第10話 社交界前夜
王都は、夜会を目前に控えた独特の熱気に包まれていた。
王族主催の春季大夜会。
貴族社会において、それは単なる社交ではない。
勢力図が更新され、関係が確定し、そして――噂が真実として固定される場だった。
王立学院も例外ではない。
むしろ中心地だった。
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「聞きまして? ついに婚約解消だそうよ」
「やっぱり……」
「第二王子殿下が動いていらっしゃるとか」
廊下のあちこちで囁きが交わされる。
名前は出さなくとも、誰の話かは明白だった。
エリシア・ローゼンフェルト。
悪役令嬢。
公爵令息の婚約者。
そして――近く断罪される存在。
噂は尾ひれをつけ、事実よりも強い説得力を持ち始めていた。
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放課後。
エリシアは一人、図書室にいた。
夜会用の資料を確認しているはずなのに、視線は同じ行を何度も往復している。
(……婚約解消)
今日だけで何度耳にしただろう。
否定する材料はない。
そもそも、この婚約は政略なのだから。
公爵家にとってより有益な選択があるなら、それが優先されるのは当然だ。
(レオンハルト様は、優しい方だから)
だからこそ、言い出せないのかもしれない。
自分を気遣って。
波風を立てないように。
そう考えると、胸が少しだけ痛んだ。
理由は分からない。
ただ、息が詰まるような感覚があった。
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「ここにいたんだね」
低く落ち着いた声。
顔を上げると、レオンハルトが立っていた。
「探した」
「申し訳ありません。少し資料整理を」
自然に言い訳が出る。
彼は何も言わず、向かいの席に座った。
静かな時間が流れる。
やがてエリシアが口を開いた。
「……夜会の準備は順調でしょうか」
「問題ない」
「そうですか」
会話が続かない。
珍しいことだった。
レオンハルトは本を閉じる。
「何か考え事をしている」
断定だった。
「いえ、そのようなことは」
「ある」
即答。
逃げ道が塞がれる。
エリシアは少し迷い、視線を落とした。
「……もし」
言葉が途切れる。
「もし、婚約が見直されることになったとしても」
自分でも驚くほど冷静な声だった。
「私は納得いたします。もともと公爵家のご判断に従う立場ですから」
沈黙。
空気が止まる。
レオンハルトの表情が消えた。
「誰が、そのようなことを?」
「皆様が……その、噂を」
「噂だ」
短く、切り捨てるような声。
だが怒気はない。
代わりに、静かな圧があった。
「私は一度も、その意思を示していない」
「ですが、殿下が……」
「殿下の考えと、私の意思は別だ」
きっぱりと言い切る。
そして少しだけ声を落とした。
「あなたは、私が望まぬ婚約を続けていると思っている」
問いではなく確認。
エリシアは答えに詰まる。
ずっと、そう思っていた。
けれど今、否定する材料もない。
「……ご負担ではないよう、努めてきたつもりです」
それが本音だった。
迷惑にならない婚約者でいようと。
それだけを考えてきた。
レオンハルトは目を閉じ、わずかに息を吐いた。
「あなたは」
言葉を選ぶように続ける。
「いつも、自分を過小評価しすぎだ」
静かな声。
「夜会では、私の隣に立って」
「それは当然では――」
「当然だからだ」
重ねて言う。
「理由は、それ以上でも以下でもない」
エリシアは小さく頷いた。
理解したわけではない。
ただ、拒む理由が見つからなかった。
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その頃。
学院の別室では数名の令嬢が集まっていた。
「明日が最後の機会ですわ」
「王子殿下も動いていらっしゃる」
「流れはできていますもの」
婚約破棄は既定路線。
そう信じて疑わない空気。
「夜会で真実が明らかになりますわ」
誰もが確信していた。
ただ一人――当事者だけが違う方向を見ていることを知らずに。
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帰り道。
馬車の窓から夕暮れを眺めながら、エリシアは静かに考えていた。
(もし、本当に終わるのなら)
それでも構わない。
そう思おうとする。
けれど。
胸の奥に、小さな違和感が残る。
離れる未来を想像した瞬間、世界が少し色を失った気がした。
理由は分からない。
理解もできない。
ただ――少しだけ、寂しいと思った。
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そして王都では。
明日の夜会を待ち望む声が広がっていた。
断罪。
婚約破棄。
新たな恋。
誰もが“物語の始まり”を期待していた。
だが実際に幕を開けるのは――
終わるはずのない関係の、真実だった。




