夕立
朝食を終えた時、秋陽は部屋に篭って仕事を始めた。
千重にはどんな話を書くのかは聞かされておらず、千重も仕事の邪魔になると思い、聞き出すようなことはしなかった。
秋陽は自身の身の回りの事を話にする傾向があり、私小説とは言わないが、自然主義に似た作風のものが多かった。千重との関係も時折話にしており、彼女の作品に登場する、若い女性は大抵は千重がモデルであった。
千重は部屋を出て、プウルへ向かった。外へ出て、人は数人見られ、男女が仲睦まじく泳いでいた。
千重はその周りを見渡し、着替え室で水着に着替えると、日差しに打たれながらその開放的な姿で着替え室を出て、プウルにゆっくりと浸かった。
夏らしい気持ちの良い日であったが、しばらくすると雨こそ降らないものの、雨雲が太陽の日差しに姿を隠しながら最初こそ小さく奥の方に、呆然としてそこにいたのが、徐々にその姿を大きくさせていった。
それによって人々がプウルから上がるのと同じくらいに千重もプウルを上がった。
「嫌んなっちゃう。せっかく晴れてたのに、今に雨が降りそう」
千重は近くにいた少し歳が上と思われる女性に話しかけられ、小さく愛想笑いをしながら返事をした。
「珍しいわね、一人でプウル?」
「もう一人連れがいるんですが、今、部屋にいて」
「それじゃ退屈ね」
「そうでもないですわ。ここは自然も美しくあるし、それらを眺めながら散歩するだけでも楽しいです」
「まあ、そうね。でももうすぐ、そうも行かなくなるわ。八月になると、避暑地は人が増えるもの」
女性は服に着替え終わり、千重に挨拶をして出て行った。千重はその女性の裸を思い出し、なんだか、それが平均的なもののように思えた。
柔らかな体にしなびやかな足取りで足音が微かにのみ耳に届いた。
空を覆っていた雨雲は再び姿を消し、空は日が差すようになった。千重はホテルを出て、近くを散歩しようと思い立った。
御坂ホテルの前に面する御坂通りに千重は出ると、道の端っこを歩き、影に重なった道々や雨に濡れたままの泥の地面によってか、落葉松のそこかしこに夏の過ぎ去りを予感させるような涼しさが風に乗って流れてきており、夏の始まりがすでに終わろうとしていた。
時折、道沿いに川が流れ、それに沿って歩きながら、せせらぎに耳を傾けると、それと同時に鳥の声が反響するかのように耳に響いた。
雲場池に着くと、しばらくそこで千重はのんびりと休憩をした。
地面は雨のせいで汚れていたので座ることは諦めたが、立ちすくみながら、その広い池の音の無いさざなみを幻を見るかのように思い、いつしか、晴れた青空が水面に良く映った。
反射した光に目を奪われ、千重は右手で目を覆った。眩しさに池を見つめることができず横を向いたが、そちらは山とも林ともつかぬ親縁が陽の光と同じくらい輝くようでいて、その緑の色がまた反射するも、眩しくはなくそれが心地良いくらいに光り輝いていた。
池の形から、雲場池はダイダラボッチの足跡と言われたりしているというのをホテルの従業員から聞いたことがあるが、千重は西洋人が言っていた白鳥の湖という言葉の方が上品な響で好きであった。
白鳥は千重の前には舞い降りることはなかったが、その雨上がりの気持ちの良い涼しさを身体に浴び、溢れる陽気が地面に染み込んでいくようであった。
遠くには二人の老夫婦がおり、近づくと、それは西洋人で、千重は英語で挨拶をしたが、相手は独逸人であったようで、お互いに辿々しい言葉遣いで外国の言葉を使用していた。老夫婦は杖を使用している女性を夫であろう男性が支えながら歩いていて、その長い年月の夫婦の仲と言うものが伺えた。
仲が良いというものを通り越し、お互いの重要なパアツになっているのである。
千重はそれを無形文化財に例え、二人を美しい二人が通り過ぎた後に呼んでみた。
背が小さくなった二人はそのまま消えていくようで、それが美しく、二人の終わり方が輝かしく綺麗に終わるのが、千重にはわかるような気がした。
千重と秋陽の関係はまだそこの足先にも及ばずにいたが、千重は長い時を自然に得れば老夫婦のようになるのはできるような気がした。勿論容易なことではないが、千重が秋陽を変わらず愛し、秋陽も今のように自分を愛してくれているのなら、千重はそのまま幸せに終わりたいものだと思った。
ホテルに戻ると、秋陽は仕事を終えたようで、椅子に座りながら、茶を飲んでいた。机に原稿用紙が置いてあり、千重はそれに目をやると、小説の構想と思われるものが書いてあった。
「なんとなく、書くものは決まったんや。軽井沢でのうちの心情を書く私小説にしようと思うわ」
「私小説なんて初めてじゃないんですか?」
「まあ、そうやけど、うちも元々は自然主義に影響を受けた訳やし、康雄が私小説で評価を得ているから、うちも真似して書いてみようかなって」
秋陽は仕事の時にする眼鏡を外し、束ねている髪を自由にしてあげた。その仕草が千重のエロティックな欲望を膨らませた。
「先生は午後もお仕事をされるのですか?」
「一応そのつもりやけど、別に急ぎではないから、千重に付き合うのでもええよ」
秋陽は千重の被っている麦わら帽子を目に取ったようで、千重はそれに気がつくと、恥ずかしそうに、ゆっくりと麦わら帽子を外し、胸の前に重ねた。
秋陽はもう少し、仕事をしていたいと言い、千重はそれが終わるのをベッドに座りながら、待っていた。ホテルのバアにサイダアが売っており、千重は二人分をそこで買い、その一本を秋陽に差し上げた。
秋陽はすぐには手をつけず、しばらく机に向かっており、千重は音を立てぬよう、サイダアを飲み、秋陽の流れるような背に恍惚の心を傾けた。白い服が薄く透けて、秋陽の下着が千重の目に入り、それに気がつくと、千重は見ては行けないものを見てしまったような心持ちになり、慌てて目を逸らすも、やはり、一度見てしまったものはなかなか離れることはなく、千重はその下着を秋陽に気づかれぬよう、じっと見ていた。背徳心と罪悪感の狭間で苦しみもがきつつもその、何気ない性を目撃した興奮は千重の記憶に強く刻み込まれてしまった。
秋陽が仕事を終えると、二人はお昼を食べ、そのまま部屋に戻らずにホテルを後にした。
秋陽は千重の後に続き、千重の赴くままについて行った。
御坂通りは木漏れ日がそこかしこに見られ、時折、その光の中へ体が入ると眩しさと共に日の暖かさが当たり、影に入り、髪に手を触れると髪は燃えたように熱かった。
少しずつ、眩しさと暑さのせいで木漏れ日が秋陽は鬱陶しくなっていった。
「千重は午前中ここらを散歩してたんか」
「はあ、その先にある雲場池という綺麗な湖のような場所まで歩いて行きました」
秋陽はこの距離を歩くのに、だいぶ体力がいるようであった。横を通り過ぎていくタクシイをとっ捕まえたい衝動に掛けられるも、千重は足で歩いてこその散歩と言いそうであるので、黙っていた。
途中には歩道沿いに小川がひっそりと姿を現した。
「これは雲場川です。この川の先に私達が目指している雲場池があるんです」
蝉の声が力強く鳴り響き、時折、その声が途切れるも再び同じように鳴き始め、秋陽はそれが電波のように思えた。
緩やかな坂になだらかな平穏を思うと雲場池はあっという間にそこに佇んでいた。
池の前まで来ると、空が開け、瞬く間に秋陽は帽子の影に目を隠した。
ただ、涼しい水に触れた吹き風に秋陽のスカアトが揺れた。
人は午前の時よりも幾人か目に入り、家族連れが一組おり、それ以外は夫婦が五組いた。全員が日本人の夫婦であった。
千重はその様子に午前中との景色が違うものに思われ異国のような湖が日本の豊かな湖に思えた。
ただ、それが本来のものなのであろう。ただ、人など関係なく、自然と動物がここの住人なのであり、我々はただの旅人のようなものであると千重は思った。
青く澄み渡る空が水面に映り、それと緑に輝く葉の色が水面だと空と同じように霞み、それが絵のように見えた。
二人はしばらくそこにいたが、一組の家族連れはもういなくなり、残りの夫婦も半分程はどこかへ行ってしまった。
残った夫婦に対し、秋陽達は何気ない儚さに強く打たれ、千重は秋陽に目を送り、秋陽は千重を連れ、その場を後にした。
池の周りを歩きながら、木の木の間を通り、葉を屋根のように思いながら、時々、立ち止まって、水面の景色を目に映していた。
「美しいな」
それは秋陽ですら、気づかぬうちにほろりと口から出た言葉であった。最初はその言葉の存在にすら気づかず、後々、千重が言ったのかと思った程であった。
「先生、後ろに、人が通られます」
千重がそう言い、秋陽が後ろを向くと、先程の夫婦の一組が秋陽達のすぐ横を歩いて行った。
「邪魔になるところやった。おおきに千重」
池に葉が一枚浮いていた。それが水面に映る葉と重なり、秋陽は葉が風に揺られながら移動するのを見て、初めてそこに葉の存在に気がついた。そして横を向き、千重を見ると、千重の横顔が白く輝き、その後ろの木漏れ日に当たった苔がそうでない苔と対照的に違うもののように思われた。
ああ、全ては同じものでもこうして正反対になっていくのだ。秋陽は自分の日に焼けた腕を袖を捲って覗き見てみた。それは千重の肌とは随分と違い、野生的であった。対して千重は人形のような肌を持ち、日に焼けないのが不思議であった。
「千重は日焼けはせえへんの?」
「私は、日焼けをしても黒くならずに赤くなっていつの間にか、皮が禿げてしまうんです」
秋陽は赤くなった肌の千重を思ったが、それは千重の背にあるぶたれた跡を思い出すものであった。なんとなく秋陽は気持ちが沈んでいった。
目の前の美しさに目を輝かせている少女は自身の醜悪の部分を隠しており、それを知らずにいると汚れのない人のように見える。だが、その醜悪を知っている秋陽はそれすらも儚げな美しさに襲われ、その影に口づけをしたいようであった。そして思わず千重の手を握った。
手汗なのか、汗なのかわからないが、秋陽は自身の手のひらが汗だらけなことに恥ずかしさを感じた。
千重はそれに気づいたのかは定かではないが、強く握り、その目を不思議そうに秋陽に向けた。それは最近は見なくなっていった幼さの一滴とも言える残りのような気がした。
聞こえない水の音が耳鳴りのように響き、それが苔から発しているような幻聴が秋陽を襲った。
静かな水の音が一定の調子でししおどしと似て、鳴っていた。だが、それは心の平穏を取り戻すと同時に鳴り止んでいった。
今のはなんだったのだろうと秋陽は思ったが、その不可解な現象は決して不愉快には感じなかった。
千重の白く、細い枝のような腕に秋陽はそれが腕でないような錯覚を受けた。
歩くと揺れる千重の髪に見惚れ、千重が秋陽の方を向いた時も、その事に秋陽は気づかなかった。髪が大きく動き、それが千重の顔に隠れた時、秋陽は何も考えずに千重の髪が見えなくなったことに悲しみを覚えた。
「どうされました?」
「いや、千重のな、髪を見てて、綺麗な髪やなと。人は見た目だけやないとは思うけど、千重はやはり綺麗や。でもそれ以上に、千重は心までが美しいから、うちはそれをどこまでも知ってるから、他の人が千重を見るよりも美しく映るんやろうな」
「私も先生が綺麗だと思いますわ。私よりもずっと心だって真っ直ぐに、自立心があり、見えるべきものが見えておりますもの」
千重の芯のある声は秋陽にその言葉の真実性を思わせた。それが恥ずかしくもなく、事実なのだと言う説得力があった。
木の下で二人は影に隠れ、そこに夜のような暗さがあり、秋陽は夜の二人っきりの部屋の中を思わせた。
虫が秋陽の耳のそばで鳴き、その声に秋陽は不快感を示した。何度も振り払おうとするも、虫は秋陽を好んだかのようにその声は強くなっていったように思われた。千重はその声が聞こえることはないのか、または、純粋な少女は虫の声も夏の風物詩とでも言うようにその自然を受け入れるほどの優しい人物なのであろうか。
秋陽はその自然に対して焦ったさを覚えたが、それが見事なまでに自分勝手だと思い、恥ずかしく思った。
虫の声も夏だけのものであり、季節を感じられる貴重な音の声であろう。
自分の手が木の枝のような色をし、それが影に濡れた事で、より浅黒い色になっていた。秋陽はそれがより自然なものであり、夏に生きている実感を持った。
二人は再び歩き出し、西洋人の女性とすれ違った。
白く大きい帽子を被り、ドレスを着て、如何にもな派手な女性であったが、その目に二人を見る優しげな色使いがあった。女性が秋陽の真横を通った際にそのドレスのスカアトのひとひらが秋陽に触れ、気づかぬくらいのそれに、秋陽は彼女の自然に溶け込んだ匂いとともにひどく美しく感じた。後ろを振り向くと、秋陽と同じくらいのその女性の背が高く思えてしまい、それは女性の織りなす重厚な場違いにも思える宝石のような輝きにそう思えてしまうのだろうと思った。
雲場池を後にする辺りから、空の色が濁り始めており、それは御坂通りを歩いている時に雨へとなって降り注いだ。
木々の間から木漏れ日が注いでたかのように大粒の雨はそこから二人に容赦なく振り、走っている二人に汗と共に入り混じった。
道は泥だらけになり、水たまりが大きく広がり、二人は足を汚しながら、息を切らして、走り続けた。
ホテルに着いた時には帽子を貫通し、髪はびしょ濡れになり、服も雨に濡れたせいで肌にくっつき、秋陽の服は肌が透けていた。
喘ぐような秋陽の声に千重は夜の姿も重なるようだった。
玄関の先で、しばらく水を落とし、そのまま逃げるように部屋まで戻った。
「服が濡れて風邪引きそうやわ。千重二人で風呂に入ろ」
「狭いですが」
「構わへん、どっちかを待ってたら、それこそ風邪を引いてまうわ」
秋陽はそう言いながら、綺麗に服を脱ぎ、裸になり、早足で浴室まで向かった。
千重はその白いワンピイスがなかなか脱げず、肌にくっついたせいで嫌な汗をかきながら最後には無造作に脱ぎだし、慌てたような足取りで秋陽の元へ行った。
扉を開けると、秋陽は体を流している最中で、その背に背骨がくっきりと浮かんでいるのを千重は彼女の性と歳を象徴的に感じ取った。秋陽はその何度も見慣れたはずである千重の痛ぶられた悲しげな跡を見て、初めて目にしたかのような衝撃を持った。体を重ねる時と体を温める時に見る裸はこうも印象が変わるものなのかと秋陽は思い、悲観的に思う自分の心が卑しくなるとともに、千重の何事もないような表情がまたそれが過ぎ去った事実という安堵があった。
「千重、痩せたんやない?」
秋陽は千重の腹周りが少し細くなっている気がした。骨が見える程ではないものの、以前はもう少し、肉付きがよかったと感じていた。
「そうでしょうか?」
顔などは細くなったようには見受けられないのが秋陽を心配にさせた。
「夏ですし、汗もかきますし」
「せやけど、うちはむしろ肉付きがよくなったわ」
千重は秋陽の腹や胸などを見た。その健康的な体つきを千重は叙情的に思わせるものであった。
「私は先生の体つきの方が好きですわ。私のはなんだか、死がそこに迫るように思えるんですの」
「馬鹿なこと言うんやない。演技でもない」
千重は秋陽の肩に手を回した。
「あかんやろ?ここ狭いんやから」
「接吻や愛撫ならいいのではないでしょうか?」
秋陽は少女のような不満そうな表情をしたが、無言で千重にされるがままにされており、千重はそれを了承したと感じ取った。
秋陽は千重の手つきに声が漏れてしまう気持ちの良い快感があった。
千重の手つきはより、激しくなっていき、滑らかに触れるものが大胆になっていき、胸を触れられ、強く掴まれたとき、秋陽は千重の耳に大きい喘ぎ声をあげた。その声には流石の千重も手を止めた。
「大丈夫ですか?もうおやめになさいますか?」
「もう少しやってくれ、優しく....」
千重はその秋陽の受け身の仕草にただならぬ可愛らしさを思った。
秋陽の甘い声は小さく、千重の耳にだけ響くようになった。