『知らない靴』
マサトは、誰のものか分からない靴を捨てられないでいる。
仕事を終え、西日の強く差し込む帰り道を車で戻り、誰もいないアパートの鍵を開ける。それがマサトの、何年も変わらない日常だった。
部屋に入ると、そこにはしんとした静寂だけが広がっている。一人暮らしの殺風景な1DK。テレビの電源を入れ、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出す。いつもと変わらない、どこにでもある孤独な夜。
しかし、マサトには、どうしても他人に言えない奇妙な悩みがあった。
それは、玄関の下駄箱を開けるたびに、否応なしに目に入ってくる「あるもの」の存在だった。
下駄箱の最下段、マサトの履き古した黒い革靴のすぐ隣に、それは置かれている。
淡いベージュのパンプス。女性ものの靴だった。
見覚えは、まったくない。
自分の部屋に、なぜ女性の靴があるのか。いつからそこにあるのか。いくら記憶の糸を繰り寄せようとしても、何も思い出せない。
「気味が悪い。明日こそ、ゴミ袋に入れて捨ててしまおう」
そう決意して、靴に手を伸ばそうとする。だが、指先が触れそうになった瞬間、胸の奥を太い針で直に突き刺されたような、激しい焦燥感と息苦しさがマサトを襲うのだ。強烈なざわめきに頭が支配され、どうしてもその靴をゴミ箱に投げ入れることができない。
結局、マサトは今日も、逃げるように下駄箱の扉を閉めることしかできなかった。
翌日、職場での日常も、どこか奇妙に歪んでいた。
昼休憩のオフィスで、マサトが缶コーヒーを手にぼんやりとしていると、先輩の佐藤が不自然なほど優しい目をして肩を叩いてきた。
「マサト、最近はちゃんと眠れてるか? 無理するなよ」
「ええ、大丈夫ですよ。いつも通りです」
マサトが答えると、佐藤は何かを言いかけ、すぐに口を閉ざした。その表情には、同情と、それ以上に「触れてはならないもの」を避けるような怯えの色が混じっている。
同僚の女子社員たちもそうだ。普段は他愛のない雑談を交わすのに、マサトが近くを通ると、ピタリと会話を止める。
不自然な沈黙。誰もがマサトを気遣い、いたわる言葉をかけてくれるのに、なぜか「特定の話題」だけを、腫れ物に触るように綺麗に避けている。
「俺、何か変なことしたっけな……」
マサトは頭をタグり寄せた。なぜ周囲がこれほどまでに自分に気を遣うのか、その理由を深く考えようとすると、こめかみの奥が割れるように激しく痛み出す。その苦痛に耐えかねて、マサトはいつも考えるのを諦めてしまうのだった。
だが、記憶の封印から漏れ出すノイズは、日常の至る所でマサトの心を侵食していった。
休日、スーパーの雑踏を歩いているとき、不意に、自分の右手に「誰かの細い指先」が絡みついているような温かな錯覚に囚われる。驚いて手元を見るが、当然、そこには自分の乾いた手のひらがあるだけだ。
部屋で夕食の準備をしているとき、無意識のうちに棚から二人分のガラスコップを取り出そうとして、自分の行動に愕然とする。
洗面台に立ったとき、ふと漂った甘い花の香りに、胸が引き裂かれるほどの哀しみを覚えて涙がこぼれそうになる。
「誰かが、ここにいたのか?」
耳の奥で、かすかに鈴の転がるような女性の笑い声が響いた気がした。
しかし、その声が誰のもので、どんな顔をしていたのか。肝心な部分は、濃い霧に遮られたように、どうしても思い出すことができない。
下駄箱のベージュの靴は、今日も静かに佇んでいる。
「捨てなければ、前に進めない」と理性が叫ぶ。けれど、その靴を見つめていると、魂のいちばん深い場所が悲鳴をあげるのだ。これを失ってしまったら、自分を構成する大切な何かが、完全に壊れて消えてしまう。そんな本能的な恐怖が、マサトの手を縛り付けていた。
ある夕暮れ、仕事を終えたマサトは、西日の強く差し込む街角を歩いていた。
歩行者天国の向こうから、一人の女性が歩いてくる。
何気なく視線を向けたマサトは、その場に釘付けになった。
見覚えのないはずの女性。
だが、その姿を目にした瞬間、マサトの心臓が警鐘を鳴らすように激しく脈打ち始めた。言葉にできない、強烈な既視感が脳を揺さぶる。
女性もまた、マサトの姿に気づいたようだった。
彼女は足を止め、一瞬だけ、痛痛しいほどに哀しげな表情でマサトを見つめた。その瞳には、深い愛慕と、それ以上の絶望が滲んでいた。
マサトは息を呑み、一歩を踏み出そうとした。
しかし、女性はすぐに目をそらすと、足早にマサトの横を通り過ぎていく。
すれ違った瞬間、マサトの脳内に、暴力的なまでの光景がフラッシュバックした。
青空の下、二人で手を繋いで歩いた並木道。
自分の名前を呼ぶ、愛おしい笑い声。
...
そして――夕暮れの駅のホームで、すべてが引き裂かれるような、冷たくて悲しい別れの気配。
「うっ、あ、頭が……!」
割れるような激しい頭痛がマサトを襲い、彼はその場に膝をついた。視界が激しく明滅する。
「彼女の名前は。あの人は、一体――」
必死に手を伸ばそうとするが、激痛とともに、脳内のシャッターが無情にも下ろされた。すべての断片は、冷たい闇の奥へと再び引きずり込まれていく。
顔も、名前も、やはり思い出せない。
ただ、胸に残った生々しい傷の痛みだけが、激しく疼いていた。
マサトは知らない。
あまりにも辛く、引き裂かれるような別れの悲しみに耐えかねて、自分の精神を守るために、彼女に関する一切の記憶を脳から自ら消去してしまったのだということを。
同僚たちも、そのあまりの悲劇とマサトの壊れそうな姿を知っているからこそ、誰も彼女の話題を口にしなかったのだということを。
下駄箱に置かれた、あのベージュのパンプスだけが、彼女がこのアパートに確かに存在し、二人が深く愛し合っていたという、世界に遺された唯一の「本物の残骸」だった。
夜。
マサトは、アパートの静まり返った玄関に立ち、下駄箱の扉を開けている。
その目の前には、あの淡いベージュのパンプスが、静かに置かれている。
誰の靴なのか、なぜここにあるのか、彼はわからない。
「……捨てなきゃいけないのにな」
ぽつりと呟くが、やはり手は動かない。
ただ、理由のわからない微かな胸の痛みが、冷え切ったアパートの空気に溶けていくだけだった。
マサトは、その理由を永遠に知らない。
そして今日も、靴は静かにそこに置かれている。
マサトは、誰のものか分からない靴を捨てられないでいる。
おしまい




