第86話 ケースの覚醒、学問を「着こなす」
パーティー会場となる巨大な天幕の中は、既に多くの招待客で溢れかえっていた。
煌びやかな照明、楽しげな音楽、そして芳醇な料理の香り。
表向きは華やかな宴だが、その裏では見えない攻防が繰り広げられていた。
会場の隅、給仕のふりをして潜入していたケースは、額に冷や汗を浮かべていた。
彼の懐にある小型魔力計が、異常な数値を叩き出していたからだ。
(……まずい。公爵側の魔導師たちが、探知結界を張り始めている)
彼は魔力視覚を使い、会場全体を覆う微細な魔力の網を捉えた。
それは、蜘蛛の巣のように張り巡らされ、少しでも異質な魔力が触れれば即座に警報を鳴らす仕組みになっている。
ストレイが仕掛けた照明や音響のギミック、そして裏手に隠されたフロンティア号。
それらが感知されれば、作戦は水泡に帰す。
(どうすればいい? 僕には彼らを倒す力なんてない……!)
ケースは震える手で、懐の魔導書を握りしめた。
彼は天才的な理論家だが、実戦経験は皆無に等しい。
王立魔導院の象牙の塔で、安全な場所から魔法を研究していただけの男だ。
そんな彼に、百戦錬磨の戦闘魔導師たちを出し抜くことなどできるはずがない。
(社長に連絡するか? いや、通信を使えばその魔力波を感知される。
僕が何とかするしかないんだ!)
彼は必死に思考を巡らせた。
既存の魔法理論では、この結界を無力化するには、同等以上の魔力で相殺するか、術者を物理的に排除するしかない。
どちらも、今の彼には不可能だ。
その時、ふと彼の脳裏に、ストレイの言葉が蘇った。
『いい? ケース。
魔法ってのはね、教科書通りに使うもんじゃないの。
知識は頭に詰め込むだけじゃ重いだけ。
それを自分の肌に馴染ませて、自在に「着こなす」のが一流の魔法使いよ』
――着こなす。
ケースはハッとした。
彼は今まで、魔法を「道具」として、あるいは「数式」としてしか見ていなかった。
けれど、ストレイは違う。
彼女は魔法を「服」のように扱い、環境に合わせてリフォームし、自分の体の一部として使いこなしている。
(そうだ……! 対抗する必要なんてない!
相手の結界を「利用」すればいいんだ!)
ケースの目に、理性の光が戻る。
彼は魔導書を開き、即興で術式を書き換え始めた。
探知結界の波長を解析し、それに同調する「迷彩魔力」を生成する。
それを会場全体に薄く広げれば、ストレイたちの仕掛けを「背景の一部」として誤認させることができるはずだ。
「……計算完了。
やるぞ、僕の魔法を!」
彼は給仕の盆を置き、魔導書を掲げた。
詠唱はいらない。
必要なのは、イメージと、それを形にする意志だけ。
「魔力同調、『カメレオン・コート』!」
彼から放たれた微弱な魔力が、会場の空気に溶け込んでいく。
それは波紋のように広がり、探知結界の網目に触れた瞬間、その色を変え、質感を模倣した。
警報は鳴らない。
結界は異物を感知したつもりで、実際には何も捉えていない状態に陥ったのだ。
「……成功だ!」
ケースはガッツポーズをした。
彼の手はまだ震えていたけれど、それは恐怖からではなく、武者震いだった。
彼は初めて、自分の知識を「武器」として使いこなし、戦場に立ったのだ。
(見ていてください、社長!
僕も、チームの一員として戦えます!)
彼は自信に満ちた顔で、再び給仕の仕事に戻った。
その背中は、以前よりも少しだけ大きく見えた。
一方、裏手のテントでモニターを見ていた私は、ケースの活躍に気づき、ニヤリと笑った。
「……やるじゃない、弟子一号。
合格点をあげるわ」
これで、最大の障害は取り除かれた。
公爵側の目は節穴同然。
私たちの準備は、誰にも邪魔されることなく完了したのだ。
「さあ、次は誰の出番かしら?」
私はモニターを切り替え、次の「役者」を探した。
会場には、道化師に扮したアルフォンスが、客たちの間を飛び回っている姿があった。
役者は揃い、舞台は整った。
開演まで、あとわずか。
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探知結界を欺いたケースは、額の汗を拭う間もなく、次なる一手に出た。
彼の役割は、単なる防御だけではない。
ストレイが描いたシナリオを、より効果的に演出するための「舞台効果」を担当することだ。
(社長の計画では、アイリス夫人と公爵を『裸の王様』に仕立て上げることになっている。
そのためには、彼らの権威を視覚的に削ぎ落とす必要がある)
ケースは会場の照明装置に目を向けた。
それは、魔石を光源とした最新式の魔導ライトだ。
彼は手元の魔導書をパラパラとめくり、光の屈折率に関する数式を探し出した。
「……見つけた。
光の波長を僅かにズラし、対象物の輪郭を歪ませる『道化師のレンズ』」
彼は呪文を唱えず、指先で空中に図形を描いた。
魔力糸が照明装置に絡みつき、その出力と角度を微調整していく。
誰も気づかないほどの、ごく僅かな変化。
しかし、その効果は絶大だった。
ステージ中央で自慢話をしているアイリス。
彼女にスポットライトが当たると、その光は彼女を美しく照らすのではなく、どこか間の抜けた、滑稽な印象を与えるように屈折したのだ。
厚塗りの化粧は浮き上がり、ドレスの派手な装飾は安っぽくテカり、彼女の表情はまるでピエロのように強調されて見える。
「オホホホ! 皆様、私のドレスはいかが?
公爵様からの贈り物ですのよ!」
彼女が高笑いをするたびに、客たちの間からクスクスという失笑が漏れる。
以前なら「素晴らしい」「お似合いです」とお世辞を言っていた者たちも、今の彼女を見ると、本能的に「何かおかしい」と感じてしまうのだ。
(よし、効果が出ている。
次は公爵だ)
ケースは視線をVIP席に移した。
そこには、ふんぞり返ってワインを飲んでいるバルバロス公爵がいる。
彼の周りには、威圧感を放つ私兵たちが控えているが、ケースの魔法は彼らをもターゲットにした。
光のフィルターがかかると、公爵の立派な軍服はサイズが合っていないように見え、彼の傲慢な態度はただの「偉そうなオッサン」のそれに変わった。
私兵たちの鎧も、なんだかブリキのおもちゃのように頼りなく見える。
「……おい、公爵様、なんか今日カッコ悪くねえか?」
「ああ。あんなに腹が出てたっけ?」
客たちがひそひそと囁き合う。
恐怖と畏敬の念が薄れ、代わりに軽蔑と嘲笑の空気が醸成されていく。
これこそが、ストレイが求めていた「空気作り」だ。
(すごい……! 僕にも、こんなことができるんだ!)
ケースは自分の指先を見つめ、震えた。
かつては机上の空論ばかりを追い求めていた自分が、今、現実の世界に干渉し、人の心を動かしている。
それは、どんな難解な論文を書くよりも、遥かにエキサイティングな体験だった。
「……ありがとう、社長。
僕に、魔法の本当の使い方を教えてくれて」
彼は心の中で感謝し、最後の仕上げに取り掛かった。
ストレイが登場するその瞬間に、最高のスポットライトを当てるための準備を。
一方、舞台裏のテント。
モニターを見ていた私は、満足げに頷いた。
「やるじゃない、ケース。
あんな繊細な光のコントロール、私でも難しいわよ」
彼の成長ぶりは予想以上だわ。
これなら、安心して背中を預けられる。
「さて、場の空気は温まったわね。
そろそろ、メインディッシュの時間よ」
私はマイクを手に取り、立ち上がった。
深紅のドレスが、私の闘志に呼応するように微かに発光する。
「みんな、配置について!
これより、作戦の最終段階へ移行する!」
私の号令と共に、フロンティア・テキスタイルの全員が動き出す。
ディーノ、ケイナ、ショウちゃん、アルフォンス、そしてケース。
それぞれの想いを胸に、決戦の地へ。
フロンティア家、最後の夜。
そのクライマックスが、今、始まろうとしている。




