」
何の本を借りたのかまで聞くのは失礼な気がして、山井が口をつぐむと桜井は何かに気づいたようにちょっと視線を落とし、
「じゃあ、私はこれで」
と頭を下げて去ろうとする。
「ああ、ちょっと待って」
その背中に山井は呼びかける。
「はい?」
「ちょっと話というか頼みたいことがあるんだけど、少し時間をもらえないかな?」
その呼びかけが心底思いがけないものだったらしく、桜井は愛嬌のある丸い目をことさら大きく見開いて山井を見つめた。
向かい合って座ったファーストフードの店では、桜井がどこか落ち着かぬ様子で視線をあちこちさ迷わせていた。彼女のそんな様子を見ながら山井はさてどう切り出したものかを考える。別に悪いことをさせようなんてつもりはないが、多少面倒なことなので嫌がられると頼みづらくなる。それに特段親しい間柄でもなく、何かを頼める義理もない。
「……最近、生徒会のほうは忙しい?」
あたりさわりのないことを口にして、山井は会話のとっかかりを探す。桜井は聞かれて所在なさげだった視線を山井に向ける。
「はい、文化祭が近いからやることが多くて、毎日大変です」
「書記の高橋はどうしてる? 今の生徒会で男はあいつだけだから肩身の狭い思いをしてるんじゃない?」
「どうなんでしょうか? 高橋君はもともとつかみどころがないし、私にはマイペースに仕事してるみたいに見えますけど……」
「確かに、何を言っても柳に風みたいなところのあるやつだった」
「ですよね」
そう言って桜井は遠慮がちに笑う。他愛も無いことを他愛も無く話していても、二人の会話は弾まない。それは生徒会を追放した側とされた側の自意識が生み出す壁の作用であるかもしれず、もっとも生徒会の正式メンバーではない桜井はあの時傍観者でしかなかったが、なんにせよ互いの立ち位置の違いは噛み合わぬ歯車のような感触の悪さを生み出している。
「ところで超研部のことが校内でいろいろ噂になってますけど、山井君たちは何をするつもりなんですか?」
聞くには良い機会だと思っていたらしい。桜井は弾まぬ会話を転じさせるかのように山井へ話を向ける。
「それは、文化祭当日までのお楽しみってやつだな」
もったいつけるつもりもはぐらかすつもりも山井にはなかったが、口に出すとなぜかそんな風に突き放すようになってしまうのは、それも壁の作用だったのかどうか。桜井はそれでもめげずに聞き返してくる。
「このあいだ提出された企画書には超常現象についての室内展示としか書いてなくて、みんな首をひねってましたけど」
「ああ、そうそう。頼みたいことって言うのはそれなんだ」
「え?」
「今年の文化祭で各部と各クラスがどんな出し物をするのか知りたいから、提出された企画書のコピーが欲しいんだ。それと過去の文化祭でベストテンに入ったのはどういう出し物でどんなところが評価されたのかまとめた資料があるはずだからそれを五年分、できれば十年分まで遡ってコピーをとってきて欲しい」
その注文に桜井は戸惑ったような顔を見せる。企画書そのものは部外秘ではないが、生徒会側の人間がある特定の部に肩入れするのは好ましいことではなく、それに過去の資料については生徒会資料室の膨大な蔵書から探しだしてこなくてはならず、手間がかかる。
「どうするんですか、そんなもの」
「参考資料にする、決まってるだろう」
「今度の件で必要なんですか?」
「そういうこと」
「山井君が借りにくればいいじゃないですか。探すのは私も手伝ってあげます」
「誰がいくか、あんなところ」
「そんな、久しぶりに顔を見せてくれればみんな喜んでくれると思うんですけど」
もちろん桜井は好意で言ってくれているのであろうが、その度過ぎたお人よしぶりは山井の神経を逆なでする。あの女が、自分の顔を見て喜んだりするものか。
そんな思いをかみ殺しつつ桜井を見据えると、桜井は逃れるように顔をそらす。
「……気乗りしないなら断ってくれていい。忘れてくれ」
「あ、いえ、そういうわけじゃないです。わかりました。必要なものはそろえておきます。他にも私にできることがあるなら何でも言ってください、手伝います」
意を決したように言う桜井。その断固とした態度が、山井には少し意外だった。
「会長にこっちの動向を知られたくないから、僕がそんなこと頼んだっていうのは内緒にね」
「はい。それでどうですか、山井君たちがしようとしてることはうまくいきそうなんですか?」
「どうかな、まだわからない。ところで……」
「はい?」
「どうして手助けしてくれる気になったのかな?」
「それは、その……」
言い淀む桜井。頬を少し紅潮させるその様子を、山井は何だろうと思って見ていた。
「あの一件以来、落ち込んで別人みたいになっちゃった山井君を見るのは辛かったから……、だから嬉しかったんです、今度のことで山井君が前みたいな活力ある人に戻ってくれて。そのために私に協力できることがあるならしてあげようって、そう思って……」
その言葉に仄かに現れていた感情に山井は胸を衝かれた。なんと言っていいかわからぬまま視線をさまよわせていると、桜井は場の空気に耐え切れぬように腰を浮かす。
「遅くなるといけないから、私はこれで帰りますね。資料は二三日中に必ず持っていきますから」
「あ、ああ。面倒な話だけど、よろしく」
「はい」
会釈して立ち去る桜井の後ろ姿は早々に店外に消えていく。山井は彼女の姿が完全に見えなくなってから、どっと疲労に襲われて身を投げ出すように椅子にもたれた。
生徒会資料室は、生徒会室のとなりにある。ここには生徒会だけでなく、学校活動の記録全体が過去何十年か分にわたって保管されており、ここにくれば学校で起きたことの大概はわかる。
しかし膨大すぎる量の蔵書は整理が行き届いておらず、どこに何があるのか分類されてもいないので資料一つ探すにも膨大な手間を要する。その惨状を見かねて海野などは、
「私の任期中にここは必ずなんとかするわよ」
と、ことあるごとに言うのだがまだそれは果たされていない。
そんな場所で過去十年分の資料を探すというのは、苦行僧もたじろぐ荒行に近いのだが、山井のためにその荒行を引き受けた桜井は、翌日から生徒会の仕事の合間を縫って敢然と探索にかかっていた。彼女にとっては探すのも一苦労だがそれよりなにより、
「探しもの? なら手伝おうか?」
と生徒会の面々が声をかけてくるのが困る。口外無用と山井に言われているし、隠れて山井に協力することに後ろ暗さがあるし、嘘が下手なので聞かれるとボロを出してしまいそうで、声をかけられるたび何とか言いつくろって断っていたのだが、最後のトリとばかり海野が入ってきたときは緊張で手にした資料を落としそうになる。
「探し物は、まだ見つからないの?」
「え、ええ。一部は見つけたんですが、まだ全部そろわなくて」
答えながら桜井は、何もかも見通しそうな海野の眼光から逃れようと視線を書棚に戻す。
「いったい何を探しているの。随分熱心のようだけれど」
「昔の文化祭の資料です。私のクラスで劇をやるんですが、これまで文化祭でどんな劇が演じられてどれぐらいの票を集めたか調べてみたくて」
「へえ、感心ね」
ここまで何度も繰り返してきた嘘は、海野にもあっさり通じたらしい。海野は反問もせず納得している。
「それにしてもここは相変わらずの散らかり具合ね。この中から探すのは大変でしょうに。手伝ってあげるわ。今は何を探してるの?」
「いえ、いいですいいです、手伝ってもらうほどのことじゃないですから」
うろたえる桜井の言動は海野の目に遠慮深さとしか映らないようで、海野は肩をすくめながら、桜井が手近な机の上に集め置いていた資料を手に取る。
「あ……」
桜井は声をあげそうになる。それは先ほどこっそりコピーを取っておいた今年の文化祭の各クラス各部の企画書であった。
過去に演じられた劇の資料を集めていると言っておきながら、そんなものを持っている桜井に何を思ったのか、海野の横顔がほんの一瞬曇った。
「ふーん、なるほど」
けれど海野は口に出してはそう言っただけである。
「あの、それはですね……」
言いかける桜井の機先を制するように、海野は手をかざして言葉を封じる。
「余計なお節介だったみたいね。そういうことなら、誰にも手伝って欲しくないわよね」
言い置いて海野は資料室から出て行こうとする。
「いえ、違うんです、これは、その……」
「気にしなくていいわよ。不法行為を働いてるわけじゃないんだし」
「はあ……」
「でも馬鹿に肩入れするのはほどほどにしておきなさい。下手をするとあなたまで身を滅ぼしかねないから」
桜井にはわからない。海野はなぜあれほど山井を毛嫌いし、なぜあれほど山井を馬鹿者扱いするのか。桜井の目から見ると、山井は馬鹿者とは程遠い、勉強もできれば知恵も出せる、相当のキレ者に見えるのだが。
「ま、でも無理か」
扉のところで立ち止まった海野が、一人ぼそっと呟いた。
「恋は盲目っていうし」
たったそれだけの言葉が、みっともないほど桜井を動転させ、赤面させる。海野はそんな桜井を振り返りもせず、さっさと出て行った。
そして週も改まり、その日の地学室では、全員集合した超研部員達が真剣そのものの面持ちで机を囲んでいた。といって今日は実験に励んでいるのではない。ここまで何の成果も上げられずにいる念写実験を一度総括し、今後どう展開していくかを決めていくミーティングを行っているのだ。
「カメラが違うっていうのにも問題があるんじゃないかな。これは同じインスタントカメラだけど、山井君が前に成功したっていうのはポラだったんだろ?」
「そんなこと言い出したらデジカメに念写なんて到底不可能ってことになるぞ」
「カメラの構造に問題があってフィルムが念に反応しにくいっていうのはないだろうか。例えば内側に金属板が貼ってあるとか」
「このプラスチックの安物ボディに、そんな凝ったことがしてあるとは思えないな」
「ならフィルムケースを外した状態で実験してみるのはどうだろう? いくらかは念に感応しやすくなるんじゃないかな」
「その前に外の光に感応して、フィルムが全部ダメになるって」
彼らの会話はそんな風で、実のところ大層な話をしているわけではない。それでも彼らは彼らなりに真面目にやっているのであって、交わされる言葉は真剣そのものだった。
そんな最中、情報漏洩防止のため見張りとして廊下に立てられていた矢口が入ってくる。
「どうした?」
「いや、なんか山井君に用があるって桜井さんが来てるんだけど、書類を一杯もって」
面識があるらしく、はっきりその名を口にして矢口は言う。山井はそれを聞いて腰を浮かす。
「入ってもらってくれ。俺が頼んでたものを持って来てくれたんだ」
「桜井って、もしかして……」
松村はその名に心当たりがあるらしい、そう言って入ってくる人物を注視する。
書類束を抱えた桜井は、緊張した面持ちで入ってきて軽く一礼した。待ち人来たれり、山井は歓待しようとするのだが、その前に松村が声を荒げる。
「なんだ君は! 生徒会の人間が何の用で来た!」
雷鳴に打ち据えられたように桜井は身をすくませる。生徒会憎しとはいえ、手伝いに過ぎない桜井にここまで怒りをたぎらすのは、山井からすれば行き過ぎにしか見えない。
「頼んでたものを持ってきてもらったって言っただろう。それにこの子は生徒会の手伝いをしてるだけで生徒会の人間じゃない」
「立派に生徒会の人間じゃないか、そんな人間をここに来させるなんて、君はいったいなに考えてる!」
「彼女はどっち側の人間でもない。むしろこっち側の人間だ。今度のことで必要な資料を持ってきてもらったんだから」
そう言って山井は桜井に近づく。桜井はちょっと怯えているような、そんな目で山井を見上げる。
「わざわざ来てもらったのに不快な思いをさせて申し訳ないね。部長もいろいろあったせいでナーバスになってるんだ。ところで、資料のほうはもう全部そろえてもらえたかな」
「はい、ここに」
差し出されたそれは、だいたいノート一冊分くらいの厚みがある。
「ありがとう、ちょうどミーティングの最中で、いいタイミングだったよ。みんな、ちょっと面白いものが届いた。見てやってほしい」
受け取ったそれを、山井は机の上に広げる。皆が一様にそれを覗き込む。
「なんだい、これ?」
「今年の文化祭の出展企画書と過去の文化祭のコンテストベストテンについての記録」
「どうするのさ、そんなもの?」
「敵を知り己を知れば百戦危うからずっていうだろ。俺達がベストテンに食い込むためには、他のどこがベストテンに入ってきそうかも把握してないといけない」
「む、それは確かにそうだ」
一同の手がいっせいに企画書に伸びる。
「今年の演劇部はシェークスピアのハムレットだって。ここはベストテン常連だし、今年も入選間違いなしだな」
「あと常連組は吹奏楽部と、落研、これで枠は三つ埋まる」
「そうなるとクラス展示からどれだけ入ってくるかだけど……」
二年の田畑が過去の記録を漁りはじめる。
「去年はクラス出展が五件ベストテン入りしてる。三年生の劇が二つ、展示が一つ、あとは一、二年の展示だな」
「三年の劇も必ず二つはベストテンに入ってくるからな。展示も全学年で見れば二つは必ず入ってくるし、クラス枠で四つ埋まるとすると空きは三つ、うちはそこに食い込まなきゃいけないわけだ……」
ハードルの高さを改めて実感させられたように松村は呟く。幸運だけでは到底越えられぬ、がむしゃらさだけでもつまずく。ゴールにたどりつくには、理性と勇気を車軸の両輪とし疾駆しなければならない。それにしても感心させられるのはこの種の資料で自分達の現状をしっかり把握しようと心がける山井の知性で、松村はそんなこと気にしたこともない。
しかしそんなことは気にしたことがなくても、桜井がまだこの場に残っていることは気になる松村である。
「君は、いつまでここにいるつもりなんだ?」
「え、あ、ごめんなさい、もう帰ります」
どこかぼうっとした様子で一同を見ていた桜井が慌てて出て行こうとする。
「いや、待って待って。僕らのために骨折りしてもらったんだ。お茶ぐらい出しますよ」
山井も慌てて呼びかける。振り返った桜井に、矢口も言う。
「そうそう、せっかく来てくれたんだし、おもてなしぐらいしないと」
「お前ら……」
「別にいいんじゃない。今は聞かれてまずい話もしてないし」
富田が椅子を差し出し、梨田が備え付けの冷蔵庫から紙パックのお茶を取り出す。要するに松村を除けば、部の面々は女子の客人が珍しいので少し遊んでいってもらいたいのである。
桜井は戸惑いながらも勧められるままに椅子に腰を下ろして紙パックのお茶を両手で包み持った。顔見知りらしい矢口がやいのやいのと話しかけ、松村は舌打ち一つでそれを黙認して資料に目を落とす。同様に資料に目を落としていた田畑が、
「俺らのライバル、科学部の今年の展示は自主製作のプラネタリウムだとさ。こんなの、天文部がやることじゃないか?」
「うちの学校には天文部がないからいいんじゃないの? というか制作費いくらかかるんだ、それ」
そのやりとりを聞いていた山井が、思い出したようにふり返る。
「そういえば、うちの部費はあといくら残ってるんだ?」
「え? ああ、いくらなんだろう? 誰か知ってるやつは?」
部長のくせにそんなことも把握していないのかと、松村の答えに山井は驚かされる。しかし続いた部員たちの言葉にはもっと驚かされる。
「ああ、こないだ僕が五千円預かって、実験用のフィルムを買って、あれこれ他にも必要なものを買って、いくら残ってるのかな? 領収書を探してみないとわからないや」
「俺も一学期に六千円預かって、なんやかんやと半分ぐらいは使って、こないだフィルムを買ってあらかた使い果たしたはず」
「ちょっと待て! なんで部費をそんなバラバラに受け渡ししてるんだ。普通は会計を決めてそいつが一括して管理するだろ!」
「いや、そうなんだけど誰もやりたがらなくて決めるのが面倒だったし、何か買う必要があるとき買いにいくやつに部費を預けておくほうが楽だったから……」
「結局いくら残ってるかは……」
「……よくわからない」
大声で怒鳴りつけたくなる衝動をため息に転換することで紛らわし、山井は一同をぐるっと見渡す。なんだか、ここの面々が全員禁治産者同然に見えてきてしまう。それから山井は桜井を振り返る。こうなると、この場に生徒会で会計の仕事をしている桜井がいてくれることが頼もしい。
「桜井さん、超研の年間の部費は?」
「三万円です。そのうち支給されてるのは、ええと、確か一万八千円のはず」
「すると行方不明になってるのが七千円、この分はどこに行ったんだ?」
「五千円は準備室の鍵のかかった引き出しに入ってるよ、文化祭のためにとってある」
「なら残りの二千円の行き先だが……、それよりはいくら使ったかはっきりさせるほうが先かな。領収書を一度集めないと」
「そ、そうだな。おい、領収書持ってるやつは今全部出せ。手元にないなら明日までに持って来い、忘れないようにな」
ぱらぱらと差し出される領収書を集める松村。一通り集まったところで、山井は言う。
「先輩、それはこっちに」
「ん? ああ」
松村は言われるままそれを差し出す。受け取った山井は、それをそのまま桜井に差し出して彼女をきょとんとさせる。
「桜井さん、申し訳ない。無理は承知でお願いする。この連中にかわって、部の費用を管理してほしい」
「ええ?」
と桜井が裏返った声をあげるが、仰天していたのは彼女だけでなく全員である。
「き、君は何を考えてるんだ、そんなことをこの人に頼むだなんて!」
いの一番に松村が声を上げる。その反発は、だがごく少数意見でしかなかった。
「いや、それはいい考えだよ、俺らはほら、この通りお金にはアバウトだから」
副部長でもある富田の言葉に何人かが頷く。そんなことを自慢されても、桜井の困惑は深まるばかりなのだが。
「ダメだダメだ、このタイミングでそんなこと頼む必要はない。お金の管理って言うのは生命線と同じだろうが。それを生徒会の人間に握らせるなんて」
「その生命線を無造作に放置してたのは誰だよ。それに来週には文化祭のための経費として一万円が生徒会から支給される。それはどのみち桜井さんから受け取るんだ。それとも部長は、彼女がそれを持って逃げるとでも言うのか?」
「そうそう、しっかりした人が管理してくれるならそれが一番いいよ」
押し黙った松村に畳み掛けるように梅谷が言う。もっともらしいことを並べ立てても、松村も他の部員もその意見は結局のところ好悪によってしか出ていないのだが、そうなると必然的に数の多いほうが勝る。己の劣勢を理解して、それでもなお、松村はあがこうとする。
「お前らよく考えろ、そんなことしたらこっちのしていることは生徒会に筒抜けになるぞ。そうなったら文化祭当日まで企画は秘密にして、学校中をあっといわせる俺達の目的も御破算になる」
「大丈夫だ、桜井さんは秘密にしておいてほしいことを軽々しくもらしたりはしない。そうですよね?」
「え? ええ、それは、言うなというなら黙っていますが……」
まだ引き受けたわけでもないのに、引き受けたかのような答えをする桜井に頷く一同。
「いいじゃないですか部長、彼女もそういってるんだし。ここは実利をとりましょう」
そんな嘆願の声が次々と沸き起こって松村に寛大な処置を求めてくる。松村はそれに抗しきれず、
「……わかった、勝手にしろ」
低い声で呟くとどっと歓声が上がる。
「いや、よかった、これからよろしくよろしく」
「あ、はい、こちらこそ」
気安くかけられた声に、桜井は律儀な応答の仕方をして、それでもって桜井の同意も取り付けられたものとみなされた。松村はそんな桜井を恨みのこもった目で見据えるが、すぐ詮無いことと思い直して山井に向き直る。
「ところで金のことだが、君は今度の出展にいくらぐらい経費を使うつもりでいるんだ? 今までに使ったフィルム代とかは抜きにして、単純に出展の経費だけで」
「たぶん、二万を超えることはないと思う。この部室にブース作るだけならさほどの金はかからないからな」
「二万円か、今ある五千円と支給される一万とあわせて、足りない分はカンパだな」
「ああ」
「にしても、そうなると実験のために使える金はもうほとんどないことになるぞ。どうする?」
「そうだな……」
一転、山井の口調は重くなる。部費を費やすばかりで、ここまで何の成果もあげることが出来ないでいる実験をどうするか、というのは難しい問題であった。先ほどまでしていた議論も、結局はそのことについての検討だったのだ。
「俺としては、成果が出ようが出まいが今あるフィルムがなくなったらそっちはそれで終わりにして、本丸のデジカメへ取り組んだほうがいいと思うんだが」
「しかし、それで大丈夫なのか? デジカメのほうがハードルはずっと高いはず。ポラで結果が出せなかったらデジカメでだって当然……」
「わかってる。だから、保険についても考えておく必要がある」
「保険って、どういうことだ?」
「結果が出なかったときに備えて、もう一本企画を作っておくんだ」
それは松村にとってまったく思いがけないことだったようで、彼はしばらく言葉をなくしていた。そして多少我を取り戻すと、深刻な顔で言う。
「……でも、どんな企画を?」
「わからん。今考えてるところだ」
山井も、難しい顔で応じた。成功が見込まれる企画をいくつも思いつくのは、山井にとっても困難なことであった。それがわかるだけに、松村も危機を感じざるを得ない。今になってという思いと、しかし今ならまだという思いがあわさって、聞いていた部員たちの心も乱れる。
「あの、皆さんいったい何をしようとしてるんですか?」
事情のわからぬ桜井が、控えめに聞いた。すると富田が何か思いついたように手を打つ。
「そうだ。新しく仲間になった桜井さんにも実験の風景を見てもらったら。そのほうが何してるかよく理解してもらえるだろうし」
「ええ?」
と、山井は少し嫌そうな顔をしたが、無理を聞いてもらってばかりいる桜井を無下にもできぬので、考え直したように、
「それもいいか」
そう呟く。すると中野が、
「そうだ、せっかくいい面子がそろってるんだから記念に写真でも一枚とろうか」
などと言い出したものだから、たちまちそういう運びになった。どこからともなく持ち出された三脚に矢口がカメラを据え付けようとして、松村が声を荒げた。
「馬鹿、それじゃなくてデジカメのほうを使えよ。フィルムがもったいないし、そのほうが配布もしやすいだろうが」
怒鳴られて矢口も落ち度に気づく。彼が三脚に固定しようとしていたのは、実験用のインスタントカメラのほうだった。矢口は慌ててカメラを付け替えようとする。その時、どうしたものかインスタントカメラのフィルムホルダがぽろり外れて床に落ちた。あ、と数人が声を上げる。こんなことをされては、ただでさえ貴重なフィルムが外光にやられて駄目になってしまう。
矢口が慌てた挙動でフィルムホルダを拾ってカメラに付け直す。それから彼はどうしようという顔で一同を眺め渡した。山井は、落ち着き払ってそれに応じ、矢口の手からカメラをさらうと、フィルムを一枚抜き取る。
「一番上の一枚は駄目になっただろう。下のは多分、大丈夫だ」
言って山井は抜いたフィルムを丸めてゴミ箱に投げ捨てる。気をつけて扱えよ、と松村が小言を言う。
そして一同集まっての記念撮影が終わると、山井は実験前の精神集中がてら手洗いに出て行き、その間に田畑が彼らの深遠なる計画について話す。桜井は驚きの表情を交えたり頷いたりしつつ、聞き入っていた。
十分ほどして戻ってきた山井が、無言で頷いて実験はいつもの手筈で始まる。記録係りが状況をノートに書き込み、山井は机の上に置かれたカメラに黙然と念を送り込む。それ自体はここ数日繰り返されてきた風景だが、初めて見る桜井にはどこか神秘的な光景にも見えた。
そして――。
「いいぞ。山という字を送り込んでみた」
顔をあげて山井が言う。松村が真っ先に近づいてカメラからフィルムを抜き取る。おまじないのようにぱたぱたとそれを振る松村は、今日の首尾を期待するように山井を見る。期待はするな、というように山井は首を傾けた。松村はもう少し間を置いてから、フィルムのシートをはがしにかかる。
「どうです?」
できあがった写真を見つめる松村は、問いかけにも応じない。梅谷が後ろから写真を覗きこむ。すると彼も息を呑んだように硬直した。
「おい、いったいどうした?」
富田が呼びかけてようやく松村は振り返った。無言で差し出された写真に、全員が注視する。
それはいつもの、ただ真っ黒なだけの画像とは、明らかに違う写真だった。いつもの真っ黒な写真を闇夜にたとえるなら、今回のは闇夜に紫色のオーロラめいた光がかぶさった写真。しかもそのオーロラは全体的にゆらめくように明暗を造って、その中心部にはたしかに山と読める像を結んでいる――。
「こ、これは……」
「成功、なんだよな?」
半信半疑にかわされる呟き。かつて見たこともなく、経験したこともないものを前にすれば反応が及び腰になるのは当然であった。しかしその戸惑いの裏には爆発寸前の歓喜が隠されている。
「ちょ、ちょっと待て、さっきのでフィルムが感光しただけなんじゃないか?」
もっともな疑問を呈したのは、この奇跡を起こしてみせたはずの山井だった。
「そうだ、さっき捨てたフィルムはどうなってる?」
松村が気づかされたように応じ、矢口がゴミ箱にとびつく。丸められたフィルムはすぐ回収され、画像面が確かめられる。こちらには紫のオーロラは写っておらず、黒い長方形のところどころにすが入ったような白っぽくなったところがあるだけ――。
「やっぱり成功なんじゃないか?」
「あ、ああ」
彼らの目に、事実はもはや動かしがたく映っていた。前人未到のことを成し遂げたという感覚が、彼らの魂まで痺れさせている。だがその偉業を成し遂げた本人である山井には、桜井が見るところその種の興奮はまるでないように見える。
「どうしたんですか、山井君」
「え?」
桜井の呼びかけに虚を衝かれたように山井は応じる。
「なんだかすごくびっくりしてるみたい」
「そりゃ驚きもするさ。彼は凄いことを成し遂げたんだ!」
田畑が浮かれた調子で言うが、桜井には何か違うように思われる。けれどそれがなんなのか、はっきりとはしない。山井は、探られるのを嫌うように桜井から顔を背ける。
「よし、これで希望が見えてきた!」
「うん、文化祭でこれを実演して見せたらベストテンどころか一位入選だって間違いないよ」
「違いない。山井君、これでなんの心配もいらないことがはっきりしただろう。保険なんて考えておく必要なんてどこにもないんだ!」
松村が快哉を叫び、浮かれたつ彼らは山井に群がり、手を握り、偉業をほめそやした。山井は自失したようにされるがままで、それは自分のしたことに我ながら驚いているだけで深い意味はない、と松村は思っていた。松村達の目は、自分達がつかみかけている栄冠にだけ向けられてそれ以外のものには見向きもされない。
だからその日の帰り際、山井が松村にだけ呟いた、
「やっぱり今の路線は諦めて、別の企画を考えるべきだと思う」
という言葉が彼に与えた衝撃の大きさは、とてつもないものであった。
――いったいどういうことなのか、さっぱりわからない。
松村は、その日の放課後誰よりも早く部室に出てきて一人本に眼を落としながら考え込んでいた。窓から差し込んでくるオレンジがかった陽光は地学室を優しく穏やかに照らして思索の邪魔となるものはなにもない。手元にはあの時の写真もある。松村は本の活字を追っては考え、写真に眼を写しては考え、そんなことを繰り返している。
あれから既に二日経ち、その間山井は部活どころか学校そのものを休んでしまっている。なぜ、あのとき山井は企画はやはり変えるべきだなどと言ったのか。
写真に映し出されたおぼろな文字。これはようやく開眼し始めた山井の能力が生み出した、どんな言葉や緻密なデータより雄弁に超能力の実在を示す貴重な一枚であるはずだった。その能力を文化祭で実演してみせれば、大喝采間違いなし。だというのに山井はなぜ?
思い悩みながら松村は本の方に視線を移す。それはこの件の原点とでもいうべき、かつて行われ大論争を巻き起こした千里眼実験に関する本で、当時の時代背景から実験に関わった人達、その内容、残された資料への考察など広範に詳述してある。
実のところこの千里眼事件の主題は透視であって念写ではない。巷で透視能力の持ち主と評判になっていた女性に興味を持った帝大の先生が、封印されたカードを使ってその能力について実験を行ったところ、高い的中率を示したので学内で実験報告を行い、それが報道されてたちまち脚光を浴びるようになり、他の学者先生も交えてさらなる調査が行われた、というのがだいたいのあらましである。
この実験が現代に至るまで論争の種となっているのは、明治という科学技術の未熟な時代において行われた実験が現代の水準に照らして妥当なものであったかどうかの是非という問題もあるが、行われた実験そのものが終始不完全なものとして終わってしまい、そうしたなかで被験者の自殺など悲劇的な展開もあって衆目の関心が実験よりゴシップ的なものに移ってしまったこと、加えて大学側が一方的に透視や念写は科学が扱うテーマにあらずとして検証が打ち切られてしまい能力の真贋に決着を見なかったということが大きい。
松村がいまこうして本の中で実験の経過を追っていっても、引っかかりを憶えるところはある。例えば被験者が透視で好成績を収めたのは一人で実験を行ったときか立会人に背を向けた状態での時に限られること、封印されたカードの中には開封された痕跡が残っているものがあったこと、封印の厳重なカードは透視できなかったことなどなど。否定論者の言うことにも相応の理が認められてしまうのである。
しかし松村にすればそういうことがあったとしてもこの実験の内容を肯定したいのが本音である。なぜならこうした、科学の範疇を越えたものが無性に好きだからだ。そんなのがなんの説得力も持たないのはわかっているが。
僕らがしているのは、さしずめ現代の千里眼実験のようなものかな。
松村は思いつつ本を閉じる。もちろん自分達のしていることなんて学生のお遊びでしかなく本職の大学教授が動員されて行われたかつての実験とは比較にもならない。でもこの実験にかけた意気は……。
そこまで考えて松村は慄然とする。最初にこの実験を主催し被験者の能力は本物であると主張した帝大の先生は、実験が打ち切りになったあとも己の主張を変えず、それがために大学を追われ、以後はオカルトにのめり込んで世間から顧みられることなく世を去った。彼だけではない、先にも書いたが被験者の一人は自殺、もう一人は実験の直後に病で死去するなど、この実験は関わった者の多くに非業の運命をもたらした。あるいは自分達も……。
松村は首を振ってそんな思いを打ち払う。そこまでナーバスに考えねばならない理由はまったくない。ないのだが、ここにきての山井の不可解な主張がついそんな考えに至らせる。
いったい山井は何を考えていて、なぜここにきて企画を変えようなどと言うのか? 本人に質せばはっきりするのだが学校にも来ていないのではそれもできない。だから松村は一人悶々と考え込まねばならなくなっている。
もしかすると彼は……。
考えるうちに松村はある疑惑にたどりつこうとしていた。けれどそんなことがあるだろうかという気持ちのほうが強い。あの写真が、疑惑に対する反証として紛れもなく目の前に存在している。そうなると松村はますますわからなくなって、煩悶は容易なことで解消されそうもない。
ほどなく部員達が集まり出して、松村の思案も一時停止となる。桜井もひょっこりやってきて、皆から領収書を受け取り、誰にいくら渡したか松村へ聞き取りに来て、部費の詳細な出納をすぐ明らかにしてしまっていた。行き先不明になっていた二千円も回収された。おっとり風味で天然成分の桜井だが、この辺りすこぶる有能で松村も多少彼女への見方を変えた。
その桜井も、そして他の部員達も、突如姿を見せなくなってしまった山井のことを心配していたが、彼の呟きについては知らないものだから、能力を消耗させてそれをどこかで充電しているのではないかとか適当な推測をしていて、こちらのほうは心配の仕方ものんきである。
そうして生徒会の仕事もあるからと、山井のいない地学室から桜井が去って行って、皆も今日はお開きにしようかという空気になったころ、唐突に山井が部室にあらわれた。
「あれ、お前、休んでたんじゃないのか?」
富田がそう驚きの声を上げる。山井は、
「今でてきたところです」
とぶっきらぼうに応じる。そして休んでいた理由を聞こうとする面々をまるで無視するように松村のところへまっすぐ向かうと、手にしたレポート用紙の束を置く。
「……これは?」
松村は息を呑みつつ聞く。目の前の山井は休んでいた間なにをしていたのか、憔悴してやつれたような翳りができている。
「代替の企画案を二つばかり考えてきた。今日明日中にどれを採用するか決めて、週明けからは準備を始めよう」
「ちょっと待った! 代替の企画って、どういうことだよ!?」
何も知らされていない部員達が、寝耳に水と声を上げる。
「悪い、文化祭までに俺の念者能力を開眼させるっていうのは、どうも無理っぽい。だから保険として考えておいた別の企画に今から乗り換えるんだ」
「そんな!」
悲鳴に似た声があがる。彼らも胸奮わせる思いで今度の企画を見守っていたのだから当然だろう。
「なんで急にそんなこと言い出すんだ。実験ならこのあいだうまくいったところじゃないか」
「ああ、だがようやく最初の一回が成功したっていうだけで、文化祭に間に合わせるのは厳しい」
「そんなこと、やってみなくちゃわからないさ。これから加速度的にうまくいくかもしれないし」
「いや、無理だ。俺はやってる本人だから、よくわかる」
「そんな、そんな馬鹿な話があるか……」
断定調に言う山井に、富田は言葉をなくす。こうなると山井の一方的さに辛抱ならなくなるようだった。それは他のものも同様で、場に剣呑な空気が漂う。それを打ち払うように、松村が割ってはいる。
「待て、とにかく彼が言う別の企画というのを見てみよう」
「いや、だけど……」
「いいから」
頭に血がのぼっている富田には、松村の落ち着いた様子も奇異に見えただろう。事前に知らされていたとはいえ、本心では松村も驚かされている。手の震えを隠しながら手にしたレポート用紙には、第一案として呪いを主題に展示を作る企画案がつづられている。
――これはこれでおもしろい。
ざっと目を通して松村は率直に思った。世界の呪術について取りまとめたパネルを作り、いくつかは実演してみせる。呪いだけ扱ったのではいかにもテーマとして暗いのでおまじないも取り混ぜて女子ウケを狙ってあったりするあたり良く考えてある。
第二案はピラミッドパワーの実演展示で、こちらもよく考えてあるが第一案と比べるとさほどでもない。この二つの中で選ぶなら、文句なく呪いの展示のほうだが、どちらにしても、
――インパクトには欠ける。
と、松村は思う。これで居並ぶ競合を押しのけてベストテンに食い込めるかどうかとなるとちと怪しい。これではなんというか、衝撃的な部分がないのである。
「どう思う?」
読み終わりそれを富田に渡す松村に山井は聞く。
「悪くないと思うけれど、僕としてはこのまま念写企画で押し通すほうがいいと思う」
「どうして?」
「この内容ではうまく運んでもベストテンに入れるかどうか怪しいよ。それならうまくいかない可能性はあっても、来観者の度肝を抜ける今の企画のほうがいいように思う」
ぬ、と山井は返す言葉に窮した。
「うん、俺も松村に賛成だ。面白いけど、これじゃ印象が薄い」
冨田にもはっきりと言われ、山井は顔を俯けるがすぐ気を取り直したように顔を上げる。
「いや、ならまた別の案を考える。念写企画はとにかく引っ込めないと」
「もしかして君は、これを考えるために二日間学校を休んでいたのか?」
「ああ、そういうことだ」
「それにしてもわからない。なぜうまくいった矢先にうまくいくはずがないなんて言い出して、別の案を持ち出してくるのか」
その問いに山井は答えない。まるで聞かないでくれ、とでも言うように沈黙する。
「山井、お前ここまで来てびびったんじゃないだろうな?」
その態度に苛立ったのか、富田が声を荒げる。
「念写の企画はそもそもお前が言い出して始めたことだろう。まるで結果が出てないならともかく、一度は成功してるのになに怖気づいてるんだ!」
「怖気づいてるわけじゃない。それに、俺が言い出したことだから俺がけじめをつけなきゃいけないことなんだ」
「けじめ? 途中でほっぽり出すことがけじめなのか?」
「ほっぽり出すなんて言ってない。別の企画をもってこようと言ってるんだ」
「同じことだろうが、並の企画なんぞいくつ立てても押し付けらたハードルは越えられないんだぞ」
「やってみなくちゃわからない」
「念写の企画も同じだ!」
激しい感情を交えた視線が、二人の間で交錯する。
「待て待て、こんな重大事は部員の総意で決めないと。俺達だけで決着はできない」
松村のしごくもっともな提案が二人の間の熱を冷ます。目を逸らしあった二人にひとまず安堵した松村は、事の成り行きを見守っていた部員達に目を向ける。彼らも口々に、
「やっぱり念写の企画で押すほうがいい」
と言い立てる。あの紫がかった光の中に浮かび出た文字を見たときの衝撃。あれを来観者にも体感させられれば、どれだけの喝采が得られるか、そしてそれが導く未来。それについて考えるとき、部員達の目に凡百な企画は一層色あせたものに見えてしまうのであろう。
「そらみろ、絶対そっちのほうがいいに決まってる」
富田が、勝ち誇るというより言い聞かせるみたいに言う。
「誰が考えたってそうなるよ。そっちのほうが絶対面白いもの。山井は間に合わないっていうけどさ、なら俺達がすべきことはそいつを間に合わせるようにすることなんだ。それに……」
言いさして富田は何をか思うように口調を淀ませる。
「……それにもし山井の言うとおり間に合わなかったりうまくいかないことがあったとしても、俺達それを責めたり恨んだりはしないよ。これでも感謝してるんだ、俺達を手助けしてくれてることや、すげえものを見せてもらったりしたことをさ。これで駄目なら納得して廃部処分を受け入れられる。部の最後に、いい思い出ができたんだ」
その言葉に、同感の意を示すように頷く一同。山井以外の意見は、どうやら統一されたようだった。
「だから山井よ、お前も妙な片意地張ってないで、もう少し気楽にやってくれ。そのほうが、絶対楽しいぜ」
言い終えて富田は、ガラにもないことを言った自分を恥じるようにかすかに笑った。山井にその言葉はどう響いたのか、顔を俯かせた彼は何かに耐えるようにしばらくじっと無言だった。
「さ、いつもの実験を始めようぜ。続けていればきっと進展があるだろうし、無駄にできる時間はほとんどないんだ」
富田はカメラの用意を始め、他のものが記録簿を取り出した。ごく自然に当たり前のこととして山井の意見は水に流されようとしていた。その時山井が顔を上げる。そこに並大抵ではない決意が浮かんでいるのを、松村は見て取る。
「だめだ、やっぱり企画は変えよう」
はっきりと山井は言い、富田の顔色が変わる。
「山井、おまえまだ……」
「明日また新しい企画についてまとめてたものを持ってくる。今度は皆をきっちり納得させるだけの企画にしてみせる」
「待て! 今やっていることに全力を投じるべきだって、みんな思ってるんだ。お前にはどうしてそれがわからない!」
「わかってる! だがとにかく今のままじゃ駄目なんだ!」
「なら何が駄目なのか説明してみせろ!」
再び、二人の視線がぶつかりあう。しかし今度はそれが激発する前に山井が先に視線を逸らす。
「それはできない」
山井は言い捨てると背を向けて、部室を出て行こうとする。その肩を富田がつかむ。
「待てと言ってるんだ。お前は俺達みんなの心情を踏みにじる気か?」
「そんなつもりはない。とにかく離してくれ」
「駄目だ」
「いいから離せ!」
昂ぶった感情まかせに、肩をつかむ富田の手をふりほどこうとする山井。その時二人の体がぶつかりあった。互いによろめきあう二人。富田の手からは、手にしたままだったカメラがぽろりと床に落ちる。
「あ!」
と誰かが声をあげたがもう遅い。音を立てて床にぶつかったカメラからは、部品のいくつかが弾け飛んで周囲にちらばり落ちる。
何人かの顔色がさっと青ざめた。このカメラは、写真部からの借り物であったからだ。
月曜日、この日から支給の始まった文化祭経費の一万円を受け取りに各部の会計が次々と生徒会室を訪れる中、桜井は浮かぬ顔でその対応に当たっていた。
彼女を心重くさせているのは無論週末の超研で起きたアクシデントのことである。
壊してしまったカメラは、当然のことだが写真部に弁償を求められて松村たちは頭を抱えていた。あんな安普請なカメラでも買うと三万近くかかるとかで、文化祭に使うつもりだった予算をすべて注ぎ込んでも足りず、足りない分はカンパで掻き集めるよりどうしようもないのだが、部の軍資金はそれで尽きることになる。
生徒会の予算を使ってなんとかならないか、という相談を桜井が受けたのは金曜日のことだったがなんともなるはずがない。桜井は生徒会の会計だが予算を自由にする権限など持っておらず、銀行でいうなら窓口嬢的な仕事をしているだけなのだ。
それよりなにより彼女の心を重くさせるのは、そのアクシデント以降すっかり変わってしまった超研部の空気であった。外的困難内的葛藤、そういうものに打ち砕かれて部員達は虚脱状態。そして嵐の渦中にいる山井はといえば、学校には出てきて授業も受けているが、部活には顔を出さず、出奔のようなかたちになってしまっている。
虚脱した超研部員達はもはや山井に何も期待していないかのようで、まだ文化祭前だというのに部には終焉を迎えたような空気が流れている。
日もだいぶ西に傾いて、その日何度目かの気鬱なため息をつくとこちらも気鬱な表情の海野が生徒会室に戻ってくる。
「あ、どうでしたか、軽音楽部と吹奏楽部の話し合い」
「どうということもなかった。双方が一時間ぐらい無駄な応酬をしあって、まとまりそうもないから私の裁定案を押し通してやったわ。まったく、話し合いの席に出てくる前に妥協点ぐらいまとめてくればいいのに。おかげでどっちからも恨まれたみたい。ま、そんなことはどうだっていいんだけど」
海野は言いながら自分の席についた。少なからず疲労しているのが見てとれた。
荒木がそんな海野に茶を入れて差し出す。それを一啜りした海野は、
「ところで講演依頼した作家の先生は、テーマ決まったって?」
「それが、まだみたいなんです」
「大丈夫なのかしら、遅筆で有名な人だって聞いてはいたけど」
そんな話を荒木と始める。それを小耳に挟みながら桜井は受け取り帳のサインを眺める。超研部からはまだ誰も受け取りに来ていない。どの部よりもお金を必要としていて、本来なら真っ先に受け取りに来なければならないのに。
「桜井さん、どうかした?」
沈とした思考は海野によって破られる。慌てて顔をあげると、海野が怪訝そうに自分を見ている。
「暗い顔して帳簿睨んでどうしたの? 何かミスでもあったの?」
「いえ、そういうわけでは……。そんなに暗い顔してましたか、私?」
「うん。なんかもうメランコリーって顔してた」
荒木の言葉にそんなにか、と思い知らされる桜井。自分では表には出さないようにしていたつもりだったのに。
「仕事のほうで問題があるなら大事になる前に言ってね。プライベートの悩みなら……、あ、そうか。プライベートのほうか」
海野は言ってにやりと笑う。
「またアホが何かやらかして周囲の迷惑になってるってとこかしら。今度は何しでかしたの、あの男」
「それは……、言えません」
海野の言葉を半ば肯定しているとも気づかず、桜井は呟く。海野はほんのわずか困り顔を見せた。
「その様子じゃ、超研のやってることもうまくいってないみたいね。学内でいろいろ噂になってるけど、連中は結局なにをしようとしてるわけ?」
「それも……、言えません」
「え? 桜井さん知ってるの? どうして?」
と、荒木が驚きの声をあげる。桜井はそのとき自分の迂闊さに気づいたが後の祭りで、絡みつくような視線を二人に投げかけられている。
「言えないなら言えないでいいんだけど。でもあのアホと係わりすぎると身を滅ぼすってことはよく覚えときなさい。ちょっと係わっただけでもそんな顔してなきゃならないんだから」
「私はよくない。ね、教えて。山井君たちはつまり何をしようとしてるわけ?」
「えーと、それはつまり、その、ごめんなさい、やっぱり言えません」
「なんでよ!」
と不満たらたらの顔をしている荒木をよそに、桜井は海野に問いかける。
「あの、会長。生徒会の予備費から超研部にいくらか支給してもらうことって、できないでしょうか?」
「どうして?」
切れ長の目を刃物のように鋭く細めて海野が桜井を見据える。
「その、お金の問題で困ったことになってるので……」
「はん、却下。世の中お金に困ってないヤツのほうが珍しいわよ。金遣いが荒いだけで知恵の少ないアホを頼みにするからそんなことになるの。それも連中の自業自得、助けてやるいわれなんてない」
桜井は、そうじゃないと言おうとしてやめた。事情も説明せずに援助を求めるのは間違いだし、といって事情を説明するわけにもいかない。それにしても引っかかるのは――。
「あの、会長、ひとつ聞いてもいいですか?」
「なに?」
「どうして山井君のこと、そんな毛嫌いしてるんですか?」
「決まってるじゃない。生かしておいてはいけないクズだからよ、あの男は」
――それは、何の答えにもなっていない。桜井はしみじみ思う。
思えば桜井が生徒会に出入りし始めた頃、山井がまだ会長で海野が副会長であった頃から二人は互いに敬遠し合っているようなところがあって、顔を合わせていても必要な最低限の会話しかしていないようではあった。
敬遠しあっていた二人の感情が、はっきりとした嫌悪にまで変わったのはやはりあの解任事件以来だろう。海野がなぜそのような挙に及んだのか、知っているのは海野本人だけで他の執行役も知らない。あのとき海野は、まず教職員側に根回しして校長と教頭から山井解任の内諾を取り付けて、それを盾に他の執行役達にも解任への同意を迫るというやり方をしたのだった。生徒会長職に不適格という、表向きだけのものすごくあいまいな理由をつけて。
だからあの事件は、山井と海野それぞれが事情について語らねば真相が知られることは永久にないのだろう。
桜井は、その真相にさして興味があるわけではない。ただ、海野と山井が反目しあうのは残念なことだと思ってはいる。できることならとりなしてあげられれば、と思うが感情の問題はそう簡単に折り合いがつくものではないから黙って見ているしかないのだった。
「それで、連中のやってることに見込みはありそうなの?」
そんな風にあれこれ思い悩む桜井に、海野は静かに聞いてくる。
「なんだか、だいぶ厳しそうな感じです」
「ふふ、そう」
その答えがお気に召したのか、満足げに呟く海野の横顔はひどく酷薄にも見えた。
「やっぱり廃部は確定的ね。ああ、私も無駄な努力したもんだわ。こうなったら廃部手続きを粛々と進めておかないとね」
海野は立ち上がり、書類棚のところから廃部手続きに関する書類を取り出すと上機嫌にコピーをとり始める。山井の無能が証明されたことが、よほど嬉しいらしい。
この人の考えていることもよくわからない。荒木と桜井は、顔を見合わせつつ思った。
そんな風に海野が嬉々として廃部手続きを進めているとは知るはずもない松村は、日が暮れて誰もいなくなってしまった部室になお残って、山井の残していった代替企画案をじっと読みふけっていた。
いつまでも放心してばかりではいられない――。
部長として最上級生として、部の存続に責任を負う松村はこの局面を打開すべく行動を起こすつもりでいた。だがもはや山井は頼むに能わず、松村はすべて自分の力量で突破を図らねばならない。
いま読んでいる代替企画も、採用するつもりはない。ただ山井の発想方法、考え方を知りたくて参考にしているに過ぎない。しかし読めば読むほど、山井の発想の非凡さと、発想に肉付けして一つの企画にまとめあげる思考力に感心したくなる。学校始まって以来の天才、入試で最高得点を叩き出したと言われるのは伊達ではない。山井はこの件を頼まれてからこちら、このジャンルの本を読み漁っていたが、その知識はここに結集され知恵によって研ぎ澄まされている感である。
自分は逆立ちしてもこれに勝る案は出せない、と松村は思わずにいられない。それは海野に突きつけられたハードルは到底越えられないという事実を明らかにしている。そして読みふけるうちに松村は、山井に対して抱えていた疑惑についても答えを導き出していた。それは認めるにはあまりに不快で失望をともなう答え。しかし、今となってはそうとしか考えられない。
山井に助っ人を頼んだことが間違いだった。そう思わないでもない。けれど根本的な間違いは、もともと自分達でまいた種を他人の手で刈ってもらおうとしたことなのだ。
だからこれは山井を責めることではない。腹立たしく思う部分はあるし、山井がどういうつもりだったかなんてわかりはしないけれど、それらすべては過去のことである。もう考えても仕方がない。
閉門時刻になるまで代替企画について考え続けた松村だが、結局これという着想も見つからぬまま部室を出る。残された時間は少ないから、あまり悠長に考えてはいられない。けれど知恵をひねり出すのはなかなかに重労働で、慣れていないから時間もかかる。
下駄箱のところで靴を履き替えていると、にぎやかに話しながら近づいてくる一団がいる。話の内容から美術部の一団というのはすぐわかる。興味もないので履き替えた靴を下駄箱に放り込んで外に出ようとすると、不意にその一団から声をかけられる。振り返ると、生徒会の会合で何度か顔をあわせたことのある美術部部長の飯田であった。
「ハロー、松村君、遅くまで頑張ってるね」
と、ひどく気安い調子で飯田は言う。親しいといえる間柄でもないのだが、芸術家肌ゆえのフランクさなのか生来の性格なのか、彼女は誰に対しても気安く話す。
「そっちも、遅くまで頑張ってるね」
「文化祭に向けた製作の追い込みだからね。もう休んでる暇もないってぐらい。そんなことより、ねえねえ、そっちはいろいろ学校内の噂になってるけど、なにしでかす気?」
「しでかすって、そんな人聞きの悪いことは……」
「ふむ、やっぱり秘密ってわけね。そりゃそうよね、伝説の前生徒会長とタッグを組んで、練りに練った秘策は軽々しく打ち明けられないもんね。凄いなー、何する気かしらないけど、前評判だけで相当なものになってるからね。少しは私らもあやからせてよってもんですわ。あはははは」
と、無邪気に笑う顔を見せられると、松村は落ち込みたくなる。一体蓋が開けられたとき、その期待は失望に変わらずにすむものか。
「ほいじゃ、私らも帰るからさ。また明日ね」
「あ、ああ……、また明日」
別れようとして、松村はあることを思い出す。
「あ、そうそう」
その声に、すれ違った飯田が振り返る。
「部室の件は、その後どうなったのかな。何にも聞いてないけど、そっちの承諾はもらえたんだよね?」
「は? なんの話?」
飯田はさっぱりわからないという顔で聞き返してくる。演技を感じさせないその表情に、松村は戸惑う。
「いや、だから部室の話だよ。海野さんから聞いてるだろ? 美術準備室を、うちの部室に提供して欲しいって」
「はあ? それなんの話?」
びっくりするほどの大声で飯田は言う。
「どうしてうちがおたくらに準備室を提供しなきゃいけないのよ。ただでさえ製作に使うスペースが足りなくて困ってるっていうのに」
「え? ちょっと待ってくれ。じゃあ海野さんから何も聞いてないのか?」
「聞いてないわよ。っていうかそれどういう話よ?」
驚愕に打ち崩れそうな松村だったが、感情を押し殺して手早く要点だけを説明する。眉間に皺を寄せて聞いていた飯田は、聞き終えると、はあっと一つ吐息を漏らす。
「そんな話が持ち上がってたんだ。でも悪いけど何にも聞いてないし、聞いたとしてもすぐ断るわよ。さっきも言ったけどうちも場所不足でさ、準備室といえども手放すわけにはいかないもの」
「そんな、じゃあうちの部室はどうなるんだ……」
「そんなこと、海野さんに聞いてよ」
突き放すような飯田の口調が、松村の中に沸々とした感情をわき上がらせる。そしてその感情に乗って数々の疑問が口をついて出てくる。
「いや、それより海野さんはどうして準備室の話を君に伝えなかったんだ? まさか、最初から約束を守るつもりがなかったのか? ならどうしてあんなことを言った? もしかすると全部、俺達をおもちゃにするためだけに……」
「知らないってば、私に聞かないで!」
付き合いきれないとばかり声を張り上げた飯田は、くるりと背を向けるとさっさと靴を履き替え行ってしまう。松村は、それをただ呆然と見送った。無理もない、信じていた未来図は悪質な虚構と暴かれ、苦闘と努力に報いるものは何も用意されていないと明らかになってしまった。なら文化祭でベストテンに入ることにどんな意義があるというのだろう。あの生徒会長は、鼻先に吊るされたにんじんを追いかけるろばの滑稽な姿をおかしがるためにこんな仕掛けを用意したのだろうか。自分達は、見世物を提供するために駆り立てられていたに過ぎなかったのか? だとしたら――。
残酷な真相を知らされて脱力した松村は、すべてを見失ったように下足箱にもたれかかる。
しかし、松村が見失った意義は、山井にとっては失われていなかった。山井にすれば超研部の存続など副次的なことで、その目的はただ海野に勝つということに集約されている。だから究極的には、部室がなくなろうが超研部が廃部になろうが、海野が突きつけた無理難題をクリアしてその鼻明かしてやれればそれでよいのである。
とはいえ、松村たちがそんな窮状を迎えていると知れば山井の顔色も少しは変わっただろう。松村が事実を知らされたのはつい昨日のことで、部室にも行かず部員との接触も断っている山井の耳にその事実は届きようはずもない。
山井は、この件から降りるつもりで部から遠ざかっているわけではなかった。事態の展開が予想外になってしまって、打つ手に困っているのは事実である。代替の企画は受け入れられずカメラは壊れ、資金も枯渇したとあっては八方塞がりもいいところ、それに自分を見る彼らの眼が変わってしまったことも、山井は当然わかっていた。
このまま何もせずに手を引いて、連中のしたいようさせてやるのが最善なのかもしれない。そうも思うが、混乱の収拾もつけず逃げたなどと後で陰口叩かれるのも矜持が許さない。だが今更、どんな顔で部室に行って連中に何を示せばいいのやら――。
堂々巡りする思考に引き回されるように、山井は放課後の校舎内を歩き回っていた。どの教室でも文化祭へ向けての準備が行われ、廊下のあちこちに何がしかの製作物が置かれている。教室の賑やかな様子と、それらオブジェが見せる廊下の華やかさ、学内はどこも文字通りお祭り前の雰囲気である。
この祭りの雰囲気が、そのまま超研部の命日の空気になるのかもしれない。
同じ空気に身を浸しているというのに、ちっともその実感を味わえない自分の不遇を、山井はそんな風に嘆きつつあてもなく歩く。思えば高校生活はじめての文化祭、自分ももっと楽しんで盛り上がって、祭りの空気を謳歌していいはずだった。それなのに!
山井の代わりにそれを満喫しているように楽しげな女子生徒二人とすれ違う。ちょっと足を止めて山井は彼女らを振り返って見送る。向こうは山井のことなど気にも留めず行ってしまう。なんとなく、自分が置いて行かれたような淋しさを山井は味わう。それを振り払って、山井が再び歩き出そうと前を向いたとき、
――目の前から、あの女が歩いてくるのが見えた。
山井の足は思わず止まる。向こうもすぐこちらに気づいた。背を向けたくなったが、逃げ出すようなマネはしたくないので歩き始める。向こうは、何の躊躇もなく近づいてくる。
すれ違うとき、空気が凍り付いているのを山井は感じた。けれどそれは一瞬のことで、互いの姿が視界から消えれば、賑やかな空気が取り戻される。山井は胸の中に安堵の吐息を漏らして立ち去ろうとしたが、
「待ちなさい」
命令口調で、不意に呼び止められる。振り返れば、海野が立ち止まって自分を見ている。眩暈に近い感覚を、山井は覚えた。
「何だよ?」
かろうじて絞り出した声は、どこまで海野に聞こえていただろう。海野は落ち着き払った物腰を崩さずに言う。
「近頃、超研部の連中に肩入れして色々手助けしているそうね。馬鹿と無能が集まって、どれほどのことができるか注目させてもらってたけど、早々と行き詰ってるみたいで、まったく、私の期待を裏切ってくれないことね」
「誰も何も行き詰ってなんかねえよ。進むべき方向を決めかねてるだけだ」
「あら、ものは言いようね。迷走のあげく壁に激突して砕け散ったら、今度はなんて言いつくろってくれるのかしら」
「知るか、そんな嫌味を言うために人を呼び止めるな」
「違うわ、少し励ましてあげようと思って。これでもあなたたちのことを応援してるんだから」
「あ?」
「意外そうな顔をしないで。私だって人間なんだから、頑張っている人たちを見たら応援したくなるものなのよ。だってそうでしょう? 学校のお荷物であるあなたたちが見当違いの努力を重ねて、それも虚しく現実の壁にぶちあたってどんな散りざまを見せてくれるか今から楽しみなんですもの。ふふ、わかる? あなたたちはその全てが今年の文化祭で最高の出しものなのよ。中身も実力も伴わない者が虚勢だけで世の中渡っていこうとするとどういうことになるか、っていうね。テーマを付けるなら、そうね、馬鹿が当然たどるべき末路ってとこかしら。これは学校中の生徒が実地に学べるとても有意な教材でもある。それに学校始まって以来の天才なんてちやほやされている男が、所詮は口だけの思い上がった馬鹿でしかないと明らかになれば学校のみんなはどんな顔をするのか、考えただけで嬉しくなるわ。そしてプライドだけは無駄に高いあなたが、皆の蔑む視線にいつまで耐えられるのか……。だから文化祭前だっていうのに、くじけてもうダメだなんて顔してないでちょうだい。馬鹿は馬鹿らしく、玉砕間違いなしなのに意気軒昂っていう、それぐらいでいてもらわないとこちらが困ってしまうんだから」
自分の中で何かが壊れる音を、山井は聞いた。その音は無論海野には聞こえず、山井の顔に浮かんだ薄笑いはむしろ卑屈さのあらわれのようにさえ見えた。けれどそうではない。
「……言いたいことはそれだけか?」
その呟きに、山井の薄笑いが不敵な笑いの前哨であったことに気づかされる海野。それは夏の入道雲のように急速に現れ、たちまち雷鳴を呼び起こすような、静から動へ転じるエネルギーが見せた一瞬の透間。
「好き放題言ってくれたが、お前、驕れる平家は久しからずって言葉を知らないのか? 権力の絶頂にあった平家は連中が滅ぼしたつもりになっていた源氏の逆襲にあって滅んだし、世界帝国だったローマを滅ぼしたのは蛮族扱いされていたゲルマン人だった。すべからく世は諸行無常、自分が馬鹿にしきってた相手に滅ぼされるときそれを思い出してももう遅いってことをわきまえといたほうがいい」
「わきまえているつもりよ、これでも」
「そうかい。ならもう一つ教えてやる。一寸の虫にも五分の魂、天網恢恢疎にして漏らさずといってな、天が一寸の虫の正しい努力を忘れなかったからこそ歴史の回天ってのは果たされたんだ。そして思い上がった貴様に天が味方をすることはない。滅びるべきは貴様だ、それが運命なんだ」
大仰な言い草に、今度は海野が一つ小さく吹き出す。
「結構よ。天がどちらの味方をするか、蓋を開けてみるまでもないけれど見届けてあげるわ。あなたは、そうね、泥の中でのたうちまわってくたばって、二度と登校もできなくなるような醜態をさらしてちょうだい。それが嫌なら今のうちに退学届けでも書くのね。傷はまだ浅くすむわ」
言い放って立ち去る海野を、山井は視線鋭く見送る。しかしそれも長いことではなかった。再び歩き出した彼の足は、まっすぐ超研の部室へと向けられている。
けれど殺気立った山井が乗り込んでいった部室には白けた空気が漂っていて、松村たちはその瘴気に酔うように濁った目で山井を一瞥しただけである。
カメラを壊したショックをまだ引きずっているのかと、山井は思った。
「何をやってるんだ、お前達は」
一人苛立つ山井に返事をするものはいない。
「おい、そんな風に呆けてる場合じゃないだろ。文化祭まであと何日しかないと思ってるんだよ?」
「……君こそ、何をそんなにいきり立ってるんだ? 文化祭なんてもう僕らには関わる必要のないイベントじゃないか」
ようやく松村が言葉を返してくる。
「何を言ってるんだ、部の存亡がかかってるんだろうが」
「部の存亡? ふ、ふふふ。そんなこと言っていた頃もあったね。でもそんなのは全部過去の話さ」
「どういうことだ?」
その問いかけに松村は疑念の表情を見せるが、すぐ得心したように頷く。
「そうか、君はここのとこ来てなかったから知らないのか。迂闊なことだったね」
と、自嘲的に言う松村の態度が妙に山井の癪にさわる。
「あの生徒会長は、最初から僕らとの約束を守るつもりなんてなかったのさ。あるいは条件をクリアするのが土台ムリと思われたのかもしれない。文化祭でどうなろうと、僕らの廃部は規定事項なのさ。だって代替の部室はどこにも確保されてないっていうんだから」
「……んだと?」
「驚いたかい? だけどこれが真実でね。僕も昨日美術部の部長と話して知らされたんだ。あの会長、部室の確保どころか話を通すことさえしていなかった。僕らは空手形に踊らされたんだ、馬鹿にされたものだよ」
「どこか他の場所に部室が確保できたんじゃないのか? それで美術部にあたる必要がなくなったとか」
「いや、それはない。そもそもどこにも確保できないから美術部にお願いするしかないって話だったんだ。他に場所があるなら最初から美術部に頼ったりもしないよ」
山井は何か引っかかりを覚える。先ほど海野に出会ったとき、あの女は傲慢な態度に終始していたがそんなことは少しもほのめかしていなかった。裏にそんな仕掛けを巡らせているなら、サディスティック極まりないあの女の性格からして何か匂わせてもいいはずなのだが……。
「しかし、もしそうだとしても約束は約束だ。何の手当てもしていないならそれはあの女の落ち度で、こっちが泣きをみる必要はないじゃないか」
「それはそうさ。だけどそれは理屈でしかないよ。あの会長が僕らの言い分に耳を傾けて翻意するとは思えないし、翻意するぐらいなら最初から空手形を切ったりはしないだろうからね」
「負け犬根性じゃないか、そんなのは」
「負け犬根性? はは、そうかもしれないね」
松村は、乾いた声で笑うが、一転して今度は哲学者のように物事の奥深くまで見渡す視線になって言う。
「でも勝ち目のない戦さに蛮勇をふるって、無駄な労力を注ぐよりは負け犬のほうがスマートでいいかもしれない。ダメなことはダメっていう、分別はあったわけだからね」
「蛮勇だと? 困難に打ち勝って目的を果たそうとする努力が蛮勇だってのか?」
「ケースによるだろうね。でも今度のは蛮勇さ。僕らに勝ち目はない」
「なぜ、そう言い切れる?」
「君こそ、今度の件で僕らが与えられた条件を克服できるって、本当に思っていたのかい?」
まっすぐに山井を見つめて、松村は聞いた。
「……どういう意味だ?」
わずかに瞳を揺らして山井は聞き返す。
「最初に君が言っていた君の念者能力、あれは狂言だったんじゃないのか?」
山井の目が大きく見開かれ、そこに自分自身が映りこんでいるのを松村は見た。その自分はひどく怒ったような顔をしていて、そのことに松村は我ながら驚く。
「それ、本当なのか?」
会話に聞き入っていた他の部員達までもがざわめきたつ。
「どうしてそう思った?」
聞き返した山井は、既に切り替えたようでふてぶてしくさえ見える表情になっている。
「この間の実験が成功したとき、君は誰よりも驚いているように見えた。あの時は気づかなかったが、後で疑問に思ったんだ。どうして念者能力があるなんていう君が、あんなに驚いていたのか。そしてどうして、実験に成功した直後に企画を変えようなんて言ったのか。それを考えていたらふと思いあたってね」
山井は松村を見返したまま沈黙する。どう応じるべきか考えていた。しかしこうなってなお虚言を張る理由はどこにもなかった。それで山井は、本当のことを告げる。
「……ああ、そうだよ。俺には念写能力なんてないし、昔実験で成功したなんてのも大嘘だ。あのときの写真だって、感光したのがそれっぽく見えたってだけさ」
松村以外はそれを聞いて凍りつく。頼みにしていた砦が崩れ落ちた瞬間だった。松村はこのときようやく己の怒りを実感し、この男には珍しく逆上し山井の胸倉をつかむ。
「どうしてそんな嘘をついたんだ? 最初から僕らを担ぐつもりだったのか?」
だとしたらこの男を許すことはできない――。裏切られたことよりも、弱く力のないものを弄ぼうとするその根性が松村の怒りを増幅させる。それこそ、諸悪の根源であるあの生徒会長と同じ性質、同じやりくちだからだ。
「……そんなつもりはなかったさ」
松村の怒りに小馬鹿に出来ないものを見て、山井は観念したように静かに応じる。
「ならどうしてあんなことを言った?」
「理由か? お前らの目の色が変わるくらい本気で取り組めるネタを提供する必要があったからだよ。情報作戦の一環みたいなもので、俺たちがでっかいことをしでかそうとしているって学内の前評判をつくるために、お前らの本気を演出したかったんだ」
「しかし、それじゃその後のことはどうするつもりだったんだ? 一連のあの実験は……」
「あれは単なる時間稼ぎにやってただけさ。ヒットの見込める企画をすぐまとめるなんてさすがの俺でもちょっと無理だ。だから成功するはずのない実験をしばらく続けて、先行き怪しいという空気が出てきたころに代わりの企画を出すつもりだった。ところが誤算が起きた」
「思いがけず本物っぽい写真がとれたことか」
「そうだ。あのアクシデントのせいで、企画は変えないほうがいいという空気になってしまった。ま、代わりの企画が冴えないというせいもあったが」
「じゃあ、君が関連した本を読み漁っていたのは……」
「企画のネタにするためさ」
「じゃあ僕らをかつぐつもりはなかったんだな?」
「担ぐつもりなら飽きもせずあの実験を繰り返してるさ。だけど俺は……」
少し口ごもって、山井は身を預けるように急に体の力を抜く。
「お前ら言ってたよな。うまくいかなくても恨まないしむしろ感謝するぐらいだって。そんな風に言ってくれる連中を真正面から裏切れるほど、俺の肝は太かないんだ」
松村の中で、多くの物事が消化され腑に落ちていく。敵を欺くにはまず味方からというが、山井はそれを地で行っていたわけだ。ただ思いがけず嘘が真になり、他のアクシデントも加わって彼をして道に迷わせた。それだけのことだった。
松村は山井の胸倉をつかんでいた手を放す。すると、妙に吹っ切れた気分になった。
「それで、お前らは本当にこのまま引き下がるつもりなのか?」
着衣の乱れを直しながら山井が聞く。
「仕方がないさ。部室のことはさておいても八方塞りなことに変わりはないし、事態打開のこれといった妙案も見つからない。天は我らを見放したかってところだね。もっとも、見放されて当然の僕らだからそれを恨みに思ったりはしないけど」
「そうか……」
山井は呟いて視線を落とす。横顔には、残念そうな気落ちしたような、物寂しい表情が浮かんでいる。彼は彼なりにベストを尽くしてくれていたのに、松村は何だかすまない気持ちになってくる。
「いろいろ厄介をかけてしまったのにこんな結末で申し訳なかったね。何かお礼がしたいから、僕らにできることがあったら何でも言ってくれないか。もっとも、僕らじゃできることも限られてくるけど」
言われて山井はまじまじと、本気を測るように松村を見つめる。
「なあ、念を押すようだが、みんな本当に、本気で廃部処分を受け入れるつもりなのか?」
「それは、納得しているわけじゃないけど、こうなったら仕方がないよ」
「そうか……」
と、呟いた山井はまた視線を落として、腕組してしばらく考え込む。
「出来る範囲で、俺にお礼をしてくれるんだよな?」
「あ、ああ。なにかあるのかい?」
「なら悪いが、お前ら全員いまここで退部届けを出してくれ」
「……な!」
皆が、驚きに言葉を失う。どこをどうすればそれが礼になって、どこをどうすればそんな要求されねばならないのか――。
「俺は、どうしてもあの生徒会長に負けたくないんだ」
呆気に取られる皆の前で、絞り出すみたいに山井は言う。その言葉は、特に松村には重く響いて聞こえた。
「いったいどういうことなんだ?」
「あの時の写真、感光したのがそれらしく見えただけと言ったが、もしかすると、可能性は本当に一パーセントもないかもしれないが、俺の中に目覚めた能力がああいう写真を撮らせたのかもしれない。なら俺はそれに賭けたい」
「……?」
「俺はこのままトレーニングと実験を続けて、最初の企画どおり文化祭に展示を出してみたい。うまくいく可能性なんてほとんどないが」
「なら、僕らも手伝うよ」
矢口が咄嗟に口を開くが、山井は首を横に振る。
「ダメだ。うまくいく可能性なんてほとんどないんだ。文化祭当日は机の上に置かれたカメラを前に俺がうなってるだけの、悲惨な展開になるかもしれない。学内の笑いものになるのは俺一人だけでいい。みんなは巻き込めない」
垣間見えた壮絶な決意に、松村たちは戦慄を覚える。何がそれほどまでにこの男を駆り立てているのか、それはわからないが看取った決意は本物であった。
「……そこまでわかっているのに、それでも君はやるのかい?」
「ああ。俺はどうしても、どうしてもあの生徒会長に勝ちたいんだ!」
血を吐くみたいに言った山井の瞳にあらわれていた、決意、矜持、闘志。それが一同の心を根っこから揺すぶろうとしていた。山井に、富田が近づく。親しげに山井の肩に手を置いた富田は、晴れ晴れとした表情で話しかける。
「手伝わせてもらうぜ。あの女会長の専横は、誰かが止める必要のあることなんだ」
それに呼応するように、田畑も言う。
「俺も手伝わせてもらう。うまくいくかいかないかなんて問題じゃない。これこそ俺達超研部が扱うべきテーマさ。恥をかくのを恐がって手を引いたなんてなったら、男の恥だ」
「僕もだ!」
「俺も、手伝うよ!」
次々に声が上がり、皆が山井の手を握って放さない。山井は戸惑うように皆を見つめていたが、最後松村が重ねられた手に自らの手を被せる。
「俺達八人、生まれた日は違っても死ぬ日は同じさ。力を合わせて、あの生徒会長に、目にものみせてやろう」
「みんな、すまん……。ありがとう」
うつむいた山井の眼からはらはらと零れ落ちる涙。その光景を、いつからいたのか、支給費の入った袋を抱きしめた桜井がじっと見つめていた。
そうして息を吹き返した超研部員達の大車輪の活動が再開されることとなる。彼らは文字通り夜討ち朝駆け、ある時はグラウンドに、ある時は武道場に、またある時は調理実習室にという具合で、学校中を舞台に時々よその部活と衝突しながら派手に動き回っていた。
「で、連中今度は何を始めたわけ?」
この忙しい時期に、生徒会へ寄せられた苦情報告などに係わりあっていられない海野はうんざりした顔で桜井に尋ねた。生徒会室から見えるグラウンドは茜色に染まり、陸上部の部員が何人か集まって話し込んでいる。
「はあ、ごめんなさい、言えません」
律儀にまだ一線を守り続けている桜井は、そう詫びて頭を下げる。超研部があちこちで軋轢起こしながらやっているのは、山井の全能力強化特別トレーニングだということを知っているのは、部員を除けば学内で彼女だけである。
その異様な盛り上がりについて聞くにつれ、ちと薬(というより毒薬)が効きすぎたと後悔している海野だが、彼らをそこまで駆り立てさせた自分の過ち、つまり部室の件については少々反省もしている。
「じゃあ美術部に話を通さなかったのは忙しさでつい忘れてたからなんですか」
「そうよ。後回し後回ししてるうちにど忘れしちゃってたわ、まったく、私らしくもない」
そこに悪意がなかったことは、桜井をひとまず安堵させる。しかし海野は口に出さないが、後回しにしていたのはどうせ連中に見込みはないとタカをくくっていたのも事実である。
「部室のこと、どうにかしてあげられないでしょうか?」
「さて、どうにかする必要があるのかしら?」
「そんな、みんなすごく頑張ってるのに」
「頑張るのは素晴らしいけど、果たしてそれは見込みのあることなのかしら。私はそのあたりなにもわからないんだけど、わからないまま無駄な労力使わされるのはイヤよ」
机に向かって座っている海野は、上目遣いに桜井を見て言う。
「それは……」
途端に桜井は口ごもる。かなり厳しいですと自明のことを言えないのが彼女の優しさであり、少しはありそうです、程度の嘘もつけないのが彼女の悲しさである。
「ほらごらんなさい、なら今から部室の手配なんてしたって意味ないじゃない」
遠慮なく真理を突いてみせる海野を、桜井は複雑な思いで見つめる。しかし桜井が思うほど海野も割り切れてはいないようで、かわすように視線をそらした横顔はわずかに曇っている。
「……しかしまあ、私が約束を最初から反故にするつもりだったなんて連中に思われるのは癪なことではあるわね」
その呟きと同時に、窓の向こうから大声が聞こえた。海野が振り返ると、プールのほうで白装束を着込んだ山井ほか超研部員と、水泳部らしい面々がもみあいしているのが見える。
「あれは、何をしているの?」
「プールを使いたいとかで、水泳部と交渉してたんですがまとまらなかったらしくて……」
「プール? 泳ぐの? この時期に? あの格好で?」
「いえ、泳ぎはしないんですが、滝にうたれる修行をしたいけど滝がないから、プールのシャワーを貸して欲しいうんぬん水泳部に申し入れて、それで……」
「はあ? なにそれ?」
裏返った声で聞かれても、桜井は困惑するばかりである。海野は苛立ったように、やや強い口調になって質す。
「桜井さん、もういい加減に連中が何をしようとしているか話してちょうだい。今ならまだ連中を助けられるかもしれないし、でないと私が部室を用意したとしても甲斐ないことになる」
迫られて桜井はどうしようか迷う様子だったが、やがて意を決したように話し出す。聞き終えて海野は、大きなため息を漏らす。
「……そんなことになってたの。なるほど、それで滝行ね。でもそんなことで超能力が開発できるなら修験者はみんなエスパーになってるわよ。とんちんかんにもほどがあるわ」
「やっぱり、そうですよね」
海野は無言で立ち上がると、窓の向こうをじっと見つめる。超研部のプールジャックは何とか成功したらしい。シャワーが盛大に水を流して、それにうたれながら一心不乱に印を切っている山井の姿が遠巻きに見える。
「アホはどこまでいっても所詮アホか……。頑張ってはいるらしいけど」
そう独り言のように言うと、海野は踵を返して生徒会室を出て行こうとする。
「あ、どこに行くんですか?」
「ちょっと考え事したいのよ。となりの資料室にいるから、急な用ができたら呼びにきて」
海野はそれだけ答えて戸を閉めて、姿を消す。
それから小一時間もしただろうか、海野が呼んでいるというので桜井が資料室に行ってみると、窓際に置いた机の上に腰を下ろした海野はじっと窓の外をみやったまま、桜井を顧みることもなく言う。
「悪いんだけれど、超研の部長のところに行って本を借りてきてくれない?」
「本? 何の本です?」
「バカが借りて読み漁っていたのと同じ本を全部、もちろん、私の名前は出さずに」
「はあ……」
頷きながら桜井は、窓辺に近寄って海野の視線の先を追う。見えたのは、人が乗ったタイヤを懸命に引っ張る山井の姿。
「大丈夫なんでしょうか、山井君」
「あれしきでくたばるなら所詮その程度の男よ。生きながらえたところで二束三文の価値もでないでしょうに、それならいっそ今ここでくたばったほうが本人のためだわ」
何の感慨もなさそうに言った海野の横顔は、桜井の目にひときわ無機的に見える。だからそれが本心なのか上辺なのかは判然としない。その表情を崩さないまま、海野はぽつりと言う。
「それともう一つお願いなんだけど」
「はい?」
「あなた、明日から放課後はあのバカについてやっていてくれないかしら。あなたの仕事は、こっちでやるようにしておくから」
「え……」
思いもかけないお願いに、桜井は目を見開く。どんな心情がそんな言葉を語らせたのかわからなかった。探ろうとしても、海野の横顔はどこまでも無機的で、何ら読み取ることはできない――。
その日、桜井が借りこんできた本の量はダンボール一箱分を超え、海野はそれを小分けに持って帰るなどとちまちましたことはせず、タクシー呼んで一度に持って帰るという豪快なことをして皆を驚かせた。
海野がそうまでしたのには、もちろん理由がある。
翌日の昼休み、超研部の部長と副部長である松村と富田の教室に桜井がやってきて、山井が急な用があると言っている旨を告げて二人を連れ出した。そして二人が連れて行かれたのは、茶道部の部室である。
「茶室でいったい何をするっていうんだ?」
精神力強化の特訓に明け暮れている山井が、唐突に新たなトレーニング法を思いついたのかと二人は訝しがった。桜井は何も答えず、
「ともかく、入って下さい」
畳敷きの広くもない室内に二人を進ませる。その足はすぐ驚愕に硬直する。見事な掛け軸、美しい生け花、沸き立つ茶釜、そして主人として席に座っていたのは、憎んでも憎み足りないあの女生徒会長であった。
「これはいったい、どういうことだ!」
松村の大声に桜井は身をすくませる。しかし海野は平然としたもので、正座したまま静かに言う。
「茶室でそんな大声だすものじゃないわ。まずは座ったらどう。ここはくつろぐための部屋なんだから」
「お断りだ、山井君の用だというので出向いてみればなんだ、文字通り茶番だ。ふん、こんな所に呼び出して、今度は僕らにどんな罠をしかけるつもりなんだ?」
「無粋ね。罠にかけるつもりなら、こんな場所じゃなくもっとそれらしい場所を選ぶわ」
言った海野の手が茶櫛に運ばれ、流麗な手つきで茶が立てられ始める。海野はそれをすっと差し出す。
「まずは一服どうぞ。それとも私がこのお茶に毒を盛ったとでも言うつもりかしら」
松村と富田はしばし顔を見合わせたが、ついに覚悟を決めたようにどっかりとその場にあぐらをかいてまず松村がその茶を飲み干す。続いて冨田が。それはただひたすら苦いばかりで、毒ではないにしろうまいと思える味ではなかった。
「で、茶を飲ませるために俺らを呼び出したわけじゃないんだろう?」
「そうね、罠にかけるつもりでない、茶を飲ませるためでもないとなれば、他に用があると考えるのが当然ね」
「もったいつけてないで、それをさっさと言ったらどうだ?」
「せっかちね。少しぐらいは雑談に花を咲かせるぐらいの余裕があってもいいんじゃないかしら。何しろ私達は、これから手を組んで一仕事しようって間柄なんだし」
「……なんだと?」
「ところであなたたち、文化祭の準備を随分頑張っているみたいだけど、部の存続のための条件をクリアできるメドはついたのかしら?」
「そんなこと、あんたに関係ないだろう」
「あら、あるに決まってるじゃない。存続するにせよ廃部になるにせよ、私は生徒会長なんだから」
「そっちこそ、存続が決まったときの僕らの部室は確保してくれたんだろうな」
「当然。もうとっくに用意してあるわ」
「嘘をつくな、美術部の部長が準備室は渡さないって言うのを聞いてるんだぞ」
「確かに、美術準備室ではないわね」
「え……」
思いがけない首肯に松村は呆気にとられ、海野はその反応を楽しむように笑みを浮かべる。
「じゃあ、いったいどこに俺達の部室を確保したんだ?」
たまりかねたように富田が聞く。
「その前に、あなたたちが進めている文化祭の企画はどうなっているのか答えてちょうだい。条件はクリアできそうなの?」
「……ああ、決まってるだろ」
「ウソね」
一刀両断に海野は言って、じっと二人を見る。すっかり見透かされていることに、富田は反発の言葉を封じられてしまう。
「まあ聞かなくともだいたいのところは桜井さんから聞いて承知しているんだけれど、でもあなたたちは私が約束を反故にしたと思い込んで討ち死に覚悟の特攻戦術にでたんでしょう? それが勘違いだったとわかったいま、あなたたちが討ち死にする理由もなくなったんじゃないかしら」
松村と富田は、海野が言おうとしていることがわからず顔を見合わせる。海野は促すように話を続ける。
「大人になりなさいってことよ。部室が確保されてるなら、部の存続について現実的に考えたほうが有意義だって思わない?」
「あ!」
二人は小さく声を上げた。海野憎しで凝り固まっていたせいで、それだけのことが見えなくなっていた。しかし、二人は当事者であるだけに現実の厳しさも忘れてはいない。
「だけど僕らにどうしろっていうんだ? 現実的に考えろといったって、文化祭までもう間もない。できることなんて限られて……」
松村の言葉に同感の意を示しながら富田は海野を見る。海野はいつもの傲岸さをひときわ誇張させるようにやや上を向いて、
「私と手を組むのよ。さっきも言ったでしょう?」
明白に言う。二人は、さすがに言葉が告げられない。
「何を驚いているのかしら? いい話じゃない。あなたたち、金なし知恵なし打つ手なしで困ってたんでしょう? 私と組むなら費用は生徒会の予備費から捻出してあげるし、企画についても、私がもっとまともで成功が見込める内容を練ってあげる」
「……いったい、なにを企んでる?」
その意図を訝しんで、聞かずにおれなくなる松村。海野は静かに頭を振る。
「企みなんて、何もないわ」
「嘘をつけ。あんたは俺らの部を潰したがっていたじゃないか。今度の件だってあんたが言い出したことから始まってるんだぞ。それがどうして今になって……」
「そうね、努力をしない、時間を空費するだけの輩は私が一番嫌いな存在だから、そんな人間の吹き溜まりになってる部活動なんてさっさと潰れればいいって思ってたのは事実よ」
「ならどうして……」
その問いには答えず、海野は釜に向き直ってまた茶を点てはじめる。しばらく茶筅の立てる音だけが室内に流れていた。海野は点てられた茶に自分で口をつける。
「あの……、ちょっといいですか?」
松村たちの後ろに控えていた桜井が、そっと口を挟んでくる。
「今度の、超研部を廃部にっていうのを言い出したのは海野さんじゃないですよ」
松村も富田も、驚きの顔になって桜井を振り返る。桜井は諭すようにゆっくりと続ける。
「今度の件は、教頭の成川先生が言い出したことが職員会議で決定されたのが始まりなんです。でも海野さんが生徒会の同意なく頭越しの決定は受け入れられないって猛反対して、最初の無条件に廃部っていうのを何とか条件付のところまで持っていったんです。だから海野さんが言い出したことっていうのはお二人の誤解です」
それも松村たちにとって思いもよらない事実。それだけに鵜呑みにはできず、その表情に複雑さは増してくる。それでも、
「……金はともかく、知恵の内容ぐらいは今聞かせてもらえるんだろうな?」
そう聞いたのは傾斜し始めた心中をあらわすことではあった。
海野は大判の封筒を一通、畳の上に滑らせる。受け取った松村はその口を開き、取り出されたA4用紙を富田が横から覗き込む。
これこそ、借りた本を一晩で読破した海野が今朝まとめたばかりの秘策、超研部の文化祭企画書である。文化祭まで間もないことゆえ、海野はともかく急いでこれをまとめねばならなかった。そしてこれゆえに二人をわざわざ呼び出したのである。
用紙は走り書き程度の内容で、枚数も二枚、読むのにさほど時間はかからない。そして読み終えた二人が見せたのは、胆汁でも含ませられたかのような苦々しげな顔。
「あんた、俺達にこの内容で展示を出せっていうのか?」
「ええ、そうよ。逆説的で意想外で、大ヒットは間違いないと思わない?」
「冗談じゃない、こんな企画を立ち上げたら、山井に対する裏切りになるじゃないか!」
いきりたつように富田が吼える。海野は少しも動じることなく応じる。
「ならないわよ。少々役割を変えるだけで、一番重要なポジションであることに変わりはないんだから」
「詭弁だ」
「事実よ」
海野も富田も、一歩も退かぬとばかり睨みあう。
「確かにな」
それを中和するように、読み終えた用紙を膝上に落として松村が言う。
「ここに書いてあることをすればベストテン入りも不可能じゃないと思う。山井君のことはともかくとしてだが、それにしてもわからない」
「なにが?」
「さっきの話の続きだ。僕らの部なんて潰れればいいって言ってたあんたが、なぜ豹変して僕らを助けようとする。そこのところがはっきりしないと、手を組むも何もないもんだ」
「もっともなことね」
海野は頷いて、ちょっと考えるように間を置いてから言う。
「ろくな活動もしないで遊び惚けている連中から部費を取り上げるのは生徒会長としての私の職責である。でも、何らかの実績を残そうと努力している生徒達がいたらそれをアシストするのも生徒会長の義務である。こんなところでいいかしら?」
「……そうだな、悪くはない。ついでにもう一つ答えてもらう。そっちが用意した部室っていうのは一体どこだ?」
「生徒会資料室」
「資料室だって? 物置部屋じゃないか」
「片付ければいいのよ。もともと広さは十分あるから、半分あけただけでも申し分ないスペースが確保できるわ」
「そうか、さっき言ってた一仕事っていうのは……」
「そういうことね。ただ、文書をどかしたりとか、書棚を右から左に移動させたりとか、そんなことを頼みたいわけじゃないのよ。それじゃ資料探しがますます大変になるから」
「?」
「前から考えていたことがあって、要は……」
説明を始めた海野に、聞き入る松村と富田。後ろで聞いていた桜井もそれは初めて聞く話で、会長はそんなことを考えていたのかと呆れ、そんなことをするのかと何より驚いた。果たして二人も似たような感想を持ったようで、海野の説明が終わるとまず難しい顔を見せる。
「……それを僕らに手伝えっていうのか? 文化祭前の押し詰まったこの時期に」
「押し詰まってるのはこちらも同じよ。でも文化祭が終わればすぐ旧校舎は使えなくなるし、今日からでも取り掛からないと、あなたたち散らかり放題の資料室に押し込められることになるわよ」
「……ただし、それも僕らが文化祭で入賞したらの話か」
所詮それらは仮定の話、夢に酔いしれて現実のことを忘れることはできないとばかり松村は呟き、海野も頷く。
「そうね、それともあなたたちはすっかり諦めの境地に入ってしまって、私の提案なんて余計なお世話にしか聞こえなかったかしら?」
「諦めてなんていないさ、だが……」
「ならこの話に乗って、私と手を組みなさい。部を存続させるにはそれしかないわ」
「そんなことはない、そのために俺らは山井という頼りになる助っ人を招いたんだからな」
「無駄ね、あの男は何の役にも立たないわよ」
「なぜ、そう言いきれる?」
「あの男のしてることを見てみなさい、まるで的外れじゃないの。あの男、私に一矢報いてやろうって気持ちが強すぎて、本来の目的を見失ってるのよ。あなたたちも、そうみたいだけど」
「……そんなこと、当然じゃないか」
当人も自覚していない図星をつかれて、松村は苦々しげに言い返す。海野に対する怒りが、急激にこみあげてくる。
「あれだけ言いたい放題いわれたんだからな。一矢報いようって気持ちをなくしたらもう男じゃなくなる」
「その心意気、大いに結構。男なら当然そうあるべきよ」
開き直るように言った海野は、たじろいだところは少しも見せず正面から松村を見据える。
「でも大人になって考えるということも重要よ。私のことを腹に据えかねるというのと部の存続については、まったく別の問題でしょう? 私は逃げも隠れもしない。一矢報いたいならいつでも相手になるから好きなとき来なさい。だけどあなた達は超研部の責任者で、今はそんなことより部の存続をどうするか考えるのが優先でしょう? 他に部員もいるっていうのに、わき道にそれて部を潰して、それで部長としての職責を果たしたと胸を晴れるの?」
突きつけられた命題は、二人に重大な決断を迫る。その脳裏には、事に臨んで捨て身でいる山井のことが思い浮かべられている。どうするのが最善なのか? 二人は激しく思い悩まされる。
――裏切ることなんて、できない。
富田は苦悩のうちに呟いた。始まりやいきさつはどうであれ、あの先輩を先輩とも思わぬ後輩を富田は結構気に入っていた。どこがと聞かれても困るが、クールぶっているくせに実は情に厚いところなどは特にいい。疑ってしまった部分もあったが、山井は一度も自分達を裏切ろうとしなかった。だから自分も、山井を裏切るようなマネはできない、例えそれが情に溺れた結論なのだとしても。
だが、
「わかった、僕らは手を組もう」
重々しく言う松村に、富田は目を剥く。
「なに言ってるんだ、松村!」
反発する富田を、松村は片手上げて制す。
「部の存続のためには、これが最善だと思う」
「そんなこと言って、お前、山井を裏切るつもりか」
「そんなつもりはない。ただ彼には、僕から申し訳はするよ」
非情の覚悟が、落ち着き払った物腰にあらわれていて富田を沈黙させる。海野は満足したように頷いた。
「いい決断ね。OK、これで私達はパートナーとなったわけよ」
海野は晴れ晴れとした顔でまた茶を点て始め、固めの杯ならぬ固めの椀と称してそれを二人に差し出す。松村にとっても富田にとっても、それはやはりただ苦いだけで、少しもうまいと思える味ではなかった。
そして海野にとっても――。
この大事業計画決行を生徒会役員達に告げた海野は、彼らのこの大忙しの時期になぜそんなことをしなければならないかという反発を説き伏せ、必要な機材を調達し、翌日から早速計画をスタートさせた。
それは生徒会長としての日々の仕事をこなし、超研部の展示内容について具体的に煮詰め、その合間合間に資料室を片付けるための作業を進めるという超人的な激務で、常人ならたちまち滞らせて破綻させるであろうそれら仕事を、海野はぐち一つこぼさず黙々とこなしていた。
この時海野が見せた気迫と集中力は後々まで生徒会の語り草となり、海野の周囲にいる生徒会の面々や、手伝いのため生徒会室に出入りするようになった超研部の面々にまでそれは伝染して、スチームローラーが横たわる障害をすべてを押し潰して驀進するごとく、事態はゆっくりではあっても確実に一定の方向に動き始めていた。
しかし生徒会室で行われている大事業の進行は秘密にされていて、生徒の大半は海野たちがしていることを知らなかったし、まして超研部が生徒会と手を組んだことなど極秘の秘とされていた。
それは海野の企画上の要請からくるもので、第一に山井にこのことを知られてはならないという配慮と、学内の注目をあくまで山井に向けておかなければならないという必要性からそうすることが決められていた。おかげで松村たち超研部員は人目を忍んで生徒会室に出入りし、人目を忍んで資料室の奥で黙々と作業に明け暮れていた。
そのおかげで日々ハードなトレーニングに明け暮れる山井へ向けられた学内の注目がよそへ向かうことはなかったが、山井のほうはなんやかやと理由をつけて松村たちが自分のサポートを離れてしまったことに疑問を持ってはいた。その代わり、やたら意気込んでいる桜井がサポート用員についてくれたので不便を感じることはなかったのだが。
それにしても――。
放課後のトレーニングを終えた後、自前のデジカメに向かって念を送る実験は一向にはかばかしい結果を見せる気配もなく、わかっていたこととはいえ山井の徒労感はつのるばかりである。
それは傍で見ている桜井も同じで、真面目に考えれば意味不明効果不明の一連のトレーニングにつきあわされることにいつ嫌気をさされてもおかしくはなかった。けれど桜井は嫌気など感じてもいないようで、狂ったようにハードトレーニングを続ける山井を献身的にフォローして、おかげで山井は何のアクシデントにも見舞われずに済んだ。
「頑張りましょう、山井君ならきっとできます!」
ただの励ましなのか心から信じているのか、桜井はことごとに山井に言う。そう言ってくれる人のためにも、山井としては何とか、かすかなものでもいいから成果を出したいのだが、それすらままならない。
天道是か非か。そんな言葉が頭に浮かび、山井はそれこそ天に向かって叫びたくなる。なぜ天はあの女の横暴を野放しにしているのか、なぜあの女を誅する力を我に与えないのか。手を突き出して夕暮れ空に答えを求めてもそれは与えられるはずもなく、ただ校舎最上階に明かりの灯った生徒会室が見えただけである。
――あの女は、あそこで自分を見下ろしせせら笑っている。
やりきれぬ思いは、雲のように湧き出て彼の心を曇らす。それでもそんな思いに囚われて己のすべきことを見失うことはできない。山井は唇をかみ締めてトレーニングに戻る。
しかし実際のことを言えば、海野には山井をせせら笑う余裕などなかった。連日閉門ギリギリまで学校に居残り、PCに向かって作業を続ける海野は、山井同様体力と精神力の限界に挑もうとしているかのようで、近頃はさすがに疲労の色を隠せない。
といって海野が自分から疲れたなどと言うことはなく、ただ仕事の合間合間に窓辺に佇んで下を見ていることが多くなった。そういうとき、視線の先には必ず山井の姿があって、無言で物思いに耽っているかのような海野の姿は、山井が被害妄想的に思う『見下ろして』とは懸け離れて、寂しげな悲しげな、言いがたい雰囲気を醸していた。
それは文化祭をちょうど一週間後に控えた水曜日の放課後、その日は朝から秋口とは思えぬ肌寒さで、曇り空が厚く空を覆って嵐でも来そうな気配だった。
生徒会室では仕事の追い込みで無駄口一つ叩かれず各々が作業に没頭している。その中でも海野がパソコンのキーを叩く音はひときわ高くテンポ良く室内に響いている。
それを掻き消すように、突如雷鳴の音が響いた。それと同時に、室内の照明がふっと消える。
「あ」
と誰かが声を上げる間もなく、照明はまたたきと共に明かりを取り戻す。雷による停電は、ほんの一瞬で回復したらしい。
けれど、
「ああ、もう!」
と、海野が声を上げて机を蹴っ飛ばした。理由など、居合わせたものにはすぐわかる。
「大丈夫でしたか、会長」
荒木の声に海野は首を横に振る。
「大丈夫じゃない、二時間分の作業が台無しになったわ」
海野は悔しそうに言って目の前の液晶モニタを見る。そこには不意のシャットダウンから再起動を始めたデスクトップパソコンが吐き出す文字列が次々と浮かんでは消えていく。
「こういうことがあるからデスクは困るんだけど、ノートは画面が狭くて使いづらいし」
呟いた海野は背もたれにのけぞってうんざりしたように天井を仰ぐ。
「データセーブはしてなかったんですか?」
「夢中になって忘れてた。やれやれ、肝心要の部分のプログラムが飛んじゃったわよ。ま、また入力しなおせばいいだけのことなんだけど」
それだけのことをひどく大儀そうに言う海野。荒木は心配げに言う。
「そういうときは開き直って、もう帰っちゃったらどうです? そのほうが明日からの仕事がはかどるかもしれないし、会長ここんとこずっと早出の遅番だったんだから」
「そうね、それはもっともな意見ね」
気だるそうに応じた海野は、と言ってすぐには決めかねるらしく、しばらく天井を見上げたまま瞑目していたが、いつのまにか降り出していた雨の音に気づいて視線を窓に向ける。暗い空から落ちる雨が世界を水浸しにしていく様は陰鬱で、海野の心境をますます冴えないものにしようとしている。
そんな中、雨音の向こうから聞こえる微かな人の声が海野の耳と心を捉える。立ち上がり、窓辺に立った海野はグラウンドを見下ろす。雨に濡れたグラウンドに人の姿はない。海野は声の聞こえてくる方向を見つめる。プールの端に、緋色の花を咲かせたように傘を差した誰かが立っている。声は、その傍らのシャワー施設から聞こえてくる。
海野は、たまらず吹きだしそうになる。聞こえてくるのは、海パン一つ姿で水に打たれる山井が大声で唱える般若心経なのであった。この寒さで雨も降っているというのに、まさしく真性のアホを見る思いで海野は目を見開く。
あの男はいったいどこへ向かおうとしているのか? 生じる思いはしかし海野にとって不快ではない。
「会長?」
海野の横顔を覗き込んだ荒木は、冷笑とも憐憫ともつかぬ表情をそこに見た。見られていることに気づいた海野は、さっと表情を引き締め急に荒木を振り返る。
「気分転換にちょっと出てくるわ。どうするかはそれから決めるから」
言い置いて海野はさっさと生徒会室を出てしまう。荒木は返事する間も与えられず、ぽかんとその背中を見送っただけである。
プールでは、山井の唱える般若心経が雨音水音を掻き消しながらひたすら続いている。雨に濡れたグラウンドには人っ子一人姿はなく、いつもなら騒音公害扱いされるその大声にクレームがつくことはない。
傘を差してプールサイドに立つ桜井の視線の先には、雨に吹きつけられシャワーに打たれ、体を震わせつつ行を行う山井の姿がずっと捉えられている。かれこれ三〇分近く水にさらされた山井の体からは血の気が引き、顔は青ざめ、気力と体力の限界を迎えつつあることは桜井の目にもわかる。
しかし当人である山井は、全身に震えがこようと声がかれようと一向に行を終わらせようとしない。桜井の眼には見えぬが、山井の内側に燃える暗い炎、海野への憎悪と闘志が彼に限界以上の力を求めて燃え盛っている。その炎が発する熱が、冷え切った山井の身体を支える原動力となっているのだった。
けれど吹きつける風の冷たさは、その炎さえ吹き消して山井に屈服を強いる。山井は、足をひきずるようにしてシャワーから出る。桜井はすぐに水を止め、彼の身体にタオルをかける。小刻みに息をついていた山井は、消耗と寒さに耐えかねその場に屈みこむ。歯を鳴らしていなかったのはこの男最後の強がりだっただろうか、桜井は雨と風のしのぎになろうとできるだけ間近に立つが、その時、やってくる誰かの気配に気づく。見ると、あろうことか会長の海野が、プールサイドに入ってくるではないか。
「海野さん……」
桜井が漏らした呟きに山井も顔を上げる。海野は二人の驚きの視線にも躊躇なく近づいてくる。
「この雨の中、大変ね」
どちらに向けたのかしれないが、海野は最初にそんなことを言う。
「何しにきやがった、この陰険女」
山井が敵意むき出しに応じるのを、海野は無言で受け止める。そして手に提げた白いビニール袋を差し出す。
「……これを」
「……?」
「食べなさい。体が温まるわ」
山井は驚きに我を忘れたように言葉もなくその袋を見つめた。中に何が入っているのか、袋は一杯に膨らんでずしりと重そうであった。
「敵の情けは受けねえよ」
そっぽを向いて山井は言う。ふてくされているようにも見えるその態度。それを海野は、物静かな瞳でじっと見つめていたが、やがて、言う。
「……頑張りなさい、でも体だけは壊さないように」
口に出された以上の感情が、そこに込められているのを感じて桜井の胸はざわつく。山井は何を思っているのか、そっぽを向いたままでいる。
海野はぶら下げたビニール袋を桜井に向かって示す。受け取っていいものか一瞬迷ったけれど、結局桜井は受け取る。袋の中身は、近くのコンビニで買ってきたらしい温かい飲み物と中華まんがどっさり。
そして海野は何の未練も示さず去っていく。その背中を見送りながら、桜井は海野が今度のことでどんな結末を望んでいるのか、考えてしまう。
それから生徒会室に戻った海野は、どこで何をしていたか誰にも話すことなく机に戻り、当たり前のように仕事にかかり、結局その日も、最後まで残って仕事に励んでいた。
そうして時は刻々と過ぎていき、超研部の面々は、あるものは資料室で、あるものは部室や生徒会室で、時が過ぎるのを忘れる忙しさに追われていた。
そんな彼らだが、山井に対する罪悪感めいた感覚を忘れたことは一時もない。基本桜井にまかせっきりの山井のサポートも、手がすいたときがあれば手伝うし、何かにつけ気を回すようにして彼を放置したりはしていない。でもそれは彼に背を向けた自分たちの意図を気取られないようにする欺瞞でしかなく、後ろめたさをつのらせるばかりのことであった。
それにしても真相を知らされた時、山井は果たして怒り出さずにいてくれるものだろうか? そんな疑問が当然のこととして皆の胸中に横たわっている。怒らないほうがおかしい、と、皆は思っている。なにせ山井は、海野流の、利用できるものは徹底的に利用する、骨までしゃぶりつくすまでに、という非情な手口の犠牲者になっているのだ。しかし松村だけはその点ひどく楽観していて、自分が必ず彼を説き伏せてみせるなどと言っている。その自信がどこからくるのかも一同にはわからない。
そうしていよいよ文化祭を翌日に控えた火曜日。その日は授業も行われず、文化祭に向けた総仕上げに学校内は朝からおおわらわとなっていた。
松村たちも今日ばかりは海野の手伝いから解放されて、夕方まではそれぞれのクラスの活動に参加し、それ以降は部のほうに出て学内に泊まりこんで作業する予定になっていた。
山井はクラスの活動などすっぽかして武道場で早朝から座禅を組んでいるという。最後の最後まで、山井は己の目的を投げ出すつもりはないようだった。
松村たちは、海野の指揮下で作成された掲示物や展示品を夕暮れごろから部室に運び込み、地学室は学習の場からはイベント会場へよそおいを変えていく。大変な仕事だけれど、皆で深夜まで学校に残って作業するなんて一年に一度のことだけに、楽しみも大きく室内はにぎやかであった。
山井が部室に戻ってきたのは、皆が晩飯にコンビニの弁当を食べていた夜の八時過ぎ、作業はまだまだこれからが佳境というころであった。部室に入ってきた山井は、足取りはおぼつかず意識も朦朧とさせているのか、様相を一変させている室内や進行途中の作業現場など気にもとめず、一同が群れているところへ来てへたりこむ。
「ど、どうした、山井?」
富田がびっくりした様子で尋ねる。
「……お、俺にも何か食わせてくれ。とにかく腹が減って腹が減って……」
その求めに応じて差し出された弁当を山井はたちどころに平らげる。座禅の効果を高めるため一日以上飲まず食わずで過ごしていたとかで、山井はすぐ二つ目の弁当を要求する。
「で、首尾はどうなんだい?」
山井が人心地つけたらしいところで松村は聞いた。ここまでずっと繰り返されてきた特訓の成果は、彼に何をもたらしたのか。山井はちらと松村に視線を向けて、
「やるだけのことはやったさ、まかせておけ。今からその成果を見せてやる」
と松村たちが離れているあいだに奥義開眼したかのような態度で言う。まさか、という思いが皆を捉えた。
早速、デジカメが山井の前に持ち出される。あぐらをかいて座っていた山井は、深呼吸するとすっと目を閉じる。そして今回はいつになく長く、じっと微動だにせずカメラに念を送り続けていた。座禅の効果なのだろうか、沈思する山井から滲み出る気が、周囲を浸すように満ちて室内の静けさを増幅させていき、渦を描きながらカメラの中に注ぎ込まれていく――。
「いいぜ。何が写っているかは、お前らの目で確かめてくれ」
やがて顔をあげた山井は、どこまでも揺るがぬ口調で告げる。ざわめく感情に急き立てられて冨田がカメラを手に取り、せわしなくメモリに記録されたデータを確かめる。
だが――。
「なんにも記録されちゃいないぜ?」
困惑した顔で富田は言う。山井の自信とは裏腹に、カメラの液晶は壊れてしまっているかのように黒い画面をさらし続けるだけであった。
「……ふふ、そうか、やっぱりダメか」
山井はおかしがるように笑った。その笑いの中に濃厚にあらわれた自嘲の成分。そして山井は戦に破れた兵士のように、がっくりと肩を落とした。
「……悪い、ここまでみんなにはさんざん面倒かけたのに、俺はやっぱりお前らの助けにはなれそうもない」
松村と富田は顔を見合わせた。集める期待の大きさを理解している分、それに答えられなくて申し訳ないと思っているのだろうが、こんな山井を見るのは初めてのことだった。
「どうしたどうした、そんなこと言うなんてらしくないぜ?」
「そうとも、元々前人未到の境地に挑んでたんだ。簡単に成し遂げられることじゃないのはわかってた。侘びを入れる必要がどこにある」
虚飾ではなく、二人は真から思っていることを言う。山井もそれがわかるだけに、やり切れなさはますます募るようで、悲しげに首を横に振る。
「……結局俺は、みんなに何もしてやれなかった」
「いいさ、そんなことは」
気安く言って松村は山井の肩を叩く。
「だが……」
「借りっていうことにしておくよ。いつか返してもらうさ」
そう言う松村の言葉は、ことさら優しげに聞こえた。借りの返済を、すぐに求められることになると知るはずもない山井は、それでふっきれるものがあったらしい。ひとつふたつと頷いて、顔をあげ室内を見渡す。
「で、こっちは俺に気づかれないようにして展示の準備をしてたらしいが、これがそうなのか? いったいどんなコンセプトを思いついたんだ?」
「山井君、気づいてたの?」
矢口が驚き顔になるのを、山井はむしろ呆れ顔で見返す。
「気づかないわけないだろう? 俺の面倒見役が桜井さん一人になった時からお前らが何か違うことを始めたのは気づいてたさ。何も言わなかったのは俺にはするべきことがあったし、お前らがしたくてすることに口を挟む権利もないと思ったからだよ」
含むところなく陽気に言う山井に、一同は感じていた負い目を多少は和らげる。
でも松村たちが誰の指示で動いていたかを知った時、山井のその寛容さがまだ保たれるのかどうか、そこまで自信が持てるものはない。
「そんなことよりどんな企画で展示を出すのか、それを教えてくれよ。今からでも少しは役に立てるかも知れない」
「……ん、ああ」
求められて松村はわずかにためらう様子を見せたが、十数ページの企画書を差し出す。そのタイトルに視線を落としたところでまず山井の動きが止まる。けれどそれは一瞬のことで、ぺらぺらとページをめくりすばやく読み進めていってしまう。
そして最後の項目のところで再び山井は動きを止める。今度はひたすら長く。
「……これを俺にやれっていうのか?」
顔を上げた山井の瞳に、怒りのエネルギーが燃えているのを松村は見て取った。けれどたじろぎはしなかった。
「そうとも、君がしてきたことを無駄にしないために、必要なんだ」
迷いなく言われてむしろ山井のほうがたじろいだ。松村の言うとおりではあったが、自分の役どころがこんな風に変えられるなど、思ってもみなかったのだ。
「この企画を考えたのは誰だ? お前達じゃないんだろう?」
発想の大胆さ、構成の緻密さ、そしてそこはかとなく感じる悪意。どれをとっても練りに練られていてとてもこの場にいる誰かに出せる案ではない。
「……生徒会長の、海野さんだよ」
静かに告げる松村。言葉もない山井。その沈黙が、山井の受けた衝撃を物語っている。
「山井君、これには深い理由があるんだ」
放心した山井を揺さぶり起こそうとするごとく松村は切り出す。しかし何からどう切り出せば良いのか、松村もわかっているわけではない。口から出るのは、ひどくしどろもどろで支離滅裂な言葉。横で聞いている富田は、松村が山井の説得は任せろと見栄を切っていたのを知っていただけに落胆してしまう。
「ふ、ふふ……」
激発の予兆なのか、懸命の説明を続ける松村を前に山井が笑い声を漏らす。
「つまりお前らは、俺よりもあの女を頼みにしたわけだ」
「いや、そういうわけでは……」
自分たちのしたことが裏切りと捉えられても仕方がないのは松村もわかっている。あの女会長に一矢報いることは、いつか共通の目的になっていたからだ。
「ただ僕も、部長として部を存続させるために必要なことはすべてしておかなければいけない立場だったんだ」
それを聞いて山井はまた一つ笑う。全部言い訳に過ぎない、そう言われているような気が松村はした。
「じゃあ俺にこんなピエロを演じさせようっていうのはあの女の企みか」
「……ああ」
苦渋に満ちた思いで、松村は頷きを返す。もし山井が怒り出したら、松村は土下座でも何でもするつもりでいた。松村が見せていた説得の自信というのは、結局言葉によるものでなく、蹴られようが殴られようが貫き通す誠意でしかなかった。だがみっともなくともかっこ悪かろうとも、人間最後に示せるものは、それしかないではないか――。
ふう、と大きく息をついて、山井が立ち上がった。果たして何をされるのか、松村は身を強張らせる。
けれど山井は、手にした企画書を松村の胸に押し当てる以上のことはしなかった。
「わかったよ。ここまで何の役にも立てなかった俺だ。最後くらいは役に立ってみせるさ」
嫌々かもしれない。割り切れてもいなかっただろう。でも山井は、それを感じさせぬ明るい口調で言い切った。
松村の顔がぱっとほころぶ。山井が、海野が言っていたように打倒海野の念に駆られて本来の目的を見失っているわけでないのが、なにより嬉しく有難かった。
そんな松村に山井が指を突きつけて、言う。
「だがな、これで貸し借りはなしってことにしてくれ。いつもいつもこんな使われ方をされたんでは、たまらん」
「……ああ、わかってる」
釘をさされて松村は苦笑する。綱渡りを強いられているようなこんな人付き合いの仕方は、彼のほうでも御免こうむりたかった。
そうして文化祭当日。
超研部の部室前には、早々と人の列が出来上がっていた。なにせ文化祭前からあれだけ校内の注目を集めていた彼らだけに、前評判だけで相当なものになっていたのだ。
部室の入り口には看板が大きくかがげられ、そこには、
「これがインチキの手口だ! オカルトにおける捏造の歴史展」
と人を圧する勢いで書かれている。これだけでもなかなか人の好奇心をそそるものがあった。
このタイトルを最初に見たとき、自分に対するあてつけのように山井は感じた。海野にそんなつもりがあったかどうかは本人に聞くよりないが、そういう毒気こそ海野の主成分なのでたぶんそうなのだろうと山井は思う。
そして中に入れば、古今東西の怪奇不思議現象、事件、存在の実例が集められている。
例えば十九世紀のイギリスを驚かせた写真に写った妖精の事件。それを生み出した当時の時代背景、仕掛け人の生い立ちや動機、実際のカメラトッリックの数々などが実演混じえて詳細に展示してある。
他にも湖に生き続ける恐竜、超古代文明が遺したとされる工芸品、宇宙人の解剖映像などなど、誰もが一度は聞いたことのある話を縦横にぶった斬ってそれらがとるに足らない虚像であることを暴き出している。
自己否定にさえ繋がりかねない超研部の大胆すぎる展示は、参観者の意表をついてここだけでもすこぶる好評であった。
そして特に皆の注意を惹いていたのは、最奥の隔離されたブースで行われていた、
「神秘か禁忌か、驚異の降霊実験! あなたはオカルトの深淵を体験する!」
という展示である。
インチキを暴くのが趣旨の展示で、ここだけなぜかその趣旨から外れているというのもそうだし、純粋に降霊術の実演というのが参観者の好奇心をくすぐってやまない。
順番待ちしている女子の一群を、部員が五人ほど中に導いた。ブース内は窓に暗幕が張られ薄暗く、床には巨大な円と五芒星が描かれ、壁際の長机には神棚が置かれ注連縄がまかれている。
その独特の雰囲気に呑まれた女子を、神職姿の山井が迎える。
「この世とあの世の狭間へ、ようこそ」
そう言って山井は床の円周上に置かれた椅子に彼女らを導き、おもむろに語りだす。
「さて、あなたがたはここまで偽られた物事、人を欺くために虚構で塗り固められた事例を見てきました。しかしオカルトの全てがあのような嘘にまみれているということはもちろんありません。あなたがたがここでこれから体験することは、偽りのない真実、虚構を排した現実であるということを、よく理解しておいてください」
そこまで言うと山井は深々と一礼する。
「では、私が体得した延喜式による降霊術をこれからご披露したいと思います。この延喜式というのは神道と密教を融合させた大変格式高いもので会得するには大変な修行を要するのですが、この数週間に及ぶ苦行の末、私はそれを体得したのです。その修行のことは、皆様もご存知のことと思います」
聞いていた女子の一人がごくりと生唾をのんだ。山井が狂ったようにトレーニングに励んでいたことを学内に知らぬものはない。あれはこのためだったのかと合点がいったのである。
「これから私は、あなたがたにゆかりのある霊を呼んで、それを写真に捉えたいと思います。ですが私の術もまだまだ未熟で、呼べるのは一体だけ、どなたの霊を呼ぶか選ぶこともできません。よって誰に、どんな霊が現れるかは成り行き任せの運任せ。そして写真に写るのはあなたの気を良くさせるものとは限りません。どうか皆様、それでも眼を逸らすことなく写されたものを見て頂きますようお願いします」
そして山井はまた一礼。頭をあげたところで女子の一人が手を上げる。
「質問、いいかな?」
「なんでしょう?」
「どうして写真なの? 目では見えないわけ?」
「霊感の強い人なら見えるでしょうが、普通の人にはまず見えないから写真に捉えるのです」「怖いことにならない?」
「なりません。ちょっと写真に撮るだけですので」
質問が終わると、山井は術に入るため彼女らの目を閉じさせる。鈴の音がして、山井が読経を始める。最初は静かに、徐々に力強く、ところどころにこぶしを利かせて、大僧正さながらの調子である。なにしろ山井は、ここのところずっと経文を唱え続けていたのだからこれぐらいは当たり前にできてしまう。
そうして経を唱え鈴を鳴らしつつ彼女らの周囲をぐるぐるまわっていた山井だが、最後に大音声の喝を入れて終わりとし、彼女らの眼を開けさせる。なにか変わったことが起きているということは全然ない。やや拍子抜けの顔をする彼女らに山井は起立を促し、すかさずデジカメのシャッターを切る。
そのカメラを三方持った部員が受け取りに来る。うやうやしく三方でカメラを受け取ると、彼はすぐブースの端っこに置かれたノートPCにデータを取り込み、プリンタで印刷を始める。それを横目に、山井が話し出す。
「なかなか、興味深いものが写っていると思います。どのようなものかはご自身の眼で確かめていただきますが、写っているものについて深刻に考えていただく必要はございません。所詮は学生の文化祭での余興です。見飽きたら破り捨てるぐらいの感覚で、しかしゴミはゴミ箱へ。決してポイ捨てはしないでください」
戯言っぽく話しているうちに印刷は終わる。山井のトークも終わりに近づく。
「さて、これで儀式は終わりです。出来上がった写真は退室の際にお受け取りください。またいつか、私の霊能力を皆様にご披露できるときがくれば、はなはだ幸いに存じます。本日は超常現象研究部の展示にご参加くださり、まことにありがとうございました」
そうして彼女らは退室していき、最後に封筒に入った写真を渡される。廊下でさっそくそれを開いた彼女らは、取り出した写真を見て悲鳴をあげる。
――写っていた。最前に立つ女子に寄り添うように、不気味なまでに無表情な老婆の姿が。しかも老婆の姿は上体だけで、腰から下は霞のように消えて写っていない。
その女子だけでなく、その場の誰もそんな老婆に心当たりはなかったから、こんな写真はニセモノだと決めつけたいのが本当のところであった。しかし、知らないからといって自分に無縁であるとは限らない。彼女らは深い混乱に落とし込まれて、しばらく廊下に立ち尽くしていた。
この降霊実験は、たちどころに校内の話題をさらった。
――そんな写真はニセモノに決まっている。デジカメで撮ったならデータに手を加えるのは難しくないし、そもそもインチキを趣旨にした展示なんだぞ。
そういう者がいれば、
――いや、データに手を加えるのだっていうほど簡単ではないし、印刷するところを見ていたが細工をしている様子がなかった。インチキが展示の趣旨というが山井がこれに偽りはないといっていたじゃないか。
そういう者もいる。
横道に逸れた議論の中には、もしインチキなら山井が行っていたあの激しい特訓の数々も演技ということになるがとてもそうは思えないなどというのや、本当に霊を呼んでいるなら写真にしか捉えられないのはおかしいとか、というかそもそも延喜式って昔の律令制度の名称じゃなかったっけ、とか、意見は百出して容易にまとまりそうもない。
マメな者は問題の写真を集めて検証を行ったりもした。合成なら何がしかのパターン、最もわかりやすいのは同じ霊が複数の写真に写っていたりとか、そういうのが必ずあるはずという推測を立てたのだ。
だがこれも無駄だった。十枚近く集めて比較しても同じ霊が写っている写真は一枚もない。
こうなると皆お手上げで、信じたくはないが修行で霊能力を開眼させた山井による真実の降霊だったのだという見解に学内が傾き、山井の超能力に驚嘆の声も聞こえ始めた文化祭初日の夕方ごろ、インチキがばれた。
ついにというか何というか、違う写真で同じ霊が写っているものが見つかって、合成だということがはっきりしたのである。
「ふふ、我ながら今度の文化祭は大成功だったわね」
文化祭が終わった翌日、生徒会でささやかに開かれた打ち上げの席で海野は満足げに呟いた。その言葉に誇張はなく、今回の文化祭は大盛り上がりで学外来場者からの評価も高かった。しかし海野が特に誇らしく思っているのは、彼女が企画した超研部の展示についてであることは言うを待たない。
「ほんと、今回はすること多すぎで倒れるかもと思ったことが何度かあったけど、万事うまく運んだから良かった。終わってしまえば、そういうのもみんないい思い出」
荒木もしみじみと相槌を打つ。それを松村や富田、それに超研部の面々も聞いている。今度の文化祭では共同戦線を張ったもの同士、それにこれからしばらくはお隣さんとして顔を合わせていく間柄だからということで彼らもこの場に呼ばれたのだった。
そう、超研部は今度の文化祭で見事にコンテスト七位入賞を果たし部の存続と部室ゲットを決めたのだった。彼らがどれほどそのことを喜んだか、そのことも言うを待たない。
しかし、彼らの中でも山井の表情だけは冴えない。海野の策に踊らされ、しかもその策がことごとくきまるのを見せつけられたのだ。思い知らされるのは自分の不甲斐なさばかりという心境であった。
「でもあんな忙しいのは二度と経験したくないっていうのが本音かな。松村君たちはどう?」
「確かに」
荒木に水を向けられて松村は苦笑しつつ応じる。
「でも僕らは忙しいのより文化祭初日の、山井君の儀式がインチキと知れた後どうなるか心配してるほうが精神的にきつくて、あれこそ二度と経験したくないってのが本音ですよ」
「はは、そうなんだ。山井君もそうだった?」
「……そんなことはない。それよりインスタントカメラを持ち込んで、それで撮ってくれと頼む手合いが出てくる場合を心配してた」
「ああ、なるほど」
「……今時そんなもの持ってるやつはいないわよ」
駄菓子をつまみながら海野が独り言めかして呟く。インチキ写真印刷の際に使われた全自動画像改変プログラムを組んだご当人だからなのか、海野はデジタル全盛の現代を見極めているような口ぶりである。
「それにしても会長もよくあんなソフト作りましたよね」
「あんなのはフリーの画像編集ソフトをちょいちょいって改造しただけで、たいしたことじゃない。合成するお化けのデータを揃えるのは大変だったけどね」
「そうそう、俺らがその手の本から使えそうな写真を探し回って」
「最低でも五十は用意したいっていうから、使わなかったのも含めれば二百枚以上の心霊写真を集めたはずだよね」
「ああ、一生分の心霊写真を見た気がするよ。正直もうゴメンだと思ったね」
「そんなの、私だって同じ。っていうか私のほうが何倍も強く思ったことよ、それ」
海野が言って皆が笑う。
つまり、こういうことなのだ。あの写真は印刷の際使われたノートPCにトリックがあって、読み込まれた画像データに自動で合成処理をかけるプログラムが走らされていたのだ。合成されるのは事前に集められスキャニングされていた幽霊画像で、これは超研部員達がその種の本を手当たり次第に漁って集めた。それはプログラムによってランダムに選ばれ合成処理されるのだが、その数が少なければすぐ見破られるので最終的には七十を超える合成用データが作成され用いられた。そしてブースに描かれていた五芒星と円もこのトリックに貢献するための仕掛けで、円と頂点が重なるところにあった椅子は人物と幽霊の位置を合わせるために置いてあったのであって、あの降霊実験は、そうした諸々のトリックによる目くらましでインチキを誤魔化していたに過ぎないのだ。
しかし、いずれインチキと露見することは当然予測されていた。が、そのこと自体はさほど心配されていなかった。なにせ展示の主題そのものがインチキについてなのだ。実際、インチキを知った観覧者の大半が、なるほど、人をペテンにかける手口とはああいうものかと納得したぐらいで、看板に偽りはない。とはいえインチキとバレた後でも客足が続くかどうかは真面目に心配された。が、蓋を開けてみればそれは杞憂に過ぎなかった。文化祭二日目になっても、それはそれで見てみたいという客が大勢押し詰めて、展示は大盛況だったのだ。
この企画はすべて海野がプロデュースしたなどと知りもしない生徒達は、文化祭前の激しい修行に明け暮れる山井の姿を思い返して、あれさえ計画に沿った話題づくりであり、目論見どおり超研部を廃部の危機から救った鬼才として、ますます山井に対する畏敬の念を強めていた。
無論山井にすればそんなのは、「冗談じゃない」ということになるのだが、今回ほぼ何の役にも立たなかった自分を思うと黙っているよりすべがない。
「それにしても、あてがわれた部室が隣の資料室とはね。物置じゃねえか、あんなとこ」
どこまでもお荷物扱いされているような気がして山井はぼやく。それを聞きとがめる荒木。
「あら、今じゃそこそこ片付いて少しは場所もできてるのよ。そっちを手伝ったことのない山井君は知らないでしょうけど」
「そうそう、僕らの苦闘の甲斐あって、とりあえず何とかなる使えるぐらいの場所は開けたんだ。作業を続けていけば場所はもっと空くしね」
「うんうん。自らの居場所は自らでつかみ取る。生徒の自主とはこうでなくちゃね」
頷きあう荒木と松村を横目に、馬鹿馬鹿しいと思わずにいられなくなる山井。知らない間に張られていた共同戦線は、知らない間に不倶戴天の敵同士であるはずの生徒会と超研部に妙な友誼関係を結ばせたようだった。その産物の一つがあの展示だとすれば、もう一つは――。
「……で、お前らが作ったという閲覧システムというのをちょっと見せてくれ」
「はい、こちらにどうぞ」
桜井が隅のデスクトップに山井を招く。モニタの前に座った山井の横で、桜井がささっとマウスを動かしてアプリを立ち上げる。画面に幾つかのメニューが表示されると、桜井は選択を進めて画面にはほどなくいくつかの文書画面が現れる。
「へえ」
と、山井も思わず感嘆の声を漏らす。表示されているのは、かつての生徒会が作成した諸々の資料、文書の類。それがスキャンされ取り込まれパソコン上で簡単に閲覧できるようになっている。
「どう、たいしたもんでしょう?」
荒木が誇らしげに言う。その言葉どおり、これはたいしたものであると言えた。
これこそ、生徒会と超研部の共同戦線が産んだもう一つの成果、そして海野に言わせれば今度の文化祭で自身最大の事績と胸を張る生徒会過去文書閲覧システム――。
海野が言っていた資料室の整理とは、つまり電算化であり資料の電子化であった。
資料室に溢れかえり整理も行き届かず積まれたままになっている各種もろもろの文書類。それをいくら整理しなおしても文書などというものは次から次へと作られるし、いろいろな人が来て見て触れていくからすぐもとの乱雑な状態に戻ってしまう。
それならば整理が不要で、どれだけ追加しても場所をとらず、検索も容易な電算システムを構築するのがもっとも理想的、ということになる。
もちろんこれはそう簡単な話ではない。まずそのためのコンピューターシステムを用意しなければならないが、そんなものは普通売っていないし、業者に作ってもらえばウン十万とお金がかかる。
だがこれは海野が市販のデータベースソフトを使って自分で作ってしまった。心霊写真の件でもそうだが、海野はプログラムを組むのはわりと得意なのである。もっとも、そうでなければ海野もそんなこと考えつかなかっただろうが……。
そして最大の問題は、膨大な量の過去文書をパソコンに取り込む手間であった。しかしこればかりは正面突破するしかない。これは生徒会と超研部による人海戦術で望むしかないと腹をくくっていた海野だが、生徒会の面々がこの忙しい時期になぜそんなことを、と最初反発したのは既に書いたとおりである。
作業は超研部の面々が資料を分類ごとにドキュメントスキャナでひたすら取り込んでいき、荒木たちがそれをチェックし閲覧用ファイルに変換していき、海野がそれをデータベースに組み込んでいくという流れで行われた。これは思っていた以上に地味かつ根気を要する仕事で、しかもはかどらなかった。
忙しい時期に、本来する必要もない仕事をさせられて生徒会の面々が愉快であったはずもない。しかしそれに加えて超研部の展示準備まで行っている海野を前にすれば文句など出てくるはずもなく、むしろ海野の負担を減らせるよう積極的に働いてついに彼らは超研部の存続と部室の確保という戦果を勝ち得たのである。
山井がデータベースをいじくりながら、自分がかつて作成した文書をモニタ上で眺めていると、
「これのシステムはそこの外付けハードディスクに入っていて、それさえ繋げば生徒会のパソコンどれからでも文書の閲覧ができるようになるんですよ、すごいでしょう」
と、桜井が言ってくる。
「へえ」
山井は鷹揚に返事する。海野ほどではないが、そこそこパソコンも使える山井だからそんなのは別にすごくないとわかっているが、あの短期間にこれだけの仕事をしてのけた皆のことはなによりすごいと思う。
それに比べて自分は――。
「今回役に立たなかったのは、俺一人なりってか」
ついそんな呟きが漏れた。それを聞きつけた海野は、鼻で笑うように言う。
「あら、自己認識は意外と正確なのね。もっと正確に言うなら、今回も、とするべきなんでしょうけど」
山井は、その言葉に怒りもしなかった。腕組みして言われるがままで、一言の反論もない。
「いや、そんなことはない」
松村が、力強い声色で言う。山井が驚いて顔を上げた。
「山井君の助けがなかったら、僕らはたぶん何にもできずに終わっていたと思う。君が奮い立たせてくれたから、僕らはここまで来れた。僕らにとって、君は恩人だよ。もちろん海野さんも」
山井は苦笑しつつ首を横に振る。海野は取り澄まして顔を崩さずに、言う。
「でも私が助けるのは今度だけよ。来年からは自分達の力で好成績を収められるように頑張りなさい。それには日々の活動を疎かにしないこと」
「大丈夫、僕らは頼もしい新入部員を得たからね」
言って松村は山井を顧みる。一時の助っ人、仮部員でしかなかった山井が正式な部員になることを決めたのはつい昨日のことだ。自分たち三年生が係わることはできないが、来年の文化祭展示もきっと目を瞠る素晴らしいものになるだろう、と松村は思っている。だから心残りはない、はずなのだが、ほんのわずかに割り切れないものが残っている。しかし、その解決まで求めるのは欲のかきすぎというものであろう。
「はあ、それにしても今度の件では疲れたわ。もう当分キーボードに触れたくもない感じ」
しみじみ言って海野は自分で自分の肩をもむ。
「毎日遅くまでパソコンに向かってましたものね、会長」
「ほんと、指示を出してはキーを叩いて、調べごとしてはキーを叩いて、走り書きしてはキーを叩いて、私ってばこのまま生徒会室に棲みつく新種の妖怪になっちゃうんじゃないかと思ったことが何度かあったわよ」
「あはは、新種の学校妖怪タイピング娘ってところですか。オカルトが主題なだけに」
「まあでも、資料室電算化のきっかけをつかんだと思えば今度のことも悪くはないわね。やらなきゃやらなきゃと思いつつずっと後回しになってたから」
「完成にはまだまだ時間がかかりそうですけどね」
「そうね。でもとりあえず明日からしばらく生徒会の仕事もお休みよ。みんな骨休めしてちょうだい」
文化祭が終わったら皆に休んでもらうため、生徒会活動は一週間ほどお休みということになっている。海野でさえ待ち焦がれたお休み、荒木たちはいわずもがなで、さっそくどう過ごすかで話ははずむ。
「どうだろう、俺達も二三日ぐらい部活を休みにしようか。準備期間中はずっと忙しくしてたわけだし、それぐらいはあってもいいと思うんだけど」
松村の言葉に超研部の面々も沸き立つ。それを尻目に海野が、
「結構なことね。でも、できもしないことに血眼になって、何の役にも立たなかった誰かさんには休みなんていらないんじゃないかしら?」
聞こえよがしに呟いた。聞こえなかったことにする山井に、桜井は声を潜めて、
「役に立ってないなんてこと、ありませんよね」
そうささやきかける。山井は無言でじっと桜井を見返した。思えば、この子にはずっとこんな調子で気を遣わせ、あれやこれやと助けてもらい面倒をかけてしまったのだ。いい加減お礼の一つもしておかないと、バチが当たるころであった。
「本当のことを言えばね……」
「え?」
同じくささやくように言われて桜井はわずかに身を乗り出してくる。
「僕の念写能力はね、もうとっくに完成してるんです」
「え、ほんとなんですか?」
桜井は驚愕の表情になって聞き返す。疑うことを知らない彼女はたやすく釣り針にかかってくれて、山井としては話が進め易いったらない。
「ほんとですとも。理由があって表ざたにできなかったけど、デジカメに念写どころかそれ以上のことだってできるようになってるんです」
「それ以上のことって、何です?」
「……今の僕はね、デジカメどころかスマホでもゲーム機でも、デジタルの記憶媒体なら何にでも念でデータを書きこめるようになってるんです」
「そんな、まさか」
桜井は驚きと疑いと入り交じったような表情を見せる。小声になって話している二人だが、その会話は周囲にしっかり聞かれていて、富田がニヤニヤしながら山井を見ている。純朴な桜井に山井がどんなホラを吹いて引っ掛けようとしているのか、期待しているのだ。
「驚かないで。能力が強くなりすぎて誰にも本当のことを打ち明けられなかったんだけど、桜井さんには僕の本当の力を見せてあげます」
言って山井は机の上のパソコンに目を向け、立ち上がっていたアプリをすべて終了させると改めて桜井に向き直る。
「今からこのハードディスクに、念であなたへのメッセージを書き込んでみせます」
桜井が息を呑むのがわかった。山井はモニタに手をかざすと口の中で何か呟きながら目を閉じ、かざした掌を円を描くようにまわしつつパソコン本体へ向ける。その手は同じ動作を繰り返しつつやがて繋がれたハードディスクに向けられ、そこではひときわ長い時間使われて集中的に念が送り込まれる。
「OK、いいでしょう」
やがて目を開いた山井は、桜井を振り返る。
「このハードディスクにアクセスしてもらえば、僕が書き込んだデータが見れます。さ、確かめて」
山井が席を変わろうと立ち上がると、桜井はなぜかためらうような様子を見せる。
「信じてないですね。ならこうしましょう。もし僕の言うことが嘘だったなら……」
「?」
「明日学校が終わった後に、桜井さんの好きな店で食べたいものをご馳走してあげます」
そう言われて桜井はほんの少し表情を緩めた。山井の意図に気づいたのか気づいていないのか、パソコンに向かってマウスをいじりはじめる。
「見え透いた手口ねえ」
意図を正確に読み取った海野は呆れの声を出す。
ふん、大きなお世話だ。
と、山井は思う。遠慮深い桜井のことだから、お礼がしたいなんて言っても断られるかもしれないし、といって真正面からお誘いをかけるのも気恥ずかしいし、知恵を回して思いついたのがこういう誘い方だった。見え透いていようが、不器用だろうが、他にやりようもない。
根性の曲がりくねったクソ女には、男のその辺りの繊細さはわからん。
そう思いつつ一つ吐息を漏らした山井の横で、
「あれ? あれれ?」
桜井が頓狂な声を出した。やがて振り向いた彼女の顔はなぜか半泣きになっていて、
「……あの、ハードディスクにアクセスできないんですけど。接続はちゃんとされてるのに」
衝撃の事実を告げる。
「はあ? なによそれ!」
血相変えて海野が立ち上がる。明敏な彼女は、一瞬で事態の危険さを悟ったのである。
「ちょっと、見せて!」
駆け寄った海野はすぐマウスを握ってモニタに向かう。桜井が言うとおり、パソコンとハードディスクはちゃんとケーブルで接続されている。電源も入っている。それなのに、パソコン上で見えない。
「あんた、いったい何したの!」
山井をにらみつけて海野は聞く。そんな風に怒鳴られても、山井には心当たりのないことであった。
「何もしてねえよ」
「嘘おっしゃい! ハードディスクに念写するとか言ってたじゃない」
「そんなの冗談だろが!」
海野は舌打ちひとつしてマウス操作を続ける。呼び出された管理コンソール上では、問題のハードディスクが見えている。が――。
「何よこれ、未フォーマットになってるじゃない!」
ほとんど悲鳴に近い声を、海野はあげた。これは海野が想像しうる非常事態の中でも、最悪の部類に入ってくる展開であった。未フォーマットというのは、ディスクのデータが失われていることを示唆しているからだ。
そうでないことを祈りつつ、海野は接続ケーブルを二三回繋ぎなおす。しかし、何も変化はない。数秒沈思して、海野はイチかバチかハードディスクにフォーマットをかけてみる。これでディスクにアクセスできるようになるなら、まだ望みがあるかもしれない。だがその時画面に表示されたのは、フォーマットもできないことを告げる無情なエラーメッセージ。
「……このハードディスク、壊れたみたい」
絶望を吐き出すみたいに、ぼそっと海野が呟いた。室内の誰もが衝撃を受けずにいられなかった。失われたのはただのハードディスクではなく、自分達の労力と努力の結晶であったのだ。
「なんてことしてくれるのよ、あんた」
「な、なんだよ」
気迫に押されたようにどもる山井。海野は彼を睨みつけながら立ち上がる。
「ここに入ってたデータを作るのに、私達がどれだけ心血を注いだかわかってるの? それをしょーもない、くっだらないことで台無しにして」
「なんで俺のせいってことになるんだ! 単純に壊れただけだろ!」
一方的に責められることに腹が立って山井も反論する。しかし海野は少しも退かない。
「買って一ヶ月も経ってないものがそんな簡単に壊れるわけないでしょ!」
「アホか! こんなものただの機械なんだから、壊れるときは買った翌日にでも壊れるわ! だいたいこれは精密機械だ、ちょっと蹴倒したぐらいでもダメになるし、何かの弾みってこともあるだろうが! なんでもかんでも人のせいにすればいいってもんじゃねえぞ!」
「その弾みがさっきのあれだったんでしょうが! だいたいあんたが自信たっぷりに自分で言ってたことなのよ。間違いを起こしたときだけ責任逃れしようなんて、どこまで根性が腐ってるの!」
「ちょっと待て! おまえ、さっきできもしないことに血眼になってとか、俺のすること全否定してただろう!」
「してないわよ。私が言ってたのは、肝心なときには役立たないくせに、どうでもいいときにしてはいけないことをしでかすのがあんたってことよ。今度のことがいい実例、だいたいこんなことあんた以外誰ができるっていうのよ!」
「いやいやいやいや、違うだろ違うだろ。俺が言いたいのはなぜ俺のせいにするかってことでだな……」
なお抵抗をやめない山井を前に、海野はちょっと空気を変えるみたいに平静に戻した声で言う。
「OK、なら論理的に話をまとめていきましょう。そも今度のことで念写能力について持ち出したのは誰?」
「俺」
「ならその能力を鍛えれば、デジタル媒体にまで念写ができるようになるって言って、おかしなトレーニングに熱中していたのは誰?」
「俺」
「じゃあつい今さっき、ハードディスクにまで念写ができるって言って、その実演をしたのは誰?」
「俺」
「はい、じゃあ誰のせい?」
「え? 俺?」
「ほらみなさい、やっぱりあんたのせいじゃない!」
結論が引き出されると海野はふたたび声のトーンを上げる。その凄まじい断定調子にさしもの山井もたじろいでしまう。
「ちょっと待て、待ってくれ! 何でそうなる! 二三歩、いや、百歩譲って俺にも責任の一端があるとしよう。けどな、そんなに大事なデータならバックアップもとらずにいたそっちにも当然落ち度があるだろう!」
「忙しくてそこまで手が回らなかったのよ! 落ち着いたら取っておこうと思って、そうしたらこのザマ。何よ、男らしくないわね。自分の責任を棚上げするようなことばっか言ってないで、素直に己の非を認めなさい!」
「こっちの台詞だ、この女狐。調子に乗るのもいい加減にしろ!」
「なんですって、この卑怯者! だからあんたは生かしとく価値のないクズだって言うのよ! ちょっと、松村君!」
「は、はい!」
言葉の応酬が熱の頂点に達したところで呼ばれた松村は、雷鳴に打たれたように身を強張らせて返事する。海野の情け容赦ない視線がその身に注がれた。
「あなたのところの部員よ。責任取らせなさい」
「責任……、というと?」
「こいつを死刑にするのよ。さもなくば私刑、リンチのほうね」
「そんな無茶な!」
暴君さながらのその命令に松村は眼を白黒させ、山井はその横暴さに怒りを増す。
「アホか、なんでこんなことで殺されたり半殺しにされたりせにゃならんのだ。おまえのほうこそ三途の川で水浴びでもして頭冷やして来い!」
「ああ言えばこう言う、ああもう、腹の立つ! 松村君、この人間のクズに責任を取らせられないならこのことは超研部の連帯責任になるわよ。具体的に言うなら、部室の件は一切なし! 資料室は使わせないから、部室は自分達で探して来なさい!」
「そ、そんな!」
「そんなも閻魔もなし! 私のいうとおりにできないなら今すぐ部室探しの旅にでも出なさい、さあ、どうするの!」
「どうするって……」
「貴様、職権を濫用して人を脅迫するな。それこそ卑怯者のすることだ!」
「濫用? 卑怯? クズに制裁を加えるのに濫用も何もあるもんですか。そんなに私のすることが気に入らないならあんたら全員ここから出て行け!」
怒り狂った海野は、怒りにまかせて手近にあるノートやらシャーペンやらを投げつけ始める。ヒステリーを起こした女に理屈はもはや通用しない。山井は一つ舌打ちすると全面撤退、生徒会室からの逃走を決行する。廊下に飛び出した際、
「へ、バーカバーカ、厚く塗りすぎた化粧が厚すぎる面の皮と一体化して表情を変えられなくなった顔面複合装甲板女、対戦車ヘリに撃たれて死んでしまえ!」
メンタル小学生丸出しの捨て台詞を室内に叩きつけて走り出す。海野の金切り声が背後で聞こえたが振り返ることはしない。階段を駆け下り踊り場を抜け、下足箱のところで立ち止まり背後を確かめると、追手こそなかったが部屋を叩き出されたであろう超研部の皆がどたどたと自分の後に続いているのに気づいた。
「……追い出されたか?」
乱れた呼吸のまま聞くと、富田が頷く。
「もうすげえ剣幕よ。あれは年喰ったらすさまじい鬼婆になるぜ」
「うん、あの血相で追いかけられたら悲鳴をあげるよ、間違いなく」
「海野は美人だけど性格のキツさが顔に出てるからな。怒ればなおさらだ」
そんなことを話しながら皆で呼吸を整える。ひとまず虎口を脱した安心感からか、海野の悪口でしばらくは盛り上がれそうだった。けれど人心地ついてから、田畑がぽろっと、
「けどしばらくは部室に近寄れないぞ。どうする?」
言い出して皆黙り込む。海野のあの剣幕では冗談でなく資料室を部室にくれるという約束はなしにされかねない。そうなればこれまでのことは何のためにあったというのか――。
「……悪かったな。俺が余計なことしたせいで、お前らの苦労を台無しにしちまって」
自分に責任はないが、非ならちょっとあると思っている山井。果たして誰が悪いのか。判断のしようがない皆はどう応じていいかわからず、困惑する様子だけを見せる。すると松村が、一人笑い声を上げ始める。
「いや、これでいい。これでいいんだよ」
意味がわからず山井は松村を見返した。松村はおかしくてたまらないという風に笑いながら、
「ぶっ飛んだHDDのデータなんて、また一から作り直せばいい」
明快に言う。それはそうだが、と山井が言おうとすると、松村は遮るようにさらに、
「部室だって、資料室が駄目になるようなら自分達で探して回ればいいのさ、海野さんが言うように」
そう言う。山井はおやと思った。松村らしからぬ陽気さと前向きさではないか。
そう思っているのは皆同じらしく、松村は自分に向けられた奇異な視線に気づく。
「いやなに、胸の中にわだかまっていたものがとけたものだからね、ついおかしくて」
そう言う松村が見せた心底晴れ晴れとした表情。再び部室を失う危機に平静をなくしているわけでないことは、その表情でわかる。
「今度のことではさ、さんざん海野さんの世話になって、彼女は僕らの恩人なんだけど、最初に悪しざまに言われたことが胸のどこかにわだかまって、ずっとその借りを返したいと思ってたんだ。だけどそんなことできそうもなくて、この先ずっと彼女に対するコンプレックスみたいなものを抱えていかなきゃいけないのかってちょっとやりきれなかったんだけど、君がそれを見事に晴らしてくれた」
言われても山井にはピンと来ない。自分だってこの件では最後まで海野の掌で弄ばれていただけのような気しかしない。今さっきだってそうだ。自分は海野の怒りをかって追い立てられただけではないか。
不要領の顔でいると、松村は諭すように、
「わからないのかい? 君はあの生徒会長に一泡吹かせたんだぜ」
そう言ってくれる。それで山井も少し腑に落ちた。そういう見方もあるのか、という程度の感慨だったが、我ながら、先ほどの激怒している海野の顔は愉快だったと思う。
「……ふ、ふふふ」
知らず、笑い声が漏れた。笑えば笑うほどおかしさは増していき、釣られて皆が笑い始めた。下足場で笑い転げる彼らを、通りがかった生徒は不気味そうに見ていたがそんなのは知ったことではない。あの生徒会長に一矢を報いたのだ、文化祭コンテストで入賞できたのと同じぐらい痛快であった。
「最高だよ」
ひとしきり笑ったあと、涙を拭き取りながら松村が言う。
「ああ、最高だ」
山井が言って手を掲げる。皆もそうした。
「最高さ!」
言い合ってハイタッチを交わしあう。乾いた音が、心地よくこだました。
その頃、生徒会室では何もかも台無しにされた海野がぐったりとなって椅子に身を投げ出していた。激しい怒りを燃やした後でもあり、その虚脱ぶりはこの気力の塊をして廃人に追い込まれてしまったようでさえある。
「あの、会長、さっきはどうもすみませんでした」
気付けにでもなればとぬるめに入れたお茶を持ってきて桜井が頭を下げる。
「あなたが謝ることじゃないわ。悪いのはすべてあの畜生以下のゴミクズなんだから」
「はあ……」
不得要領に桜井は頷く。海野は、自分を見る桜井の視線に何やら物問いたげな気配を感じ取り、
「なに?」
と聞いてくる。
「あ、たいしたことじゃないんですが……」
「どうぞ。でも手短に」
防衛線が引かれたのは、海野のなかでよくない予感がしたからかもしれない。
「もしかして海野先輩と山井君って、ずっと前からの知り合いだったりするんですか?」
「あ、それ私も思ったことある。なんか二人って仲悪そうだけど仲良さそうっていうか、相通じてるっていうか」
傍らでやりとりを聞いていた荒木が口を挟んでくる。海野が二人の問いに最初に示した反応は、冷笑だけであったが、それは問いの内容が予期できただけにことさら作ったものであるかのようにも見えた。
「よしてよ」
蝿を追い払うみたいに手を振りながら海野は言った。
「あんなのとずっと前から知り合いだったなんて、気が変になるわ」
それは本心なのか偽りなのか、二人には判然としない。しかし海野の心情がどうであれ、先ほどのやりとりで透けて見えた山井の心情は、明白であったように思える。
学校内で密かに語られている噂話を、桜井は思い出していた。今までは単なる噂としてしか受け止めてこなかったが、あの話は存外本当なのかも知れない。
そう思うと、急に自分の足元が真綿か雲のように自分の重みを支えてくれない虚ろで不確かなものに変わってしまったような気がして、桜井はふらふらと窓辺に逃げていく。
窓の下のグラウンドには、もうすっかりいつもどおりの活動に戻って練習に励んでいる運動部の面々の姿が。明日のための練習に勤しむ彼らを見ていると、自然桜井の思いも文化祭の余韻から明日のことに向かい始める。
学期末に向けて、生徒会に大きな仕事はもうない。大きな仕事はないが、しかし大きなイベントはある。生徒会の役員選挙である。次の選挙には、桜井も会計として立候補するつもりでいる。海野もまた会長として再選を目指すのを決めている。気になるのは、
山井君は、どうするつもりなんだろう?
そのことである。
任期半ばに役職を追われた前生徒会長が、次の選挙でリベンジを目指すのならそれは必然海野との怨讐の対決となり、また一波乱も二波乱も巻き起こるであろう。
でもあの噂が本当なら、進んで海野さんと争うようなことを山井君がするだろうか?
という疑問もある。
そしてもし山井君が立候補をしないというなら、自分はそれをどう受け止めたらいいんだろう?
様々な思いが桜井の胸の内に冬の雲みたいに次々わきおこり、暗く重くのしかかる。考えたところで詮無いこととわかっているのに。
頭上の空を、鳥が二羽横切って飛び去る。桜井の胸の内に影を落としていきながら。
終わり