第59話 父の放火と、滑り落ちる『強さ』の呪縛
深夜の王都、フロンティア・テキスタイル本店の前に、不穏な影が二つ揺れていた。
一つは、狂気を宿した目で店を睨みつけるアイリス。
もう一つは、彼女に操られるように、震える手で松明を握りしめた父、リックザクだ。
「燃やして、あなた。全部燃やしてしまえば、あの子も、私たちの借金も、全部なかったことになるわ」
アイリスが甘い声で囁く。
その声は、かつて傷ついたリックザクを慰め、彼を支配してきた『救い』の声そのものだ。
リックザクは虚ろな目で頷き、松明の火を見つめた。
「……ああ。燃やす。俺の邪魔をするものは、全部消すんだ。そうすれば、父上も俺を認めてくれる。俺は強いんだ」
彼の口から漏れるのは、何十年も前の亡霊への言葉。
長男でも次男でもない、ただの『予備』として育てられ、愛される代わりに暴力で躾けられた少年の悲鳴だ。
彼は今、目の前の店ではなく、過去のトラウマと戦っているのだわ。
(……哀れな人。でも、だからといって私の店を燃やすのは許さないわよ)
私は店の屋根の上から、冷ややかにその光景を見下ろしていた。
私の店には、すでに最強の防犯システム『バナナの皮トラップ(改)』が仕掛けてある。
一歩でも敷地内に踏み込めば、物理法則が彼らを拒絶するわ。
「いけ! やってしまいなさい!」
アイリスの叫びと共に、リックザクが咆哮を上げて突進してきた。
松明を振り上げ、店の扉を叩き割ろうとしたその瞬間。
ズルッ!
彼の足元の摩擦係数が、唐突にゼロになった。
踏ん張りが効かず、身体が宙に浮く。
まるで漫画のコマ送りのように、彼は綺麗に一回転し、背中から地面に叩きつけられた。
「ぐべぇっ!?」
松明が手から離れ、放物線を描いて彼の服の上に落ちる。
ボッ!
乾いた布地が火を噴き、あっという間に燃え広がった。
「あ、熱い! 熱いぞ! 助けてくれ!」
リックザクが転げ回る。
しかし、摩擦のない地面では起き上がることすらできず、彼は火だるまのまま滑り続けるしかない。
アイリスは悲鳴を上げて後退りし、夫を助けようともせずに逃げ出そうとしている。
「……本当に、いい性格してるわね」
私はため息をつき、屋根から飛び降りた。
このまま焼死させるのは簡単だけれど、それでは私の『お直し』が完了しない。
彼には、生きて罪を償ってもらわなきゃいけないんだから。
「ケイナ、放水!」
「はいっ!」
店の中からケイナが飛び出し、魔導ホースで大量の水を浴びせかけた。
ジュウウウッ!
白煙が上がり、火は消し止められた。
ずぶ濡れになったリックザクは、煤まみれの顔で呆然と空を見上げている。
「……なんでだ。なんで俺は、いつもこうなんだ。強くなりたかっただけなのに。父上に、褒めてもらいたかっただけなのに……」
彼が絞り出すような声で泣き言を漏らす。
その背中には、服が燃えたことで露わになった、無数の古傷があった。
鞭の跡、切り傷、火傷の痕。
それは訓練という名の虐待の記録であり、彼がどれだけ歪んだ環境で生きてきたかの証明でもあった。
「……お父様。
貴方の強さは、誰かを守るためのものじゃなかったのね。
ただ、自分が傷つかないための鎧だった」
私は彼の前に立ち、魔導を展開して銀の針を取り出した。
物理的な傷は治せないけれど、心にこびりついた『呪い』なら、私が解いてあげられる。
「動かないで。その歪んだ根性、私が叩き直してあげるから」
私は針を彼の額に当て、魔力糸を流し込んだ。
脳裏に焼き付いた『父の怒声』や『アイリスの甘い囁き』という名の洗脳の結び目を、一本ずつ丁寧に解きほぐしていく。
痛みを伴う作業だわ。
でも、膿を出し切らなきゃ、傷は癒えないのよ。
「う、ぐあああああっ! やめろ! 俺の中に入ってくるな!」
「暴れないで! これは手術よ! 貴方が一人の人間として立ち直るための、最初で最後のチャンスなんだから!」
私は彼を押さえ込み、全魔力を注ぎ込んだ。
黒い霧が彼の耳や口から噴き出し、夜空へと消えていく。
それは、彼を縛り付けていた過去の亡霊たちだった。
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数分後。
リックザクの瞳から狂気が消え、代わりに虚脱感と、そして微かな理性の光が戻ってきた。
彼は私を見上げ、震える唇で呟いた。
「……ストレイ? お前、生きて……」
「ええ、生きてるわ。貴方が燃やそうとした店主としてね」
私は冷たく告げた。
彼が正気に戻ったからといって、過去の罪が消えるわけじゃない。
でも、少なくともこれからは、自分の意志で罪と向き合うことができるはずだわ。
「連れて行きなさい、ディーノ。彼には、たっぷりと反省してもらう場所を用意してあるから」
「へいよ。地下牢の掃除は済んでるぜ」
ディーノがリックザクを引きずっていく。
残されたのは、逃げ遅れて腰を抜かしているアイリスだけ。
「さて、お義母様。次は貴女の番よ。覚悟はいいかしら?」
私はニッコリと微笑み、彼女に歩み寄った。
真の黒幕、そして全ての元凶。
彼女の『お直し』は、もっと時間をかけて、じっくりとやってあげるわ。
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私は逃げ遅れたアイリスの前に立ち、月光を背負って彼女を見下ろした。
彼女の顔は恐怖で歪み、厚塗りの化粧が涙と汗で崩れて、まるで溶けかけた蝋人形のようだったわ。
「ひっ、来ないで! 近づかないで! 私には……私にはまだ、切り札があるのよ!」
アイリスは震える手で懐を探り、どす黒い光を放つ水晶玉を取り出した。
それは禁忌とされる『魂喰らいのオーブ』。
他人の生命力を吸い取り、自分の魔力へと変換する外法の魔導具だ。
彼女はこれを使い、私を道連れにするつもりなのね。
「死になさい、ストレイ! あなたさえいなければ、私は……私は幸せになれたのに!」
彼女が水晶玉を掲げると、周囲の空気が凍りついた。
私の肌に、ちりちりと不快な痛みが走る。
けれど、私は一歩も動かなかった。
なぜなら、彼女が着ているそのドレスには、私が仕込んだ『安全装置』が作動しているからだわ。
「……残念ね、お義母様。その魔導具、使う相手を間違えてるわよ」
私が指を鳴らすと、アイリスが着ているドレスの縫い目が一斉に赤く発光した。
その裏地に編み込まれた防御術式が、外部からの攻撃的な魔力――つまり、アイリス自身が放とうとしている魔力を『敵性反応』として感知し、即座に封印モードへと移行したのだ。
「な、何!? ドレスが……動かない!?」
ドレスの生地が硬化し、アイリスの体を締め上げる。
彼女は悲鳴を上げ、水晶玉を取り落とした。
水晶玉は地面に転がり、パリンと音を立てて砕け散った。
「そ、そんな……。私の切り札が……!」
「貴女が縋っていたのは、いつだって他人の力ね。夫の権力、魔導具の力、そして虚飾のドレス。自分自身の中身なんて、最初から空っぽだったくせに」
私は彼女に歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
魔力視覚を通して見れば、彼女の深層心理に刻まれた『傷』がはっきりと見える。
貧しい少女時代。
薬が買えずに死んでいった家族。
そして、金持ちに媚びへつらいながら生きてきた屈辱の日々。
「……貴女は怖かったのね。また貧乏に戻るのが。何も持たざる者として、誰かに踏みにじられるのが」
「う、うるさい! お前に何が分かるのよ! 生まれた時から恵まれていたお前に!」
「恵まれていた? 笑わせないで。貴女たちに虐げられ、毒を盛られ、ゴミ溜めで死にかけた私が?」
私の言葉に、アイリスが息を呑む。
そう、私たちは似た者同士なのかもしれない。
奪われる痛みを知っている者同士。
けれど、決定的に違うのは、その痛みをどう処理したかだわ。
「貴女は他人から奪うことで穴を埋めようとした。でも私は、自分の手で新しい価値を作り出すことを選んだ。その違いが、今の結果よ」
私は硬化したドレスの拘束を少しだけ緩め、彼女の耳元で囁いた。
「安心なさい。殺したりはしないわ。
貴女には、生きてこの先を見届けてもらう。
貴女が捨てた息子フラッペが、どう更生していくか。
そして、貴女が見下していた私が、どう世界を変えていくかをね」
「い、嫌よ……! そんなの、死んだほうがマシだわ!」
「死ぬのは簡単よ。
でも、生きるのはもっとしんどいの。
貴女には、そのしんどさをたっぷりと味わってもらうわ」
私はケイナに合図を送った。
彼女は無表情で近づき、アイリスの手首に魔封じの手錠をかけた。
「連れて行って。地下牢の特別室へ」
「はい、お嬢様。……アイリス様、こちらへ」
かつて自分が虐めていたメイドに見下ろされ、連行されていく屈辱。
アイリスのプライドは、今度こそ完全に粉砕されたはずだわ。
「……終わったわね」
私は夜空を見上げ、大きく息を吐いた。
父と義母、そして弟。
フロンティア家を蝕んでいた『綻び』は、全て取り除かれた。
あとは、残された瓦礫をどう片付け、新しい土台を築くかだわ。
「さて、これで身辺整理は完了。次はいよいよ、領地の『本当の綻び』を縫いに行く番ね」
私は店に戻り、イマクサの地図を広げた。
そこには、まだ見ぬ問題が山積みになっている。
けれど、今の私には恐れるものなんて何もない。
最強の布陣と、最高の技術があるのだから。
「待ってなさい、イマクサ。
私のリフォーム技術、存分に見せてあげるわ!」




