第8話 王子の誤解
王立学院に、新たな噂が流れ始めたのは昼休みのことだった。
「第二王子殿下が来訪されるらしいわ」
「えっ、この時期に?」
「視察ですって」
ざわめきが広がる。
王族の学院訪問自体は珍しくない。だが、事前通達なしの来訪は異例だった。
生徒たちは自然と姿勢を正し、廊下の空気が引き締まっていく。
その中心を、ゆっくりと歩く人物がいた。
金の髪に整った面差し。
柔和な笑みを浮かべながらも、どこか鋭い視線。
第二王子アルフォンス・リュミエール。
彼は穏やかな口調で側近に尋ねた。
「例の令嬢は?」
「侯爵令嬢エリシア・ローゼンフェルト。本日は通常授業に出席しております」
「そうか」
アルフォンスは小さく頷いた。
最近、王城へ妙な報告が届いていた。
――公爵令息の婚約者は傲慢な悪役令嬢。
――学院内で孤立している。
――聖女候補への圧力の可能性あり。
放置できる内容ではない。
(もし事実ならば、見過ごすわけにはいかない)
王族としての責務だった。
⸻
その頃、教室では。
「この部分は交易税率の変動に影響しますので――」
エリシアが黒板を使いながら説明していた。
教師に指名された補足説明だ。
落ち着いた声。
正確な知識。
無駄のない言葉選び。
教室は静まり返っていた。
「以上です」
「見事だ、ローゼンフェルト嬢」
教師が満足げに頷く。
小さな拍手が起きた。
エリシアは控えめに一礼して席へ戻る。
その椅子を、当然のようにレオンハルトが引いた。
「ありがとうございます」
「当然のことです」
自然すぎるやり取り。
だが教室後方の扉付近では、別の人物がそれを観察していた。
アルフォンスだった。
(……なるほど)
彼の視線は冷静だった。
周囲の生徒たちが微妙に距離を取っている。
令嬢本人は感情を表に出さない。
そして、公爵令息だけが隣にいる。
(孤立している、という報告は正しいのかもしれない)
誤解は、静かに形を持ち始めていた。
⸻
休み時間。
エリシアが教材をまとめていると、影が差した。
「少しいいだろうか」
顔を上げた瞬間、教室が凍りつく。
「……第二王子殿下」
エリシアは即座に立ち上がり、完璧な礼を取った。
「お初にお目にかかります」
「楽にしてほしい。視察中でね」
穏やかな笑顔。
だがその目は観察していた。
「学院生活はどうかな」
「大変充実しております」
「困っていることは?」
一瞬、エリシアは首を傾げた。
「特にはございませんが……?」
迷いのない答え。
しかしアルフォンスの中では別の解釈が生まれる。
(周囲を気遣って本音を言えないタイプか)
責任感が強い王子ほど、こういう誤読をしやすい。
「遠慮はいらない。私は生徒を守る立場だ」
優しく言った、そのとき。
「殿下」
低い声が割り込んだ。
空気が変わる。
レオンハルトだった。
「授業準備の時間です。長時間の引き留めは彼女の負担になります」
言葉は丁寧。
だが明確な牽制。
アルフォンスが視線を向ける。
「心配しているだけだよ、公爵令息」
「承知しております」
表情は変わらない。
だが一歩、エリシアの前に立った。
無意識の防壁。
それを見て、アルフォンスは確信する。
(やはり囲われている)
誤解が、完成した。
⸻
「ローゼンフェルト嬢」
王子は穏やかに微笑む。
「何かあれば、いつでも私を頼りなさい」
「……? ありがとうございます」
本気で意味が分からない顔のエリシア。
王子は去っていった。
残された教室。
沈黙。
「……今のは」
エリシアが小さく呟く。
「視察だろう」
レオンハルトは淡々と答えた。
だが。
机を持つ指先に、わずかな力が入っていた。
珍しく――不機嫌だった。
⸻
廊下を歩きながら、アルフォンスは側近に告げる。
「調査を続けよう」
「悪役令嬢疑惑、ですか?」
「ああ」
王子は静かに頷いた。
「彼女は助けを求められない状況にあるのかもしれない」
完全なる善意。
完全なる誤解。
⸻
一方、教室では。
「レオンハルト様?」
「問題ない」
「ですが少し怖い顔を――」
「気のせいだ」
即答だった。
しかし周囲の生徒は思った。
(いや明らかに機嫌悪い)
そして誰も知らない。
王国で最も理性的と評される青年が、
ただ婚約者に話しかけられただけで
静かに警戒態勢へ入っていることを。
こうして――
誰も望んでいない“断罪フラグ”が、
王子の善意によって静かに立ち上がったのだった。




