声のざわめき
新聞を手にしていた秋陽はその新聞を机に置くと、髪を梳いていた千重の後ろ姿を見た。
緩やかに髪は動き、その囁くような音が蝉の声よりも耳に届いて行くようであった。
七月は数日前に過ぎていき、避暑客は街や別荘地に増えつつあった。ホテルも少しずつ賑やかなようにやっていった。
廊下でも秋陽達が来た頃は人に会わないことなど珍しくもなく、静けさが張り詰めていたが、今は毎日のように大きな荷物を持った利用客が通り過ぎる方が多くなり、その光景にも慣れていっていた。
ある時に、二人は別荘街の方へ散歩をしていた。この頃は秋陽は暇を見つけては千重を散歩に誘っていた。
雲場池に散歩した後はしばらく出掛けることはなかったが、それから少しした日、秋陽は千重に散歩を誘った。千重は秋陽が夕立が降った日に外へ出ることに懲りたと思っていたので、秋陽の言葉に目を丸くした。
秋陽は静かな人通りの少ない道を好んだ。そしてベンチを見つけてはそれに座り、しばらく考え事に耽っているようであった。千重はそんな秋陽を見ながら、時々昼寝をしていた。
ただ、秋陽は雲行きが怪しい時などはすぐに引き返したり、傘を持って出掛けたりしており、彼女の心の中には夕立にあった時の記憶が常に一緒にあるのだと千重は思っていた。
人が少なく静けさに溢れた街も日に日に人が見え、花の嘆く音がいつの間にか聞こえなくなっていた。
秋陽の歩くすぐ横を千重は並行して歩き、一軒一軒の別荘に目を向け、昨日まで無かった明かりがあると、そこに人の息遣いが聞こえてくるようだった。
木の影に打ち付けられた苔が薄暗く光り、そのきめ細かな間に日が当たり、人とすれ違うと、聞こえる呟くような話し声に二人はその時だけは無言になってしまうのであった。
「軽井沢もこの時期は賑やかになってしまうんやな」
「ですけど、東京よりは静かですわ。東京は様々な音が入り混じって騒がしいですもの」
「そうやな。ここはそこに比べたら幾分か静かかもしれへん」
秋陽は千重のこのような心静けさに現れた静寂を求めているものを感じ取ることが多くなった。東京での喧騒に千重は食傷しているように思えた。千重はそのようなことに痛ぶられ生きていたのであるから、今は静けさに寄り添えたら、それは彼女の望むものなのではないか。
だが、この街ですらも喧騒がすぐそばまで顔を出しており、千重の平穏は更に行く末を望んでいるように思えた。
だが、不思議と秋陽はこのくらいの喧騒が心地良かった。元々静かな環境も人が集まるような騒がしい場所も好むのもあってか、その両方が合わさった今の軽井沢は秋陽にとっては望むべきものになっていた。
千重にそれを言う事は無かった。千重の心持ちを弄ることはしたくなかったのである。
蝉の声が鳴り響くが、その声は千重の耳に届いているのであろうか。秋陽は彼女の中の静けさとは自分の思うものとは違うもののような気がした。それは細かい部分などは人によって違うものの、夏の自然が織りなす音と人工的な音は合わさることはないという一つ解離的な思いがそうさせるのだろうか。
二人のすぐそばの別荘で子供が犬と一緒に庭で走り回っていた。無邪気な声を出す子供とそれについていく犬の様子が二人の足を止めた。
輝く芝の上で子供は犬との遊んでいる風景はこの世の平坦な平和的なものだと秋陽は遠目に見ながらそう思った。
その声が聞き心地が良く、走る足音と、子供の声がいつまでも途切れることなく続くのではないかと思われた。
その記憶はいずれ秋陽や千重、また子供にしても尊き幼い輝かしい思い出として実態のない宝石としていなくなるまで残るのだろう。
二人は再び歩き出すと、自動車が二人の先を越して行った。秋陽は咄嗟的に千重を抱いた。その小さくなる自動車が見えなくなるまで抱き、体を離すと静けさに呼び覚まされたような風が吹き、それが今の二人を考えさせた。
瞬間的に行った事だが、それが、どのような関係を持って、どんな意味を持つのかを秋陽は今、気づいたかのように思った。
「強く抱いてしまったな。痛くなかったか?」
「その痛みも優しさに包まれていると、快楽のように思えます」
なんとも千重らしい答えに秋陽はやはり、この子は処女ではないのだと清々しい気持ちになった。悲しみの欠片がそこに僅かにあった。
赤い屋根の別荘が秋陽の前に立ち、それが心の内を見透かしているようであった。
別荘のガラスが日の光で反射し、その中にある淡い火のような灯だけが、そこにあるようで合った。