第1話 世界の終わり、陰渓の森(2)
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崖から駆け下りた先に待っていたのは土煙に閉ざされた世界だった。
これでは剣を振り下ろした場所にいるのが敵なのか味方なのか判別も難しいだろう。スレオニールは金属の擦れ合う音に向かって慎重に足を進める。地表とて油断はできない。思わぬ地形の変化や敵遊撃兵の存在、奇岩地帯を縄張りとする猛毒生物の襲撃などの懸念があるからだ。だが、移動に時間をかけている場合でないこともまた事実。自分の身の安全と奮戦する無辜の兵たちを秤にかけ、スレオニールが選んだのは兵の生命だった。
すべてのリスクを背負い込んで脱兎の如く走り出そうとした瞬間、視界にふたつの影が飛び込んできた。
「うおっ!」
驚愕の声が思わず口をつく。すぐに「しまった!」と後悔するが後の祭りである。ふたつの影は声に反応したのか動くのを止め、スレオニールの反応を伺っている。彼はゆっくりとマントの合わせ目から手を忍ばせ、腰から小振りのナイフを抜き取った。戦闘用ではないため心許ないが、ないよりマシだと考えたのだろう。
幾重にも重なった灰褐色のヴェールを捲っていく。しだいに露わとなる輪郭。最後の一枚を剥ぎ取った時、それは現れた。
「獣人⋯⋯?」
目の前には兄弟と思しき幼い獣人が立っていた。金色の立髪、頭の上にピンと立つ耳、綿毛で覆われた顔には突き出た鼻口と青い双眼。人間のような衣服を纏い、二本足で器用に立つ姿を目の当たりにしてスレオニールは言葉を失った。ツェーネン王国内はもちろん、隣接するヘターレンデ公国、国境に跨るここ奇岩地帯でも獣人の目撃例は皆無。今やおとぎ話の中にしか存在していないといわれる獣人が肉体を伴って目の前に立っているのである。声を失うな、というのが無理というものであろう。
「本当に獣人なのか?」
誰に問うでもなくスレオニールが口にした言葉に、大きめの獣人がぎこちなく頷いた。
「人間の言葉がわかるって本当なんだな」
今度は大きめの獣人にしがみついている小さな獣人がコクコクと何度も頷く。
こちらは丸っこい輪郭でかなり仔犬感が強い。
「ここで何をしている? 人間の群れがあそこで戦ってるんだ。危険なことくらいわかるだろう?」
真っ白な頭の中から紡ぎ出た自分の言葉が保護者視点だったことに驚くスレオニール。
「人魂を⋯⋯」
少年の弱気な声色がスレオニールの耳を掠めた。
「うん?」
「人魂を取りに来たんだ」
人魂⋯⋯?
スレオニールは首を傾げた。
言われてみれば、たしかに少年たちは手に虫取り網を持ち、手作り感のある虫かごを携えている。奇岩地帯を越えた先に広がるビス湖で魚獲りを、と説明されれば納得できる格好であり不自然さはない。だが、人魂と聞けば話は別である。獣人は架空の存在で実在しないと思われてきた。今でもスレオニールを除く全ての人間がそう考えているだろう。いや、目の前で獣人と対峙しているスレオニール自身、半信半疑なのだ。そのため、獣人の生態については誰も何も知らないのである。
獣人は人の魂を主食とする。
そのため、彼らは戦場に出没するのである。今しがた亡くなったばかりの兵士の魂を貪り喰うために。
獣人に喰われた魂は天国へ辿り着けず、怨嗟の唸りをいつまでも上げ続けるのだ。
岩間を吹く風に乗って。木々を揺らす風に乗って。
子供に語り聞かせる寓話ができそうだ。
スレオニールは己の夢想に、柄にもなくストールの下の口元をほころばせた。
「あのぅ⋯⋯もう行っていいですか?」
夢想を打ち砕く声が彼を現実に引き戻す。
「ああ⋯⋯いや、待て。人魂を取ると言ったな? 取ってどうする、喰うのか?」
ふたりの少年獣人が顔を見合わせる。そして、プッと吹き出した。
「あはははは。食べませんよ、そんなの」
「大賢者が欲しがってるんだ。人魂を持って行ったらお金と交換してくれるんだよ!」
「大賢者?」
またしても謎キーワードの登場である。
だが、スレオニールには思い当たる節があった。
記憶領域の奥の奥。ツェーネン王国での最古の記憶である。




