8話 決戦。王子の末路
ガルディア王国の王城、その最深部に位置する「聖なる泉の庭園」は、エリンの魔力によって楽園の如き静謐を保っていた。
この日、カイル王は国境付近の魔獣被害の最終確認のため、近衛騎士団を引き連れて城を空けていた。エリンは、そんな彼を笑顔で見送り、一人静かに泉のほとりで祈りを捧げていた。彼女が祈るたびに、泉からは清らかな水が溢れ、大気中の魔力濃度が上がり、ガルディアの全土へ向けて「癒やし」の波動が広がっていく。
だが、その静寂を切り裂くように、荒い呼吸と泥の臭いが近づいてきた。
「……見つけた。見つけたぞ、不実な女め」
茂みを掻き分けて現れたのは、かつてのバトラー王国第一王子、レオナルドだった。
一ヶ月間の過酷な労働奉仕を経て、彼の姿は見るに堪えないものになっていた。頬はこけ、目は血走り、爪の間には泥が詰まっている。かつての傲慢な自信は、今や醜悪な執着へと変貌を遂げていた。
「レオナルド様……。その格好、どうされたのですか。監視の目を盗んでここまで来るとは」
エリンは立ち上がり、静かに問いかけた。その瞳に以前のような怯えはない。ただ、かつて信じた男の成れの果てに対する、冷ややかな失望だけがあった。
「黙れ! すべてはお前のせいだ! お前がその力を見せつけ、私を辱めたからだ! お前は私の婚約者として、影で私を支えていればよかったのだ。なのに、あんな冷徹な男の腕の中で……媚を売って……!」
レオナルドは懐から、どす黒い光を放つ金属製の首輪を取り出した。それはバトラー王家の地下深く、禁忌として封印されていた「魂の隷属の首輪」であった。
「それをどこで……。それは人の意思を奪い、人形に変える呪具です。正気ですか?」
「正気さ! これでお前を私の『忠実な道具』に戻してやる。そうすれば、お前の魔力は再びバトラー王国のものだ。お前が泣きながら許しを請い、私の足に口づけする姿を、あの王に見せつけてやるのだ!」
レオナルドは狂ったように笑いながら、エリンへと飛びかかった。
本来ならば、聖女の近衛兵が彼を制止するはずだった。だが、彼はこの呪具の力で一時的に自らの気配を消し、死角を突いてきたのだ。
レオナルドの汚れた手が、エリンの白い首筋に届こうとしたその瞬間。
「……触れないでと言ったはずです」
エリンの声が、泉の周囲の空気を一瞬で凍らせた。
彼女の足元から、黄金の光が同心円状に広がる。レオナルドの体は、見えない壁に激突したかのように弾き飛ばされ、泉の岩肌に叩きつけられた。
「ぐはっ……!? 何だ、この力は……!」
「私が『無能』だったのではなく、あなたを傷つけないように、私が力を抑えていたのだと、まだ理解できないのですか?」
エリンが静かに一歩踏み出す。彼女が歩くたびに、地面の草花が意思を持つかのように波打ち、レオナルドの逃げ場を塞いでいく。
「お前が……私を傷つけないようにだと? 笑わせるな! お前はただの雑用係だ! 水を清め、花を咲かせるだけの……!」
「その『水を清める』力が、人間の体内の血液を操作できると気づいていたら? その『花を咲かせる』力が、体内の細胞を暴走させ、植物の苗床に変えることができると知っていたら……、あなたは私に、そんな無防備に近づけましたか?」
エリンの言葉に、レオナルドは初めて「本物の恐怖」を感じた。
彼女の魔力は、優しさの裏側に、世界を破壊し尽くすほどの質量を秘めていたのだ。
「お、おい……待て、エリン。冗談だろう? 私たちは愛し合っていたじゃないか。あの夜会でのことは、ミナに唆されただけなんだ。私はお前を試したんだ! だから……」
「見苦しいです、レオナルド様」
エリンは右手を高く掲げた。
すると、上空の雲が渦を巻き、太陽の光が一本の巨大な柱となってエリンへと降り注いだ。彼女の琥珀色の髪が黄金に輝き、背後には巨大な光の翼が展開される。
「私は、カイル様に救われました。彼は私の力ではなく、私という人間を愛してくれた。だから私は、彼のために、そして彼が愛するこの国のために、真の力を使うと決めたのです」
エリンが指先をレオナルドに向ける。
「不実を働き、恩を仇で返し、さらに禁忌に手を出した罪。……バトラー王家の血筋に免じて命は取らぬと言おうと思いましたが、止めました。あなたは、この大地の裁きを受けるべきです」
「や、やめろ! 助けてくれ! 誰か!」
「誰も来ません。ここは今、私の聖域ですから」
エリンの放った光が、レオナルドの持っていた呪具を粉々に粉砕した。砕け散った呪具の破片がレオナルドの肌を焼き、彼は絶叫しながらのたうち回る。
さらに、地中から無数の蔦が伸び、レオナルドの四肢を絡め取った。それはただの蔦ではない。エリンの魔力が具現化した「審判の鎖」だった。
「ぎゃああああ! 熱い、体が燃えるようだ!」
「あなたの魂に刻まれた汚れを、この大地の力が吸い上げているのです。……これからあなたは、一生この地で、自分が汚した水の重さを、自分が枯らした大地の苦しみを感じ続けることになるでしょう」
その時、庭園の入り口から凄まじい殺気が放たれた。
カイル王が、予定を切り上げ戻ってきたのだ。彼は、光り輝くエリンと、その足元で惨めに這いつくばるレオナルドを一目見て、すべてを察した。
「……エリン、怪我はないか」
カイルは迷いなく、光の渦巻く中心へと歩み寄った。普通の人間に取っては近づくことすら不可能な魔力の嵐。だが、エリンの魔力はカイルを拒絶せず、むしろ愛おしむように彼の頬を撫でた。
「カイル様。……はい。お掃除は、終わりました」
エリンは光を収め、カイルの胸に飛び込んだ。カイルは彼女を壊れ物を扱うように抱きしめ、その肩越しに、白目を剥いて気絶したレオナルドをゴミを見るような目で見下ろした。
「ゼノス! 近衛兵を呼べ。この男を、地下の最深部にある『魔力抽出の檻』へ放り込め。死ぬまでこの国の結界を維持するための、ただの『魔力供給源』として使い潰せ。それがこの男の望んだ『聖女の役目』なのだろう?」
カイルの冷酷な沙汰に、意識を失ったレオナルドは答える術もない。
「それと……バトラー王国はどうなった」
カイルの問いに、控えていた宰相が震えながら答えた。
「はっ……。先ほど伝令が入りました。レオナルド王子の反逆が失敗したとの報を受け、バトラー国王は発狂。王妃は財宝を持って逃亡し、残された民衆によって王宮は火を放たれたとのこと。……バトラー王国は、本日をもって地図から消滅いたしました」
レオナルドが最後に縋ろうとした帰るべき場所も、今や灰燼に帰したのだ。
ミナは暴徒化した民衆によって、彼女がかつて踏みにじった泥沼の中へと引きずり込まれたという。
エリンは、カイルの胸に顔を埋めた。
悲しみはなかった。ただ、ようやくすべてが清算されたのだという、深い安堵感だけがあった。
「エリン。あんな男のために、君の手を汚させて済まなかった。……もう、あいつの顔を見ることも、その名を聞くこともない」
「はい。カイル様……ありがとうございます。私はもう、大丈夫です。私の力は、あなたを愛するためにだけありますから」
カイルは彼女を抱き上げ、静まり返った庭園を歩き出した。
翌日から、大陸中の新聞には「バトラー王国の滅亡」と「伝説の聖女の降臨」というニュースが並ぶことになる。
かつて「掃除婦」と蔑まれた少女は、今や世界を救う女神として、そして一人の王に狂おしいほど愛される妃として、新しい歴史の一ページを開いた。
その日の夜、ガルディアの空には、エリンの魔力が生み出した幻想的なオーロラが揺らめき、亡国となったバトラー王国の暗雲を完全に払拭したのだった。




