1-5
〈『悪魔の吐息』はゲヘナからきたドラッグって言われています〉
空中ウィンドウ越しに、ローズが言った。
すでに渋谷エリアの喧噪は遠い。
ホバーバイクは河川や橋の上下も自在に走れるため、無視しようと思えば信号を無視して走ることができる(JSAFに見つかったら即免許に×が付けられ、罰金を請求されるが)。
時折、普通乗用車にクラクションを鳴らされながらもリュカは国道20号に沿って西へ爆走していた。
〈流通元も製造方法も謎。成分自体もこの世界では未知の物質で、だからゲヘナから来た説が有力視される謎のドラッグです〉
「ゲヘナから来たドラッグ、ねえ。どこからそんなぶっ飛んだ話になるんだか」
〈この世界に悪魔が実在する以上、一般的にはゲヘナの門は今も開いていると考える人が一定数いるんでしょうね。『聖戦』のときにゲヘナの門は閉じたと報道されているけれど、実は開いたままなんだ、ってね〉
「まるで都市伝説だな。開いていると考える方がロマンがあるって?」
リュカは空を仰ぐ。視界を流れていく空はウソのように青い。まるで何事もなかったかのように鳥が飛んでいく。
――ゲヘナの門は、あの時、目の前で固く閉ざされた。
かけがいのない人を呑みこんで。
〈……カ。リュカ!〉
「ああ、聞いてるよ」
空中ウィンドウの中でローズが桜色の唇をとがらせる。
〈もう、ちゃんと話聞いてください! 『悪魔の吐息』が本当にゲヘナから来たかどうかはともかく、問題なのは世界中の繁華街でこの謎のドラッグが流通し始めていることなんです〉
「――アメリカ、中国、ヨーロッパ諸国連合、ロシア。オレが知る限りでもこれだけの国で流通している。しかも流通速度がハンパなく速い。十代、二十代の若い世代を中心にファッション感覚で使用されていることが原因らしいが」
〈説明する手間が省けました。デートばっかりしてるわけじゃないんですねー〉
紫水晶のようなローズの目が、ディスプレイ越しに半目で睨んでくる。
「まーまーローズちゃん、そう根に持たずに」
〈べつに根に持ってなんかいません。今度こそちゃんとクビを捕まえて賞金獲ってきてくれればリュカの私生活なんてどうでもいいですから〉
「は、はははは、もちろんちゃんと賞金獲ってくるよ」
〈その言葉忘れませんから。今度こそ賞金持って帰ってくださいねっ〉
「ははははは」
墓穴だ。言質を取られてしまった。コワい。これでしくじったら何をされるやら。
〈『悪魔の吐息』の話に戻ります。そういうわけで、異常な流通速度とその即効性により死者も相次いでいるんです。そろそろ世界中でSAFが足並み揃えて動き出すかも、っていうタイミングで今回の三浦クロウの事件です〉
視界の左上方に別ウィンドウが開く。
毎度おなじみの賞金首情報の画面。リュカはそこに移った男の顔を凝視した。
「ちょっと人相変わってるが、間違いない。渋谷の燃料スタンドで銃を乱射したのはコイツだ。JSAFが動いたなら、ただの薬がらみの事件じゃないということかな」
〈その通りです。彼はどこにでもいるような運び屋稼業のチンピラですが、彼が持ち逃げした『悪魔の吐息』の量が半端じゃないんです。時価1億ドルはくだらないとか〉
「……各国のSAFも動こうとしていたこの時期、三浦クロウが横領したブツをどこかの国で捌いたら国際問題になりかねないってことか」
〈それもありますけど、高額賞金の裏には祓魔師協会との緊急会議があったそうなんです〉
リュカは少しだけ眉を上げた。
「祓魔師協会? 悪魔が絡んでるのか」
〈はい。さっきも言いかけましたけど、それが高額賞金の理由です。『悪魔の吐息』の常用者には転身する例があるらしくて。それで、これは確かな情報じゃないんですが……三浦クロウはどうやら転身しているらしいんです〉
「なんだって?」
転身とは、悪魔に憑依されるのではなく、何らかの外的要因から悪魔《《そのもの》》になってしまうことを指す。
〈組織からの追手も巡回のJSAF隊員も、頭蓋骨粉砕とか殴打とか、普通の人間じゃありえない方法で大怪我、もしくは殺されています。また、現場で生き残った者たちの証言から、三浦クロウは転身しているんじゃないか、と〉
「なるほどね」
リュカが口の端を上げた。
「もし三浦クロウが完全転身しているなら、奴は悪魔だ。祓わなきゃならない。だが、転身したとはいえ相手は元人間だ。祓ったらつまりは殺人だ。祓魔師協会の祓魔師サマたちは汚い仕事はしたくない。だから賞金掛けて狩師が捕まえろって、まあそういうことか」
〈そう考えると腹立たしいですけど……賞金は破格ですから!〉
通信機の向こうでローズが拳を握る。
〈クロウを捕まえることができたら今月の光熱費どころか、これから数か月食卓にお肉が並びますよっ! なんなら卵も毎日! ああっ、炊き立てのご飯で卵かけご飯……!〉
「肉……卵かけご飯……」
リュカはごくりと唾を呑みこんだ。ぐう、と腹の虫も同調する。
「よし決めた。今夜はステーキ食う。俺はなんとしてでも三浦クロウを捕まえる!」
〈そうこなくっちゃです! じゃあ菜園からレタスとハーブを摘んでおきます!〉
「りょーかい」
リュカは耳を弾いた。トラガス部位のピアスはイヤホンになっていて、通信機のリモコンにもなっている。
久しぶりにローズの機嫌も直って、リュカはホッと胸をなでおろす。
「ま、ちょいとがんばりますか。あのイカれた男には借りもあるしな」
ホバーバイクのアクセルを深く踏みこむ。けたたましく鳴らされるクラクションの音も、あっという間に後方へ遠ざかっていく。
しばらくすると、目指す場所が見えてきた。
そこは広い河川敷。
白や黄色い花畑で囲われるように、自作のテントが点在する。
ゲヘナ開門以前、この世界に悪魔が存在しなかった頃、キャンプ場というものがあったという。今はもう古い本でしか見ることのできないその場所を思い出させる光景だ。
ゲヘナ開門以来、悪魔がもたらしたさまざまな社会変化から家や社会的地位を失う人が多く出た。そんな人々が身を寄せる場所として、広い公園や河川敷にはいつしか集落ができるようになり、コロニーと呼ばれていた。そしてコロニーは、花に囲まれていることが多い。
この河川敷のコロニーにも花が咲いている。もともと自生していた花もあるが、多くは後から人の手によって植えられた花だ。
とてものどかな風景だが、ただの景観美のためだけの園芸ではない。
悪魔は花の香りを嫌がるのだ。
中でも薔薇が究極に効き目があることがわかっているが、ジャスミンやマリーゴールドなど、香りの強い花であればあるほど効果があるとされている。
コロニーの隅、白い可憐な花が咲きみだれる近くにホバーバイクを停めて、リュカはシートを開けた。
大きなシートの下は荷物入れになっている。
汚れたシャツとキャップを脱ぎ、荷物から真新しい白いTシャツを出して着る。
特殊な金属製の細長いホルダーを開け、そこから鈍く銀色に輝く棒を取り出した。
それを両手で身体の正面に構え、低く聖句を呟く。
「In nómine gládii et rosae mundábo et exorcífic am ánimas corruptas.――剣と薔薇の名の元に我汚れた魂を浄め祓わん」
刹那、ぶうん、というわずかな振動音と共に銀棒から閃光が伸びる。
その閃光は、青白い刃。プラズマアークの生み出す無敵の剣。
斬れないものはなく、銃火器がほとんど通用しないという上級悪魔でさえも両断することができる。
その閃光の輝きを確かめるようにざっと確認して一振り、稲妻のごとき刃は一瞬で銀棒に納まった。
その銀棒をセミオート銃その他武器の収まった特注ホルダーに掛ける。
最後に、黒いカソックに腕を通し、リュカは目的のテントへ向かって歩き出した。