第1話 世界の終わり、陰渓の森(4)
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和睦。
ツェーネン王国の国史を記した書物には、短くそう記されていた。
詳細については明らかにされていないものの、スレオニールは戦闘終結に至るまでの全容を知っていた。なぜなら、彼が醜い争いを終結に至らしめた当事者に他ならないのだから。
スレオニールは小さく息を吐き出すと、両手に抱えた巨大な本をパタンと閉じた。その振動は冷たい空気で満ちた狭い文書館の石壁に音もなく吸収される。国史と先代王の偉業が記された本だけに重厚感のある外装は革製であり、文字や装飾模様を浮き上がらせる細やかな加工が施されていた。本来であれば、木蝋に火を灯したランタンの光を受けて、艶やかな光沢と共に陰影を浮き立たせ、荘厳な趣を際立たせたことだろう。しかし、今、彼が手にしている本は手触りも悪く、艶もない。満足な手入れを怠っているなによりの証左である。
「グノー⋯⋯おまえが魂を込めてしつらえた本なのにな」
誰にともなく呟いた言葉はスレオニールの想像以上に反響し耳に届いた。どうやら文書館の壁から受け取り拒否を喰らったらしい。彼は忌々しげに舌を打ち鳴らす。その音に呼応するタイミングで、バン、という大音響が部屋中に轟く。石壁による反攻かと驚かされた物音は、文書館の扉を乱暴に開け放った衛士によるものだった。
「スレオニール殿、探しましたぞ!」
苛立ちを隠す素振りもない口調で話しかけてきたのは顔中が深い皺と白髭にまみれた老衛士。城内ということもあってか、平服での参上である。一方のスレオニールはノースリーブの黒い胴衣に草染のサルエルパンツ。砂避けストールを肩にかけた姿は、完全に畑仕事を終えた人夫のそれだった。褐色の肌と顔にまで彫られた幾何学模様がなければ、普通に入城を断られていたことだろう。堀の浅い顔に整った目鼻立ち。艶のない濃紺の長髪を無造作に縛り、背中に垂らしている。また、アクセサリーも数多く身につけており、一般的なネックレスやブレスレットの他に、男性では珍しいリングピアスもある。年齢は二十歳前後であろうか。ランタンの光を受けて、黒い瞳の中で細い花弁を思わせる金色の虹彩が瞬いていた。
「国王陛下が勝利の間にてお待ちしておられるゆえ、急ぎ参られよ!」
ラフな格好を見咎めてか、かなりの剣幕で捲し立てる。
「⋯⋯ああ、いつもの反省会ね」
慌てる様子もなく、手にした本を棚に戻すスレオニール。やれやれ、と言いたげな呆れ口調だ。
「反省会などでないわ! 非凡なる陛下のお考えが何故あのような結果に至ったのか、家臣であるおぬしたちが凡愚なりの意見を述べてだな!」
「はいはい、わかってますって」
「わかっておらーーん!」
ランタンを手に部屋を出るスレオニールに老衛士はさらに追い打ちをかける。
「だいたいおぬしは戦闘指南という要職にありながら」
老衛士による愚痴がネチネチと続く。それをスレオニールは苦笑しつつ聞き流していた。そっけない態度ながらも老人のゆったりとした歩調に合わせて歩くあたり、さほど嫌ではないらしい。傍目には世話焼きの年寄りが老婆心から孫に説教しているようにも見え、微笑ましくさえある。
「それにしてもキャスパール将軍、また縮んでない? 出会った頃は俺の肩あたりに頭があったよな? 今はヘソの位置って、ちょっと縮みすぎじゃね?」
「人間は歳を重ねるとだんだん縮むようになっておる! これが普通なんじゃ! あと、儂はもう将軍ではない。とっくの昔に引退したただのジジイだ。城の出入りを許されておるのは顔馴染みゆえの計らいじゃろう」
「そんなこと言うなよ。まるで俺がバケモノみたいじゃん」
「五十年以上も前から見た目の変わらぬおぬしは十分バケモノじゃわい!」
スレオニールとキャスパールが顔を見合わせ破顔する。軽口の掛け合いに年齢差は感じられなかった。
「まじめな話をするとだな⋯⋯」
ふいにキャスパールは口元を引き締め、眼光を鋭く尖らせる。
「城内におぬしを怪しむ者が現れ始めておる。ここのところ連戦連敗じゃろう? その見た目からもメラノイ人になりすましたダークエルフがツェーネン王国を滅ぼそうとしているのではないか、などと噂しておってな⋯⋯」
「ふむ」
「なんじゃその『その手があったか!』みたいな顔は! 儂は今まじめな話をしておるのだぞ!」
「わかってるわかってる。ちゃんとまじめに聞いてるよ」
馴れ合いに傾きかけた空気を打ち払うかのようにキャスパールは軽く咳払いをし、場の雰囲気を整えた。
そして、声のトーンも一段階落とし、ふたり以外には届かぬよう配慮されたものとなる。
「儂もおぬしも亡くなった先代王より建国の礎として王家にお仕えしておる身、それが今の陛下より仕えし者にはおもしろくないらしい。先王派、現王派などと線引きをして、なにやら画策しているようだ。おぬしは目立つゆえ、くれぐれも用心してだな⋯⋯」
「大丈夫だって。相変わらず心配性だなぁ」
スレオニールが笑い飛ばす。
「これまで興味がなかったから注意を払ってこなかったが、己の身に火の粉が降りかかるとあっちゃあ黙ってられねぇな。今後は千里先の針が落ちた音も拾うこの耳で城内政治に聞き耳を立てて」
耳を覆う濃紺色の髪をかき上げようと上げた腕が途中で止まる。
キャスパールが制したのだ。
黙って首を振るキャスパールの言葉を察したのか、スレオニールも素直に腕を下ろした。
ふたりを沈黙が包む。
無言の行進が功を奏したのか、思ったよりも早く目的の部屋に着いてしまった。
キャスパールとの別離の刻が迫る。
「⋯⋯くれぐれも慎重にな」
「わかってる。大丈夫だ。しっかりやるよ」
ふたりは固く拳を握るとがつんと打ち合わせる。
沈黙してここまで、言葉と拳は交わしても視線が交わることはなかった。




