1-8
羽と尻尾。
それは悪魔か人間かを見分ける境界線。憑依では現れない。
「まずい……マジで転身しやがった」
男の呟きはレナの耳には届いていなかった。
「クロウ?! いやあっ! いやあぁああああ!!」
クロウだったモノが――異形がゆらり、と立ち上がった。
赤黒い身体は豹を思わせる肉食獣に似ている。爛々と赤く光る眼には、黒い筋が通っている。
「豹形――悪魔オセの眷属か!」
男の言葉と同時に異形が吼え、腕を大きく振り上げた。
瞬間、耳をつんざく轟音。
砂煙と共に床が粉砕される。ひしゃげた獲物を想像して異形は嗤い声を発した――が。
「いきなりとは危ねーな」
砂煙の向こうに、肉塊と化したはずの獲物が立っている。
飄然と近付いてきた人影に、レナは目を瞠った。
「あ、貴方、燃料スタンドの!」
「覚えててくれたんだ……っと!」
僧衣の男は秒速でレナを抱え、床を蹴る。
ごう、という咆哮と共に剛腕が再度振り下ろされる。リュカたちがいた場所は粉々になり、振動で崩れかけた天上から粉塵が落ちた。
伏せた床でレナは男の黒い僧衣を見て瞠目する。
「神父……貴方、祓魔師なの?!」
「オレはリュカ。祓魔師は祓魔師でもフリーの方。狩師とも呼ばれる」
「狩師ですって?!」
レナが息を呑む。リュカは、黄昏色の瞳でレナを見据えた。
「こうなることを見越したJSAFと祓魔師協会が、あんたの彼氏に賞金を懸けた」
異形が吼えて突進してくる。
「わかるか? あんたの彼氏はドラッグの副作用で転身――正真正銘の悪魔になった。そしてそれは、予想されていたことなんだ」
リュカはレナの手を引こうとしたが振り払われた。
「クロウを捕まえるの?!」
レナは振り返り、恋人に向かって叫んだ。
「クロウ! 狩師だわ! 逃げるのよ! ここから逃げ――きゃあ?!」
異形の繰り出した鉤爪がレナの頭を抉った――かと思われた寸前、轟音が響いた。
『セラフ』はリュカが独自に改造しており、対悪魔用特殊弾を常に装填している。そのため、見た目はコンパクトだか凄まじい威力を有する。
それが異形の腕をぶち抜き、凶爪の動きを止める。
どす黒い液体が奇怪に隆起した筋肉からぼたぼたと落ちた。
「ぐおおおおおおっ」
怒りに吼え、尻尾が床を叩く。
その瞬間、跳ね返った矢じりの如き尻尾の先端がレナの背を勢いよく打った。
「しまった!」
崩れ落ちるレナの身体をとっさにリュカが抱きとめ、抱えて走り、大きな柱の影に滑りこむ。
「ク……ロ、ウ」
「しっかりしろ!」
悪魔の鋭利な尻尾は、レナの背中に大きな穴を穿っていた。傷からは白い骨が見え、そこに見る間に血が溜まっていく。
「な、ぜ……」
その声はもはや恋人に届いていないと、レナ自身もわかっていた。
クロウは――クロウだったモノが地面を蹴り上げ、人間とは思えない速さでこちらに向かって跳躍する。
ああ、あれは。
ぼんやりする意識の中、レナは遠くで自分の呟きを聞いた。
――あれは、悪魔。
かつて家族を襲い、レナからすべてを奪った、悪魔。
「くそっ」
銃声が続けて響いた。0・3秒の速さで連射された弾丸が突進してくる悪魔の歪な脚を貫く。
咆哮が宙を切り裂き、悪魔は脚を止めた。
リュカはレナを抱えたまま走り、崩れかけた鉄筋コンクリートの柱の陰に滑り込む。止血のためリュカはシャツの袖をひきちぎった。
「あり……がとう」
「一時しのぎだ。早くJSAFと救急隊を呼ばないとあんたの命が危ない。が、JSAFと救急隊が到着する前に悪魔は排除もしくは動きを完全に封じなくてはならない。外部からの支援到着の前に祓魔か捕縛。これが祓魔の鉄則だ」
レナがか細く息を呑むのがわかった。
一般人でも知っている。祓魔とは、悪魔を完全に消滅させることだ。
リュカは柱の影から斜め上方を仰ぎ、瞬時に照準を合わせて数回トリガーを引く。
刹那、吹き抜け天井から吊るされていた看板が床に落ち、リュカたちと悪魔の間に落ちた。その轟音と悪魔の奇声がフロアに反響する。
「言ったが、オレは狩師だ」
素早く弾倉を装填、リュカはレナを振り返る。
「賞金のため、君の恋人を捕えるためにここへ来た」
「そ……んな……」
虚空を見つめたまま、レナの目から大粒の涙がこぼれた。
「二人で……幸せになる、はずだったのに……」
「よく聞け。賞金首としてJSAFに回収された悪魔は、対悪魔武器及び有効薬物の研究対象として国際祓魔研究所に送られる。君の恋人は貴重な転身例だからより多くの実験に使われるだろう。身体を刻まれ、死んだ方がマシと思うほどの苦しみを味わい、用が済んだら祓われる」
レナの口から力ない嗚咽が漏れる。悪魔が瓦礫の下から這い上がる轟音が響いた。怒りに満ちた咆哮が耳を劈く。
「狩師は祓魔師でもある。オレはここで彼を祓うこともできる。祓えば存在は消滅するが、生きながらの地獄からは解放される」
「クロウ……」
近付いてくる。爛々と赤いその目には悪魔の黒い一筋。
昔、レナの家族を目の前で喰らったそのおぞましい眼を決して忘れはしない。
そこにヒトの心の光は無い。
けれど、あれはクロウだ。
ずっとずっと愛してきた人だ。
「捕えるか、祓うか。君が選べ」
リュカはそれだけ言うとレナに背を向け、時間稼ぎという名の発砲に集中した。
◇
狩師の後ろで力無く壁にもたれたまま、レナは呟いた。
「クロウ……置いていかないでって、言ったのに……」
――置いていかないよ。
そう言ったかつてのクロウが脳裏で微笑む。レナも微笑んだ。微笑んだつもりだった。しかし、身体が不自然に震えるせいでうまく微笑めたかわからない。
「まずい、失血のショック症状が……おいっ、聞こえるか?! しっかりしろ!」
遠くで、狩師が何か叫んでいる。視線を動かせば、黄昏色の双眸がレナを覗きこんでいる。
美しい人。
この狩師の美しさは外見だけのものじゃない。彼には、彼の魂には、すがりたくなるような美しさがある。
思えば、あの燃料スタンドで会ったときから運命の歯車が動いたのかもしれない。
身体がひどくだるくて、言葉を発するのも億劫だ。
けれど、伝えなくては。
「おねがい……」
狩師は銃を構えたまま肩越しにレナを振り返った。レナは血濡れた手で、その黒い僧衣を握りしめた。
「クロウを、救って……神父さま」
一瞬、狩師は目を見開き、わかった、と静かに頷いた。