第29話 強欲商人とケッターボール、そして王家の誤解
離れの工房に、朝の光が埃のダンスを照らし出しながら差し込んでいる。
だけど私の脳内では残念ながら既に、この貧乏子爵家という名の『セット』からいかに効率よく資産を運び出し、新たな舞台へと転換させるかの工程表が完璧なフォントで印字されているわ。
ケイナが淹れてくれた、少し香ばしい香りのする安物のハーブティーを啜りながら、私は手元にある『丸い物体』の感触を確かめたの。
それは、本館の倉庫に転がっていた古い革の端切れを、影銀糸で文字通り分子レベルの『六角形構造』に縫い合わせ、内部に摩擦係数を自在に操る魔法回路を封じ込めた、この世界で唯一の『絶対に破れないケッターボール』よ。
「さて、そろそろ強欲な観客……いえ、ビジネスパートナーが到着する時間かしらね。ショウちゃん、あんたも最高に可愛い顔をして、客寄せパンダの役をしっかりこなしなさいよ」
私の足元で欠伸をしていたショウちゃんが「なう」と短く応え、私の影銀糸の供給源として、その優雅な尾を卓上のボールに触れさせた。
その瞬間、ボールの表面に薄く張られた魔法の膜が、朝日を反射して虹色の光沢を放ったのは、これから始まる交渉が『勝ち戦』であることを示唆しているようで、私の芸人としてのサービス精神が心地よく疼いたわ。
ノックの音と共に現れたのは、街の大手『ゲイス商会』の会長。
ロドリ・ゲイス。
別名『ケッターボールを蹴る男』
彼は昨晩、この離れで『惨劇』が起きたという噂を嗅ぎつけていたのか、心なしか頬を引き攣らせ、私を「死神か聖女か」と推し量るような、油断のならない視線を向けてきている。
「……ストレイお嬢様、お元気そうで何よりです。本館の方では、昨晩、何やら『掃除屋』の連中が泡を吹いて逃げ帰ったとか、不穏な風が吹いておりましたが」
ロドリは商売人特有のへりくだった態度を見せながらも、その目は抜け目なく部屋の中を観察している。
彼にとって重要なのは私の安否ではなく、私が生み出す利益だけ。
そのドライさが、私にとっては逆に心地よいわ。
私はロドリの探りを入れるような言葉を、舞台の上のアドリブをいなすように優雅な微笑みで受け流し、手元にあったボールを、彼の足元へと無造作に放り投げた。
「そんな野暮ったい噂話よりも、ロドリ会長。貴方が愛してやまない『ケッター』の未来について、少しお直しをしてあげようと思ってお呼びしたのよ。
そのボールを蹴ってみて」
ロドリの視線がボールに釘付けになる。
彼は有名なケッター狂で、商談中だろうが何だろうが、ボールを見ると蹴らずにはいられないという悪癖を持っているのよ。
案の定、彼の右足がピクリと反応した。
「もし貴方の自慢の脚力で、その継ぎ目一つでも解くことができたら、私は大人しくアイリスの用意した『死』という名の幕を引いてあげてもいいわ」
ロドリの瞳に、商人の計算高さを上書きするような『ケッター狂』の情熱が灯ったのを、私は見逃さなかった。
彼は一度だけ私の顔を仰ぎ見てから、自慢の革靴でボールを勢いよく壁際へと蹴り込んだのよ。
「よーーし、このボールを受け取れーーーぃ」
ズドン!
重厚な衝撃音が工房内に響き渡り、普通のボールなら破裂して中身が飛び出しているはずの負荷がかかった。
けれど、私の魔法糸でパッチワークされたそのボールは、壁の漆喰をわずかに削りながらも、新品同様の真円を保ったままロドリの足元へと吸い付くように戻っていったわ。
ロドリ・ゲイス。
実家も『商家』であるにもかかわらず、彼が神から授かったのは「丸い空洞のものを強く蹴ることができる。」といったスキルが唯1つだけ。
ディーノの情報によれば、授かったスキルのせいで兄弟たちにさえバカにされながら純粋な商才と努力により、王都の商人で知らぬものが居らぬ地位まで上り詰めた男がロドリ・ゲイスだわ。
「……何だ、この吸い付きは。それに、この衝撃。魔法具の類かと思いましたが、これには回路の気配がない。ただの『縫製』だけで、物質の限界を超えているというのですか?」
ロドリはボールを拾い上げ、震える手でその縫い目を撫で回した。
彼の指先が、私が施した『六角形のハニカム構造』の精緻さに触れ、その意味を理解した瞬間、彼の顔色は驚愕から歓喜へと変わっていった。
「信じられん……! どんなに強く蹴っても変形しない、それでいて足への負担は皆無。これなら、プロリーグの試合で使っても三シーズンは保つでしょう! お嬢様、いやストレイ様! これを、このボールの権利を私にください!」
「あら、気が早いわね。
私はボールを売るなんて一言も言ってないわよ」
私はティーカップを置き、じらすように微笑んだ。
焦らされたロドリは、まるで餌を待つ犬のように身を乗り出してくる。
「で、では何を? 金ですか? 土地ですか? 言ってください、ゲイス商会の総力を挙げて用意させます!」
「私が欲しいのは、あんたの商会が抱えている『最高級の布地』と『魔導素材』の独占供給権よ。
それも、市場価格の半値でね」
「は、半値!? そ、それはあまりにも……」
「嫌ならいいわ。このボールの製法、ライバルの商会に持ち込むだけだから」
私がボールを取り上げようとするフリをすると、ロドリは慌てて叫んだ。
「わ、分かりました! 契約成立です! 素材でも何でも持って行ってください! その代わり、このボールの販売権だけは我が商会に!」
驚愕に震えるロドリの姿を見下ろしながら、私は心の中で快哉を叫んだわ。
これこそが、42歳の元芸人が異世界で手に入れた、専門知識という名の最強のボケ……いえ、チート。
にわか仕込みの構造理解が、本物のプロを絶句させるこの瞬間こそ、最高のエンターテインメントじゃない。
私がロドリとの契約書にサインを促すペンを走らせていると、窓の外から聞き慣れた軽い足音が近づいてくるのが分かった。
裏社会の情報収集に出かけていたディーノだわ。
彼は窓枠に手をかけ、ひょいと部屋の中へ入ってくると、ロドリの姿を見て一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに状況を察してニヤリと笑った。
「へぇ、商談成立って顔だな。さすが姐さん、仕事が早い」
「お帰りディーノ。こっちは順調よ。
で、そっちはどうだった?
組織の連中、私の『死』をちゃんと信じてた?」
私が尋ねると、ディーノの表情が少し曇った。
彼はロドリに聞かれないよう、私の耳元で声を潜めた。
「……ああ、信じちゃいるんだが、ちょっと厄介なことになってる。
組織のトップが、姐さんのことを『未知の魔導兵器』だと勘違いして、死体の一部だけでも回収しようと躍起になってるんだ」
「死体の一部?
私のデコイなら、もう渡したじゃない」
「それが、あのデコイの魔力が強すぎて、王家の目に留まっちまったらしい。
組織は手柄を独占するために、今度は『ストレイ・フロンティアの魂の残滓』とかいう訳の分からないものを回収しに、本物の騎士団に化けてここへ来るつもりだ」
「……なるほどね。
舞台の規模が、いつの間にか国家予算レベルに膨れ上がってしまったってわけか」
私はロドリとの契約書を回収しながら、その報告に、思わず笑みを深くしたわ。
舞台が大きくなればなるほど、幕が下りた時の拍手は大きくなるもの。
「上等じゃない。
それじゃあ、王家という名の特等席に座る連中にも、私の『綺麗なジャイ子の歌』を聴かせてあげようじゃないの」
私はこれから始まる、さらなる混沌に向けて筆を走らせることにしたわ。
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ロドリが震える手でサインした契約書を、私はまるでお宝を鑑定するように光にかざし、影銀糸で補強された紙面のテクスチャを指先で慈しむように撫でたわ。
これで最高級の布地と魔導素材が、私の指先一つで離れへと集まってくる経済の循環が完成した。
売れない芸人時代、小銭を数えながら特売の衣装を探し歩いていたあの惨めな夜に、今すぐこの契約書を叩きつけてやりたい気分だわ。
「ロドリ会長、貴方はただのボール売りで終わる男じゃないはずよ。
私がこれから仕掛ける『汚れなき美』の旋風に乗り遅れないよう、その商魂をしっかり磨いておきなさい。
貴方が流行を煽れば煽るほど、この世界の綻びは私のブランドによって美しく縫い直されていくんだから」
ロドリを追い出した後、私はケイナに命じて、本館から回収した美術品や母の遺産、そして工房の貴重な資材を、部屋の中央に広げた一着の『巨大なマント』の上へと集めさせたわ。
それはただのマントじゃない。
『にわかでごめん』の精神で『鉄道のコンテナ輸送の効率性』と、衣装ケースの圧縮収納術を魔法的に解釈し、裏地に幾千もの『空間を折り畳むステッチ』を施した、自走する倉庫とも呼べる代物よ。
(思い出を圧縮するのは、パッキングの基本よ。42歳にもなれば、捨てられない過去をどうコンパクトにまとめて、新しい舞台に持ち込むかが生存戦略の鍵になるんだから)
私が指先をピリリと震わせて魔導を展開し影銀糸をマントに走らせると、山積みにされていた家財道具が、まるでお菓子のパッケージが縮小するように次々とマントの裏地へと吸い込まれていく。
この光景を見たら、空間魔法を一生かけて研究している学者たちは、あまりの理論の飛躍に卒倒してしまうでしょうね。
「すげえな、姐さん。これなら城一つ丸ごと持ち出せそうだ」
ディーノが感心したように口笛を吹く。
彼は窓際で外の様子を伺いながら、組織の動きを警戒している。
「城は重いからいらないわ。
必要なのは、私たちの未来を飾るための素材だけよ。
……それで、組織の連中はいつ頃来るの?」
「もうすぐだ。
偽装騎士団の先発隊が、王都の検問を通過したって情報が入ってる。
目的は『ストレイ・フロンティアの魂の回収』だとさ。
まったく、死んでも迷惑な話だな」
「あら、私は生き生きしてるわよ。
でも、そうね……彼らが来るなら、最高のおもてなしをしてあげないと」
私は影銀糸のコルセットを微調整し、全身に魔力を循環させながら、最高に愉悦に満ちた笑みを浮かべて見せたの。
「いいじゃないディーノ、最高のタイミングよ。
引っ越し業者を呼ぶ手間が省けたわ。あんたはその部隊の前に立って、最高に威圧的な顔をして案内役を務めなさい。
私が『パッキング』したこの荷物ごと、私を優雅に王都までエスコートさせてあげるから」
「はあ!?
俺が案内役?
正気かよ姐さん、奴らは俺を殺しに来るかもしれねえんだぞ?」
「殺されないわよ。
あんたは『組織の命令で先回りしていた』って顔をしていればいいの。
それに、彼らの目的はあくまで私。あんたみたいな雑魚には興味ないわ」
「雑魚って……まあ、事実だけどよ」
ディーノは渋々といった様子で頷き、再び窓の外へと視線を向けた。
その背中には、覚悟を決めた男の頼もしさが滲んでいる。
「ケイナ、脱出用の身支度を整えて。
ショウちゃん、あんたはマントの中で警備担当よ。
変な手出しをしてくる奴がいたら、影からこっそり噛み付いてやりなさい」
「はい! お任せください!」
『フン、承知した』
私は空っぽになった離れの部屋の真ん中で、一人優雅にティーカップを掲げたわ。
アイリスが絶望。
父親が投資詐欺で発狂。
暗殺組織が私を担ぎ上げようとしている。
全ての『綻び』が、私の思い描いた通りの巨大なうねりとなって、新しい舞台へと繋がっていく。
十年分の『ボケ』と『ツッコミ』を込めて、私はこのフロンティア家という名の退屈な劇場に、最後のお別れを告げることにしたの。
さあ、騎士団を装った無料の運送業者諸君、私の『夜逃げ』という名のパレードを、全力で盛り上げてちょうだい。




