第6話 看病イベントの敗北
王立学院の朝は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
理由は単純だった。
「……レオンハルト様が欠席ですって?」
その噂が、瞬く間に学院中へ広がったからだ。
氷の公爵令息――レオンハルト・グランディール。
常に冷静沈着、完璧無欠。体調不良という概念すら存在しないのではと囁かれていた人物が、授業を休んだのである。
小さな衝撃は、すぐに大事件へと変わった。
一方、その話を聞いたリリアーナ・フェルミエは、両手をぎゅっと握りしめていた。
「これは……来ましたわね」
瞳が輝く。
「看病イベント……!」
恋愛物語における定番展開。普段は近寄れない相手が弱り、そこで献身的に寄り添うことで距離が縮まる――それは数多の物語が証明してきた黄金の流れである。
(ここで運命が動くんです!)
彼女は本気だった。悪意など一切ない。純粋に、物語的必然を信じているだけだ。
「今こそ聖女の役目です!」
そう宣言し、医務棟へと駆け出した。
医務室の扉を勢いよく開ける。
「失礼します!」
しかし、室内の空気は想像していたものと違った。
ベッドに横たわるレオンハルト。
額には冷却布。
その隣には学院医。
そして――静かな圧力。
「……誰の許可で入室した」
低く落ち着いた声が響いた。
熱を出しているはずなのに、威圧感はまったく衰えていない。
「え、えっと! 看病に来ました!」
「不要だ」
即答だった。
「ですが体調不良と聞いて――」
「問題ない」
「でもお一人では――」
言い募ろうとした瞬間、レオンハルトがゆっくり目を開いた。
銀の瞳が、静かにリリアーナへ向けられる。
数秒の沈黙。
「……君は?」
「聖女候補のリリアーナ・フェルミエです!」
「そうか」
それだけ言って視線が戻る。
会話終了。
「えっ、あの、看病を――」
近づこうとしたそのとき、レオンハルトは学院医へ視線を向けた。
「先生」
「はい」
「婚約者を呼んでください」
室内の空気が止まった。
リリアーナの思考も止まった。
「ですが、エリシア様は授業中ですよ?」
「構いません」
「軽い発熱ですよ?」
「問題ありません」
わずかに眉を寄せ、彼は淡々と言った。
「……彼女以外に看病される理由がありません」
断言だった。
当たり前の事実を述べただけの声音。
リリアーナの中で、物語の前提が音を立てて崩れた。
(看病イベントって……ヒロインが担当するものでは……?)
理解が追いつかないまま時間が過ぎる。
やがて医務室の扉が勢いよく開いた。
「レオンハルト様!? 大丈夫ですか!?」
息を切らして現れたのはエリシアだった。髪がわずかに乱れ、急いで来たことが一目で分かる。
その瞬間。
レオンハルトの表情が明確に変わった。
「来てくれてありがとう」
声の温度が、先ほどまでとは別人のように柔らかい。
学院医が小さく咳払いする。
「熱は微熱程度です」
「そうですか……よかった……」
心から安堵した様子で、エリシアは自然な動作で椅子を引き、彼の額に手を当てた。
「少し熱いですね。水分は取られましたか?」
「先ほど摂取した」
「無理なさらないでくださいね」
「あぁ」
素直な返事。
氷の公爵令息の面影はどこにもなかった。
リリアーナは呆然とその光景を見ていた。
距離感がおかしい。
空気が違う。
エリシアがタオルを替える間、レオンハルトの視線は彼女から一度も離れない。
(……好きじゃないですか)
気づいてしまった。
決定的な事実に。
「……あの」
恐る恐る声を出す。
「私はもう必要ありませんね?」
「はい」
即答だった。
悪意はない。ただ事実を述べただけ。
「本日はありがとうございました」
完全な退場宣告である。
リリアーナは静かに立ち上がった。
(看病イベント……始まってすらいない……)
医務室を出て、廊下で空を見上げる。
「……物語と違う」
ぽつりと呟く。
けれど次の瞬間、彼女の目は再び輝いた。
「でもこれはこれで尊い……!」
解釈を更新した。
早かった。
一方、医務室では。
「授業を抜けてしまって申し訳ありません」
「問題ない。あなたが来たので回復した」
「まだ熱がありますよ」
「すぐ下がる」
真顔で言い切るレオンハルトに、エリシアは小さくため息をついた。
(本当に、この方は無理をなさるんだから……)
彼女は気づかない。
彼が安心したように目を閉じた理由を。
レオンハルトにとって看病とは治療ではない。
――エリシアが隣にいる、その状態そのものだった。




