36.海にて②
海に引き込まれた荒井千里。彼は動揺をしながらも、自身を引きずり込んだ張本人の顔を見ようと視線をしたにやった。
「…………!」
そこには笑顔を浮かべて荒井の足にしがみつく人間がいた。いや、決して人間ではない。何故ならその下半身は魚のようにきらきら光る鱗で覆われており、オマケに足でなくヒレがついているからだ。
正真正銘の人魚だ。しかし、驚くことはない。荒井もまた妖怪である酒呑童子の血を引くのだから、人魚がいたって不思議ではないのだ。
重要なのはそこではない。より大切なのは、今、どうやってこの状況を切り抜けられるかだ。
場所は水中。得意の炎もこれでは出せない。それに加えて、そろそろ呼吸も苦しくなってきた。
とりあえず、抵抗をする。掴まれた足を激しく揺さぶり、出来れば人魚に蹴りのひとつでも食そうとする。が、ひらりと交わして人魚は泳ぐ。
くそっ。
荒井は声に出さず、悪態をつく。どうしたものか。一応、水上にはボートで待機している山吹楓がいるものの、彼女は荒井のように攻撃する術を持っていない。
少なくなった酸素と共に荒井は顔をしかめる。打開策はない。焦りが積もる一方だ。
だというのに。荒井を見つめる人魚は優しく微笑み、彼のそばに近寄ってきた。そして、ふわりと手を伸ばし体を引き寄せる。
「!?」
理解のできない行動に翻弄されるまま、再び抵抗を試みる。だが。その前に、人魚が口を開けて声のようなものを発した。それは荒井の耳に歌声となって伝わる。
優しい抱擁と子守唄のような声。その2つが荒井を包んだ。
「かあ、さん、」
無理に声を発した荒井は開いた口から水が滑り込んできたのを感じる。それでも、言わずにはいられなかったのだ。
無論、この人魚は彼の母などではない。似てもいない。しかし、彼が母に求めていた温かさが確かにあったのだ。それ故。荒井は抵抗を弱めた。いや。もはや手足を動かすことをやめた。
呼吸が限界であったのも原因である。それ以上に、そばにいる人魚が彼を安堵させてしまったのが理由だった。
呼吸は叶わず、苦しむはずの荒井。だが、母のように抱擁された状態は彼を安堵へ導き、意識を手放させてしまうのだった。




