第1話 世界の終わり、陰渓の森(3)
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かつて、その場所は ”始天の大地” と呼ばれていた。
『ここより上を天界とする』という太古の宣誓により定められた地上界の限界高度地点である。神域へ続いているとの噂が絶えない "陰渓の森" に、天界より賜りし豊潤な生命の水を湛えた "ビス湖" 。ビス湖の水は滝となって下界に流れ落ち、そこに暮らす人間たちを絶えず潤し続けていた。生命の水は流れ落ちる間に神々の恩恵をすべて失い、ただの水として降り注いでいたのだが、人間たちにとっては恵みの水であることに変わりはない。そんなビス湖を取り囲む三日月型の大地で暮らしていたのがエルフやグヴェルクといった童話の中の住人たちである。
長命種である彼らは古より語り継がれてきた知識や歴史の編纂作業に従事し、膨大な数の書物を生み出した。それら書物は ”大図書館” に収蔵され、果てなき叡智は分け隔てなく住人に解放されてきたのである。
あるとき、ダークエルフのひとりにこんな考えが浮かんだ。「もし、この知識を人間に与えてしまったら、彼らはどう動くのだろうか」と。素朴な好奇心に突き動かされた彼は、人間界と始天の大地を隔てる絶壁を克服する技能と道具の作り方を人間の言葉で小冊子にまとめ、滝に流してしまう。
三百年の時を経て、ダークエルフに回答がもたらされる。彼らがやってきたのだ。
彼らは小冊子の指示通りに絶壁に階段状の足場をこしらえていた。上る者、下りる者、二人分の体重に荷物を加えた荷重に耐えうる強度を保持し、冊子にはない落下防止の柵まで追加していたのだ。武器や防具にも万全を期していた。記された地図やエルフたちの武器情報を軽視することなく、対応策と準備にしっかりと時間をかけていることは誰の目にも明らかである。
かたや、始天の大地の住民はといえば、お粗末という他なかった。
そもそもこの土地に国家は存在しない。
エルフもグヴェルクも獣人も、気に入った場所があれば自由に住処を作り、勝手気ままに暮らしていた。群れるのが好きな者、孤高を好む者、異種族間の交流を求める者。それを咎める者はここにはいない。長命種ならではのんびりとした空気で満たされて自由に日々の生活を謳歌していたのだ。それが侵略者の急襲で一変する。エルフの弓矢は競技に特化しており、もはや殺傷能力は皆無に等しい。ドワーフの斧は斧の形をした工芸品であり、刃物としての機能は存在しない。獣人の牙は完全に退化し、剣もナイフも道具と芸術品に両極化していた。
戦況は一方的な惨殺だった。
美しいエルフの顔は無惨に切り刻まれ、ドワーフやグヴェルクは四肢を引き裂かれてビス湖に打ち捨てられた。獣人はその毛並みを狙われて老若男女問わず狩り尽くされた。こうして、始天の大地は人間たちのものになったのである。
だが、凶事はこれで終わらない。
始天侵略の先陣を切って活躍してきたメラノイ人が反乱を起こしたのだ。
いや、正確には反乱でなかった。
ビス湖畔に沿って、ぐるりと半周した先にある陰渓の森。そこには勇猛果敢な戦闘民族たるメラノイ人すらも畏怖する神域の空気が漂っていた。メラノイ人は神の姿や神の言葉とされる抽象的な幾何学模様を褐色の肌に彫ることで恐怖を克服した、敬虔なる神の信徒である。そんな彼らが神の世界に続く場所と噂される森への侵入を避けたのは当然であろう。しかし、死骸で舗装された地面を踏み越え、骸の椅子に腰掛け、頭蓋の盃で酒を酌み交わす白き肌の者たちは、森の手前で引き返してきた彼らを反乱したかのように錯覚したのである。
色鮮やかな宝石が散りばめられた黄金の斧、水晶の刃を持つ神秘的な剣、飛距離ばかりが著しい不思議な弓矢。それら武器を携えて、肥えた男たちが身構える。額に汗して拾い集めた宝物をメラノイ人たちに奪われるくらいなら、ここで武器として使ってしまおうという算段なのだろう。
その姿は財宝に目が眩み、神の領域への侵攻をも辞さない愚かな盗賊に見えたとしても無理からぬものであった。褐色の肌の者と白き肌の者がカウハイド川を挟んで対峙する。メラノイ人たちは神域を踏み荒らし、穢そうとする愚者から森を守るため。そして、白き肌の者は自分たちの利益を守るため。相入れぬ二つの正義が橋の上で衝突し、激しく絡み合った。朱に染まった川面にはいくつもの死骸が浮かぶ。静かな流れに乗ってビス湖へと運ばれた彼らは、やがて滝に到達し、そこから生まれ育った人間界へ還っていくのだ。
激しい戦闘は数日に渡って繰り広げられた。
だが、日が経つにつれ、メラノイ人たちの劣勢は明らかになってくる。白き肌の者たちは、屍の山をいくら築こうとも毎日のように下界から絶壁の階段を登って人員が補充されるわけだが、地上世界の限界域とされる陰渓の森を背に戦うメラノイ人にその策を講じることはできない。滝からこぼれ落ちた白き者の死骸から、すでにメラノイ人たちが反旗を翻したという情報は広く伝わっており、人間界でもメラノイ人に対する攻撃は始まっていたのだ。ただでさえ少数民族のメラノイ人。いくら戦闘に長けているとはいえ、多勢に無勢では勝ち目がない。
人間同士の争いは意外なまでにすんなりと決着する。




