第9話 噂と真実
第二王子アルフォンス・リュミエールは、静かに廊下を歩いていた。
視察という名目ではあったが、目的は明確だった。
侯爵令嬢エリシア・ローゼンフェルト。
――悪役令嬢疑惑。
公爵令息に囲われ、周囲を遠ざけ、聖女候補に圧力をかけている可能性。
提出された報告書は、どれも断定的ではない。それでも無視できる内容ではなかった。
(事実を、この目で確かめる)
王族として当然の判断だった。
⸻
昼休み。
中庭では多くの生徒が談笑していた。
アルフォンスは視線を巡らせる。
すると、少し離れた場所で小さな騒ぎが起きていた。
「ご、ごめんなさい……!」
下級生の少女が、慌てた様子で頭を下げている。
地面には散らばった書類。
その前には上級生らしい令嬢が腕を組んで立っていた。
「気をつけなさい。これは重要な資料なのよ」
「はい……でも風で……」
「言い訳は――」
「大丈夫ですか?」
落ち着いた声が割って入った。
エリシアだった。
自然な動作でしゃがみ、散らばった紙を拾い始める。
「けがはありませんか?」
「え、あ、はい……!」
下級生は戸惑いながら頷く。
エリシアは紙の端を整えながら微笑んだ。
「風の強い日は誰でも失敗します。気にしなくて大丈夫ですよ」
責める気配は一切ない。
ただ事実を受け止めているだけの声音。
周囲の空気がやわらぐ。
先ほどまで注意していた令嬢も、気まずそうに視線を逸らした。
「資料はこちらで合っていますか?」
「は、はい……ありがとうございます!」
下級生の目が少し潤む。
エリシアは軽く頷いただけだった。
「次からは束ね紐を二重にすると安心ですよ」
実務的な助言まで添える。
説教ではない。
指導でもない。
ただ相手を思った言葉。
アルフォンスはその光景を無言で見ていた。
(……威圧的、ではないな)
むしろ逆だった。
⸻
そのとき。
「エリシア」
背後から声がかかる。
振り返らずとも分かる声。
「レオンハルト様」
彼は自然な足取りで近づき、彼女の手から残りの書類を受け取った。
「こちらは私が」
「ありがとうございます」
極めて自然な連携。
指示も遠慮もない。
互いの動きが分かっている者同士の距離だった。
レオンハルトは下級生へ視線を向ける。
「急いでいたのだろう。次は風向きを確認すると良い」
責める響きはない。
ただ合理的な助言。
「は、はい!」
少女は深く頭を下げた。
レオンハルトはそれ以上言及せず、さりげなくエリシアの立ち位置を日陰側へ誘導した。
強い日差しを遮る形になる。
無意識の動作だった。
「少し風が強いな」
「ええ、書類が飛びやすい季節です」
二人はそのまま並んで歩き出す。
特別な会話はない。
だが空気は穏やかで、完成されていた。
アルフォンスは思わず眉を寄せる。
(……囲われている?)
違う。
少なくとも、自分が想像していた構図ではない。
⸻
別の場所では、噂話が続いていた。
「ローゼンフェルト様って怖い人じゃなかったの?」
「全然違うわよ。普通に優しいし」
「むしろ相談乗ってくれるって有名」
アルフォンスの足が止まる。
(報告と一致しない)
さらに耳に入る。
「公爵令息が近づく人を選んでるだけじゃない?」
「それは……あり得るかも」
王子は静かに息を吐いた。
⸻
再び中庭へ視線を戻す。
エリシアが何かを説明している。
レオンハルトは隣で静かに聞いている。
彼女が言葉に詰まると、自然なタイミングで補足を入れる。
出しゃばらない。
奪わない。
ただ支える。
そして彼女が話し終えると、ほんのわずかに表情を緩めた。
誇らしげに。
その変化は一瞬だったが、アルフォンスは見逃さなかった。
(……話が違う)
心の中で言葉が落ちる。
悪役令嬢。
孤立。
圧力。
どれも、目の前の光景とは結びつかない。
むしろ――
(互いを尊重している関係、ではないか?)
王子は初めて、自分の前提を疑った。
⸻
去り際、エリシアの声が風に乗って届いた。
「レオンハルト様、先ほどはありがとうございます」
「当然のことだ」
「ですが、私一人でも大丈夫でしたのに」
「知っている」
即答だった。
「それでも、手伝いたかっただけだ」
飾り気のない言葉。
エリシアは少しだけ困ったように微笑んだ。
アルフォンスは立ち止まったまま、その背中を見送る。
胸の中に残る違和感。
そして、新しい疑問。
「……私が、早計だったのか?」
善意から始まった調査は、静かに方向を変え始めていた。




