二匹の白い蝶
暗闇の中から途切れ途切れに蛍のような光があった。
ちらちらと見える光は段々と近づいていき、門を超えた時にそれが自動車であることがわかった。
康雄はロビイに入った時に、シャンデリアのその色使いに目を奪われた。それは先日来た時にも同じような事があった。
そんな康雄を見て、秋陽は彼がそんな事を考えているとはつゆ知らずに康雄の横に立った。
「どうしたん?立ったまま動かへんと、心配になるわ」
秋陽は金縛りにでもあったような康雄を見て、心配に思ったが、秋陽が横に立った事で、康雄は秋陽の目の前に来た。
「ごめん、豪華絢爛な場所だから、気が引けちゃって」
「なんやそれ」
秋陽は笑みを浮かべた。その笑みには安心した心持ちがあった。康雄は変わっておらず、相変わらずに変わり者のような人であった。
虫の声が窓の外から聞こえるようであった。その声に逃げるように秋陽は康雄の手を引き、バアへと康雄を迎え入れた。
小さなテエブルに蒸留酒が置かれ、秋陽はそれを飲みながら、薄暗い光の中で康雄を見つめた。見つめるたびにますます彼がどんな顔をしていたのかわからなくなっていた。
「あの女の子はいくつなんだい?」
「千重のことか?」
どう言ったらいいか秋陽は答えあぐねた。康雄は秋陽の心の奥底を見透かしているような気がしてならなかった。
「秘書や」
「随分と若いんじゃないか?」
秋陽の持っていた煙草が緩やかに流れ落ちた。その様子を見て、秋陽は密かに焦燥した。
「中学校出て、すぐうちの所に来たからな」
「何故?」
康雄の斜めった笑みに秋陽は似たような笑みを康雄に返した。
「色々な事情があったんや。あの子の事やからうちからはあまり言えへん」
そう言い、酒を口に含んだ。その酔いのままに秋陽は何事もなかったような飄々とした顔つきをした。康雄はその事に触れることはもう無く、煙草の火がぼやけるように揺らぎ、その火を秋陽は康雄そのもののように思った。
バアには二人の他に近くのカウンタアにいる一人の男とその奥に新聞を読んでいるだけで酒を頼まない老人の姿があった。秋陽その老人が西洋人か確かめたが、老人はおそらくは日本人であり、少なくとも東洋人の顔つきをしていた。
二人の声は秋陽がささやかに話しても低く響いていた。その事が余計に秋陽は話すことを躊躇させた。
「あんたはだいぶかっこつけるようになったんやな。煙草なんか吸ってモダンボオイみたいや」
秋陽の言葉に康雄は微かに笑って見せた。そのことに秋陽はまだ彼の中に可愛げが残っていると思った。
「僕は君と別れた後に、すぐ戦争に駆り出された。幸いなことに死ぬ事はなく、生きて帰ることができてしまった。だけど、僕には何も無かった。家族は地震でみんな死んで、菊を探そうとも思ったが、行方がわからない。死に物狂いで、盗みだって物乞いだってした乞食だった」
そう語る康雄の顔に安堵の表情が見え隠れしていたのは今のこの時が長い時間を得て訪れたからであろうと思われた。
「ある時、夢に君の書いた小説が話に出てきたんだ。それでK先生の存在を思い出した。戦況の中で思い出を忘れ去る程の出来事ばかりで、思い出がユウトピアだった。それを求めて僕は鎌倉のK先生の元に駆けつけて、昨日言ったように先生のお世話をさせていただいた。そして菊に会う為に小説を書いていた。それこそが僕の生きる術になっていた。藁にもすがる思いで僕は小説を書いていた」
康雄は秋陽の左手に触れた。秋陽は心の内では顔が赤くなるくらいに驚いていたが、表情は変えずにいた。
康雄は何も言わずにただ、その手を大事そうに優しく握っているだけであった。だが、その手はかすかに震えていた。
「うちの前では、強がらんでもええで。あんた、パアティイでの様子で、社交的に振る舞っとるけれど、あんたらしくもない。うちはあんたのこと昔っから知っとるから、気を楽にしたらええのに。うちやってあんたや千重の前やったら気い楽にしとるのに」
秋陽の声はこだまするように思えた。その電気がぼんやりとついているだけで、何か、孤独の心持ちになっているせいであろうか。
「戦争の傷っていうのか、僕にはどうも不安が常について回ってるんだ。例え、菊に対しても僕は過剰に振る舞うことしかできない」
「もし、うちが押し倒して、セックスをするんやったら、正直になるんやないの?」
「さあ」
秋陽の冗談に康雄はそう振る舞うだけであった。
「うちはまだここにいるさかい。たまには二人で話すのもええやろ」
その時、遠くで氷がグラスに当たる音が聞こえ、秋陽はそのか細い音に自分にすらわからないくらいだが怯んでしまった。
「なあ、菊。僕のことはもう愛していないのか?」
康雄の顔を秋陽は何も考えず見つめた。
「愛してたで」
それだけを言い、その孤独は一層強いものへと変わった。周りの静かな物音や他の客の存在が消え去るように秋陽は一人暗闇に佇むような心持ちになっていた。
秋陽は康雄を見ると、康雄のほのかに赤みがかかった頬、流れるような目つきに彼がまだ自分を愛しているのだと秋陽は悟った。彼は一途に自分をずっと愛していたのだった。
「うちはあんたと離れた後、色々なやつと愛し合ってた。ただ、しっかりとしたもんはなかったけどな。うちはもうあんたをそんな風には思えへんようになってるんや。あんたは人が良すぎるから、うちみたいなのよりも良い女がもっとおるやろ」
康雄は何も言わなかったが、その表情からは苦悶するような物が見てとれた。
彼はこの年になってまだ純血を守っているのかと秋陽は一瞬の軽蔑が入り混じった驚きを持って康雄を思った。
秋陽は春に飛ぶ白い二匹の蝶を思い出させた。それが今の自分達に似てるようであったのである。
この薄暗い部屋に白い蝶は光ながら飛んでいるのを想像した。それは若い頃の自分達だと思うようにした。
康雄がホテルを出た時には二十三時近くになっており、その自動車の光が闇に隠れるまで秋陽は暑さを忘れた外でじっと立ちすくんで、眺めていた。
夜になると、人々の声が止み、静けさは確かにあった。ただ、秋陽の心の中には燃え上がるような康雄への愛が自分の体を燃やすように火をつけていった。
昔を思い出すと、それが余計に広がるようであった。頭を冷やすつもりで秋陽はしばらく外で夜空を眺めていた。
千重の存在を忘れてしまう程であり、時折、千重の顔を思い出し、康雄への思いを打ち消した。ただ、その思いは千重と出会う前に存在していたものであり、その時を思うと十代の頃に戻ってしまい、どうしても千重が出てこないのである。
部屋に戻ると、千重は椅子に座りながら本を読んでいた。髪を一つに縛り、背もたれに軽く体を預けている姿に西洋人の面影を感じ取った。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
秋陽はベッドに座り、千重を見続けた。彼女はきょとんとした顔で秋陽を見ていた。その美しいとも可愛らしいとも言える姿に改めて、自身の汚れを拭い取ってくれるような心持ちにさせられた。
その顔に近づき、接吻をすると、千重は訳がわからないような表情を秋陽に見せ、それがとてつもなく可愛らしく思えた。
そして秋陽は千重を抱き、夜を過ごした。