一話 太陽の下
執筆者:深夜
ジャリ、と鎖を引き摺る重い音が、狭い部屋の中、暗く澱んだ空気を揺らした。
傷付いた体を抱え、束の間の微睡みに沈んでいた少女は、ぴくりと耳を震わせて目を覚ます。日の光を忘れた落ち窪んだ瞳で、のろのろと格子の外を見やった。
その動きに触発されたように、隣の部屋で少年がかすかに身じろぎをする。
二人の腹に浮き出た、閉じた瞳。その瞼がゆっくりと上がっていくにつれて、二人の細い瞳孔が、共鳴するように静かに光り始めていた。
重なり増幅された二人の視界の中、暗闇に浮かび上がったのは背の高いシルエット。踝まである長い灰色のマントを羽織った、壮年というよりやや上の男性。
見慣れない人物の姿を前に、血色に黒く固まった唇を薄く開き、少女は乾いた笑いを漏らした。
「あは、は……」
軋むようなその声にはしかし、わずかな安堵が滲んでいた。
「やっと……やっと、お母様は」
それは名を呼ぶことも、呼ばれることもない空間で、久しく口にすることのなかった呼称。
「僕らを殺すことにしたんだ……」
呻くように呟いた姉の後を、少年が引き取った。
衛兵でもない上品な身なりの老人を、親にすら疎まれた双子は、死の合図と受け取ったのだった。一瞬二人の心臓を這い上がった狂気の感覚は、叫びとなることなく喉の奥に消える。二人は、脱力したように蹲った。
それは、遠い昔にぬくもりを奪われ、元の世界に焦がれ続けた二人の、諦めにも似た虚無。暗く狭い部屋の中で、二人に唯一残された獣のように獰猛な、生きたい、という欲望。その執着にすら疲れ果てた末の諦念だった。
だが二人の問いに、老人ーー賢者は微笑んだ。
「いや」
緩やかに首を横に振る。二人が長い間忘れていた柔らかな表情、その思いがけない笑みに、囚われた双子は暗い瞳を僅かに見開いた。
賢者は言い含めるように、優しく、しかし断定的に言った。
「私は君たちを、もとの世界へ連れ戻しに来たんだ」
二人はその言葉に魅入られたように賢者の顔を見上げた。
もとの世界。それは日の光を失って久しい二人にとって、絶望的なほどに眩しい希望の光だった。焦がれ、焦がれ続けた太陽の下。連れ出してくれる誰かを思いながら、少しずつ壊れていった精神。
心を揺らさずにはいられなかった。瞬間二人の脳裏に閃いたのは、目眩がするほどに明るい未来。だがあまりに鮮烈な光は、暗闇に慣れた二人の視界を歪ませた。
「嘘だ……」
少年は譫言のように呟く。涸れてしまった信頼の残骸を虚しく探るように。
「親すら私たちを憎んだのに、誰が今さら必要とするの」
少女の問いは疑問ではなく、哀しみすら伴わない確信だった。
二人は、腹の痣をーーすべての元凶である『血の絆』の証を見下ろした。
“ 悪魔! "
“ 生まれてこなければよかったのに…… "
もはやおぼろ気な記憶の底、投げつけられた言葉を再生するたびに、呪われた双子の心は血を流す。
「ねえ、必要ないなら今ここで殺してよ」
「どうせ後で棄てるくせに」
信じることを奪われた二人の中に、高笑いが鳴り響く。
“ でも殺しはしない "
傲慢な救いの言葉。
“ 一応私たちの子どもだから "
温情の仮面を被せた自己本位。
“ それに "
絆という呪いの上に重ねた冷たい足枷。
“ 呪われた子猫を殺したら "
隔絶した地下室に閉じ込められ、
“ どうなるかわからないでしょう? "
死ぬことすらも許されず。
「うあ、あぁ……」
少年は頭を抱えてしゃがみこんだ。
「あ、ぁ……やめて……痛いよぉ」
少女は寄せる衝動を振り払うように頭を振り始めた。痛みを紛らすように、治りかけた傷をガリガリと引っ掻く。
手当てする者もいないまま膿んだ傷から、ぼとり、ぼとり、と赤黒い血が落ちる。少女がさらに強く爪を立てようとしたとき、賢者がその隙間に手を滑り込ませた。
「彼らと君たちとはもう、何の関係もない」
噛みつきそうな顔で自分を睨む少女に向かって、賢者は冷酷ともいえる言葉を囁く。
「実のない過去など忘れてしまいなさい」
少女の顔から傷付いた獣のような鋭さが剥がれ落ち、二人の脳を侵し始めていた痛みが鳴りを潜める。
「それはただ、矮小な存在が力に怯えて強がっていただけのことなのだから」
あどけない表情を覗かせた二人の頭に、賢者がその皺の寄った手を乗せたとき、
「賢者様っ」
唐突に、耳障りな声が壁にぶつかり反響した。
二人は我に返ったように獣じみた低い唸り声を上げる。
カンカンと石の階段を駆け降りる足音が急速に近付き、狭い地下道の入り口から、深緑色の制服を着た衛兵が現れた。
鎖を手にした賢者を目にすると、衛兵は声を荒げた。
「賢者様!そのような化け物に迂闊に近寄ってはなりません!」
「私は問題ない。そちらこそ、化け物などと滅多なことを口走るものではないぞ」
血相を変えて駆け寄る衛兵を片手で制し、賢者は穏やかに言った。もう片方の手で、背後の殺気だった双子を宥める。
「っ……申し訳ありません」
丁寧な言葉とは裏腹に、衛兵の目は憎々しげに双子を睨み付ける。
賢者はその視線に気付かなかったかのように、衛兵に話しかけた。
「鍵を開けてもらいたいのだが」
「な……」
不満を押さえつけていた衛兵は、再び抗議の声を上げようとして、思わず絶句した。
「親からはすでに許可を得ている」
「そういう問題では……この化け……『血の絆』を野放しにすると言うのですか!?」
「ああ。彼らは私の計画の助けとなるだろう」
激昂する衛兵をよそに、賢者は顔色ひとつ変えずに頷いた。
「猫人すべて、ひいては君のためでもある」
「こんな不吉な存在が?くだら……」
くだらない、と吐き捨てかけた衛兵は賢者の顔を見て口を噤んだ。苦虫を潰したような表情を浮かべて言う。
「……どうぞお好きに。私が関知するところではありませんから」
賢者に鍵を押しつけると、もう一度忌まわしげに双子をちらりと見下ろし、衛兵はその場を去った。
賢者は衛兵の態度を気にする様子もなく、小部屋の固い鍵を開け、鎖の重みで黒ずんだ二人の手を取った。
「さあ、行こうか」
そのまま手を引いて歩き出す。衛兵への敵意に顔を歪めていた二人は呆気に取られ、促されるままに歩き出した。
賢者は、歩き慣れない少年の裸足がもつれそうになるのを見て、歩調を緩めた。そして、前を向いたまま口を開く。
「あんな戯れ言に傷付く必要はない」
階段を昇る賢者の後を、足を引き摺りながら二人は懸命に追った。
「この国の行く末を考えもしない、あやつらが恥じるべきなのだ」
取るに足らない存在を気にする必要などない。探る余地もないその明確な意志が、二人の痛みを拭う。
「君たちは直、未だこの世の誰も知らない、巨大な力を手に入れるだろう」
地下道の外に出る直前、賢者はふいに立ち止まった。足下を見つめて歩いていた二人が顔を上げ、平屋の向こうから滲む暁の眩しさに目を細める。
賢者はゆっくりと振り返った。
「不遜な心を持ちなさい」
ようやく取り戻した太陽の光とともに、二人は賢者の言葉を心に焼きつける。
賢者は、二人の瞳を覗きこみ、一言一言を刻みつけるように言った。
「君たちは、猫人族の救世主ーー希望に、なるのだから」
ーーそれが、猫人と人間と、すべてを巻き込む運命の歯車が、廻り出した瞬間だった。