第25話 闇に紛れる『野暮ったい殺気』
静寂という名の薄いベールが深夜の離れを包み込んでいるけれど、その平穏はあくまで表面的なテクスチャに過ぎない。
その裏側、庭の植え込みの影から、粗悪な安物の裏地が擦れるような不快な殺気が、ひたひたとこの部屋の結界を侵食してきているのが肌に伝わってくるわ。
私はケイナが丁寧に淹れてくれた、本館の隠し倉庫から回収してきた最高級のダージリンを一口含んだ。
その芳醇な香りが鼻腔を抜けていくのと同時に、影銀糸のコルセットが私の体幹を完璧なまでに垂直に固定している心地よい緊張感を味わう。
前世の売れないピン芸人時代、出番直前の舞台袖で客席の「冷え切った空気」を察知した時の、あの胃がキリキリするような感覚。
それに比べれば、今庭の茂みで息を殺しているつもりになっている御仁が放つ殺気なんて、構成が甘すぎて笑いも起きない『新人芸人』のネタ見せみたいなものだわ。
「ケイナ、お茶のおかわりを頂戴、それからクッキーも。
これから始まる演目は少し長丁場になりそうだから、今のうちにしっかり糖分を補給して、座長としてのコンディションを整えておかないといけないのよ」
私の言葉に、ケイナは一瞬だけティーポットを持つ手を震わせた。
けれど、すぐに私の落ち着き払った横顔を見て、自分の中にある恐怖をプロの裏方としての覚悟で押し殺したわ。
音も立てずに滑らかな動作でカップを満たしてくれたのは、彼女もまたこの「不条理な舞台」の共犯者として完成されつつある証拠ね。
人を殺そうとする『殺気』は、万全の神が与えられし『魔導の力』があっても気持ちが良いものではないけれど、前世の舞台に上がった時に受けた「はやく終われよ、お前のあとの芸人が見たいんだ」という殺気に似た感情の中で全力で『歌ネタ』を完遂した経験が殺気を緩和してくれる。
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膝の上で丸まっていた銀狐のショウちゃんが、ふいと耳を立てて闇を見据えた。
彼が提供してくれた影銀糸が、外部からの異物……すなわち、アイリスが差し向けた『掃除屋』という名のノイズを感知したからに他ならない。
ショウちゃんは「ふん、雑魚め」とでも言いたげに小さく欠伸をして、また私のドレスのひだに顔を埋めた。
(さて、お義母様がいくら積んで雇ったのか知らないけれど、その足音の消し方は少し自己流が過ぎてリズムが一定じゃないわね。あれじゃあせっかくの闇という衣装が台無しだわ)
私は心の中で、まだ見ぬ刺客に対して辛辣なダメ出しを浴びせた。
魔力視覚を通して見れば、彼が足を踏み出すたびに、地面の魔力が不規則に乱れているのが手に取るようにわかる。
プロならもっと、空間に溶け込むように滑らかに移動するものよ。
私はティーカップをソーサーに戻すカチリという小さな音を合図に、魔導の帯域を広げコルセットに仕込まれた魔力循環を一段階加速させた。
背骨に沿って走る魔導の魔糸と影銀糸が熱を帯び、私の神経伝達速度を極限まで引き上げていく。
本来のこのひ弱な14歳の肉体であれば、今頃は魔力酔いで吐き気に襲われているはずの膨大なエネルギーだわ。
けれど、影銀糸によって編み上げられた「究極の補正下着」を通じて、それは私の全身の筋肉へと一切の無駄なく分配されている。
前世のキレッキレだった二十代の頃の動きさえ凌駕するほどの身体制御が、今の私の掌握下にあるのよ。
かつてマイナーな配信プラットフォーム『ワイワイ放送』で、わずか10人の視聴者という名の「イツメン」たちに見守られながら、酔っ払ってコスプレ姿でクダを巻いていたあの夜の孤独。
それに比べれば、今の私は、この異世界の理不尽さえも自在に縫い直せる魔法の針を指先に秘めている。
孤独なんて感じる暇もないほどに、充実しているのだわ。
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窓の外、月光を遮る雲が流れた瞬間に、庭の影が不自然に伸びた。
一筋の銀光が離れのテラスを駆け抜け、ガラス戸の隙間から鋭い刃物が音もなく差し込まれる。
それは、並の貴族であれば悲鳴を上げる暇もなく命を刈り取られるであろう、淀みのない「死のステップ」のはずだった。
けれど、私の目には、その動きの中に決定的な『綻び』が見えてしまって、思わず溜息を漏らしそうになったわ。
鍵を開ける手つき、踏み込む足の角度、そして呼吸のタイミング。
すべてが教科書通りすぎて、逆につまらない。
アドリブの効かない芸人が、一字一句を台本通りにしか動けない時のあの痛々しさに似ている。
「ねえケイナ、あのお客様に教えてあげて。
ステージに上がる時は、観客に背中を見せるのは三流のやることだって。
それに、あんなに殺気を隠しきれないなんて、まるで自分が主役だと勘違いしている素人そのものじゃない」
私は立ち上がり、真紅のドレスの裾をエレガントに捌きながら、正面の窓へと視線を向けた。
同時に、離れの四隅に張り巡らせていた防御結界の一部をあえて解除し、侵入者を中へと招き入れる。
罠だと分かっていても飛び込んでくるのが、三流の悲しい『さが』だもの。
ガラス戸が音もなく開き、夜風と共に黒い影が室内へと滑り込んできた。
闇の中から現れたのは、全身を黒い革鎧で固めた、感情を切り捨てたはずの暗殺者の姿。
顔は黒い布で覆われ、目だけが異様な光を放っている。
彼は無言のまま、手にした短剣を逆手に構え、私との間合いを一気に詰めようと床を蹴った。
速い。
確かに、一般人なら反応すらできない速度だわ。
けれど、彼が構えた短剣の角度や、踏み込んだ足の親指にかける重心の移動。
その一つひとつが、私の脳内に刻み込まれた『ある人物』の癖とあまりにも酷似していて、私は不意に、バナナの皮で滑る直前のあの懐かしい舞台の風景を思い出してしまったの。
(売れない頃の相方、ディーノ……まさかね。あいつがこんな物騒なファンタジー世界に、私より先に転生して刺客なんてアルバイトをしてるわけがないものね)
そんな馬鹿な想像を振り払うように、私は指先を小さく振った。
空中に待機させていた不可視の魔導糸が、刺客の足元に瞬時に展開される。
『摩擦係数ゼロ』の罠。
前世で私が死ぬ原因となったあの現象を、魔法で再現した意趣返しよ。
しかし、目の前の男は、足が滑る瞬間に絶妙な体幹バランスで踏ん張り、さらにその滑る力を利用して加速し、回転しながら私へと肉薄してきた。
……嘘でしょ?
この『滑り芸』への対応力。
かつて私とコンビを組んで、舞台上で何度も私がこぼしたドリンクや小道具で滑りそうになりながら、それを笑いに変えて体勢を立て直していた、あの動きそのものじゃない。
彼は回転の遠心力を乗せて、最短距離で私の喉元を狙う一突きを繰り出してきた。
その鋭利な切っ先が、私の首筋の皮一枚手前まで迫る。
けれど、その突きを放つ瞬間の、「間を詰める時の変なタメ」。
あれは、かつて私と一緒にネタ合わせをしていた時に、彼がツッコミを入れるタイミングで何度も見せていた悪癖そのものだったのよ。
私は恐怖を感じるどころか、懐かしさと呆れがない交ぜになった感情で胸がいっぱいになった。
同時に、プロの表現者としてのスイッチがカチリと入る音がした。
私は銀の針を一本、指先で弄びながら、向かってくる死の影に対して、社交界の令嬢が施すにはあまりにも攻撃的で、かつ芸人としての鋭い感性に満ちた不敵な笑みを浮かべてみせたわ。
「……いい度胸ね。その野暮ったいステップ、私が直々に矯正してあげるわ!」
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空気を切り裂く鋭い風切り音と共に放たれた銀色の閃光が、私の喉元数ミリの地点を冷徹に通り抜けていくけれど、私の意識は恐怖に支配されるどころか、その攻撃の軌道の美しさと実用性の欠如を冷静に天秤にかけていたの。
魔導から魔力を供給され続ける影銀糸のコルセットが私の横隔膜を力強く押し上げ、魔力の鼓動を四肢へと最短距離で送り届けてくれる。
そのおかげで、今の私はまるで重力という名の『演出家』から自由になったかのように舞える。
最小限の予備動作だけで、死の舞踏すら軽やかなステップへと変換できるのだわ。
暗殺者が放った二撃目、心臓を狙う一突きに対して、私は右足の親指に全魔力を集中させ、床を蹴るのではなく『滑らせる』ことで、かつてバナナの皮で滑ったあの瞬間の加速を意図的に再現して見せたのよ。
相手の動揺が、黒いマスク越しにも手に取るように分かるわ。
彼にしてみれば、病弱で死にかけのお嬢様を始末するだけの、簡単な『営業』のはずだったのでしょう。
けれど、蓋を開けてみればどうかしら。
ターゲットが自分以上のキレッキレでダンスを踊っているのだもの。
……無理もないわね
(この足運び、この踏み込みの深さ、そして攻撃が空振った後の僅かな右肩の沈み込み……どこかで見たことがあるどころか、私はこのリズムを何年も隣で聴き続けていたんだわ)
私の脳裏に、湿った地下の稽古場で、汗まみれになりながら「今の間じゃ客は笑わない」と怒鳴り散らしていたあの頃の風景が、鮮明なテクスチャを伴って蘇ってくる。
目の前の刺客は再び闇に紛れようと、独特の円を描くステップで私の死角へ回り込む。
けれど、その動きはあまりに『彼』の舞台上の癖をなぞり過ぎていたわ。
次にどの位置で立ち止まり、どのタイミングで次の台詞……いえ、攻撃を繰り出してくるか。私には、完璧な台本を読んでいるように手に取るように分かるのよ。
私はティーカップをテーブルの端に置き、わざとらしく大きく溜息を吐いてから、影銀糸のテンションを一気に緩めて、あえて無防備な背中を晒して見せた。
案の定、刺客は私のこの隙だらけの誘いに乗り、勝利を確信したであろう最速の踏み込みで、背後から短剣を振り下ろしてきた。
けれど、その瞬間の彼の速度が上がれば上がるほど、私の中の「芸人としてのプロ意識」が、もはや沈黙を守ることを許さなかったの。
「そのマ、半歩早いわよディーノ!」
深夜の離れに響き渡ったのは、か弱い少女の悲鳴ではなく、劇場の最後列まで届くほどによく通る、芸人の魂がこもった痛烈なダメ出しだったわ。
私の叫びと同時に、私は左手から放った透明な魔法糸を彼の足首に絡ませ、彼が次に踏み出すはずだった『完璧な一歩』の着地点を、数センチだけ強引に外側にズラして固定したの。
ガクン、と無様に膝をつき、勢い余って床に這いつくばった黒装束の男は、殺気を忘れて呆然とした表情で私を見上げ、その構えは無残なほどに崩れ去っている。
「……姐さん?
?
いま、姐さんって言ったのか?」
マスクの奥から漏れたその声は、かつて一緒に『ワイワイ放送』で安い発泡酒を飲みながら、いつか売れてやるってイツメンたちと語り合っていた、あの冴えないけれど愛嬌だけはあった相方。
ディーノの声そのものだった。
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私は腕を組み、影銀糸のコルセットで補正された完璧な姿勢のまま、床に転がったかつての相方を冷ややかな、けれどどこか懐かしさを孕んだ視線で見下ろし、指先の魔法糸をピリリと震わせて警告してあげたの。
「いい? 暗殺も漫才も、肝心なのは客の予想を裏切ることよ。
あんたのそのステップ、何年経っても相変わらず右足から入る癖が治ってないじゃない、そんな野暮ったい殺気じゃ、アイリスみたいな三流の観客さえ満足させられないわよ」
月の光が雲の切れ間から差し込む。
それは、豪華なドレスに身を包んだ私のシルエットと、泥棒のような格好で這いつくばるディーノを、残酷なほど鮮やかに照らし出した。
アイリスが送り込んできた『最強の掃除屋』との対峙。
それは血塗られた惨劇ではなく、『最悪の再会』という名の不条理な公開ネタ見せへと変貌したのだわ。
「……信じらんねぇ。マジかよ。こんなところで、こんな形で……」
ディーノは震える手でマスクを剥ぎ取った。
そこに現れたのは、見慣れた、けれど少しだけ精悍さを増した相方の顔だった。
「やせたわね?」
「は? そんな可憐な美少女ずらして、第一声がそれかよ!?」
私が最後に見た時は、一度区切りを付けて実家に戻ると居酒屋の安酒と将来への不安で浮腫んでいたけれど、今は死線を潜り抜けてきた男特有の鋭さが宿っている。
それでも、私を見るその瞳の奥にある怯えと親愛の色は、何一つ変わっていなかった。
「久しぶりね、ディーノ。
元気そうで何よりだけど、再会の挨拶にしては物騒すぎない?」
私は足元のショウちゃんに目配せをして、彼を拘束していた糸を解かせた。
ショウちゃんは「フン、詰まらん」と鼻を鳴らして、ディーノの周りを一周してから、私の影へと戻っていった。
「可憐な美少女に変身は無視かよ!
あいかわらす草わくぜ。
それこそ姐さんこそ、なんだよその格好。
すげぇ似合ってるけど、中身はあのおばさんなんだろ?
ギャップで風邪引きそうだぜ?」
そこは、スルーするのがモテる男なのに、顔は良くなっても相変わらずね。
「あら、お褒めの言葉ありがとう。
でもね、中身がおばさんだからこそ、このドレスを着こなせるのよ。
若さだけの小娘には出せない、人生の重みが詰まってるんだから」
私たちは視線を交わし。
数秒の沈黙の後。
同時に吹き出した。
殺し合いの直後だというのに、空気は一瞬にして売れない若手の楽屋裏のそれに変わってしまった。
「ははっ、違げえねえ。
姐さんのその口の悪さ、懐かしすぎて涙が出そうだ」
「泣くのは早いわよ。
あんた、アイリスに雇われたんでしょ?
失敗したらどうなるか、分かってるの?」
私の問いかけに、ディーノの表情が一瞬で曇る。
彼はゆっくりと立ち上がり、自分の首筋にある刺青のような紋章を指差した。
「ああ。俺は今、『暗殺貴族』の飼い犬なんだ。
この紋章がある限り、俺は組織の命令に逆らえない。
失敗すれば、遠隔で心臓を止められる」
「……なるほどね。相変わらず貧乏くじを引く才能だけは一流だわ」
私はため息をつきながら、魔導を走らせ彼の首筋の紋章を魔力視覚で解析した。
複雑な呪術回路。
命を人質に取る、悪趣味な首輪だわ。
けれど、私の目には、その回路の『綻び』がはっきりと見えていた。
「でも安心して。
そんな安物の呪い、私がちょちょいとリフォームしてあげるから」
「えっ?
リフォームって、姐さん、これ呪いだよ?
服のシミ抜きとは訳が……」
「同じよ。不要なものを取り除いて、必要なものを足す。
それがお直しの基本でしょ?
さあ、じっとしてなさい。
あんたのその首輪、もっとお洒落なチョーカーに変えてあげるわ」
私は銀の針を構え、不敵に笑った。
再会を祝うダンスは終わった。
ここからは、私たちの新しいコンビ結成のショータイムよ。




