夏の冷たさ
「菊、久し振りだね」
秋陽は自分に笑みを向ける男に話掛けられた。
男は長めの髪を逆立て、広いおでこに肌色がシャンデリアによって白く映っていた。
グラスを持ち、そのせいか、表情から、グラスを邪険に思っている様子が伺えた。
秋陽はある小説家のパーティーに呼ばれ、軽井沢にある御坂ホテルでのパーティーに千重を連れて、参加していた。
秋陽のすぐ後ろでは千重が立っており、何も入っていないグラスを持ち、秋陽の背を眺めていた。
男の表情を秋陽は強く見つめた。しかし、その男を秋陽は知らなかった。
ただ、自身を菊と呼んだ事に、秋陽は記憶と擦り合わした。古写真のようにぼやけたその姿はやはり、違っていた。だが、秋陽は思い違いではないような気がした。
「生きてたんやな」
「うん」
その短い言葉のみで秋陽はこの男が康雄であると思った。この淡々とした語り口は康雄であった。
「しかし、えらい変わったなぁ。面影がないやないか」
「そうかな、俺も生死を彷徨って来たから。老けたのかな」
康雄はそうはにかむと、彼の肌の色がシャンデリアによって光ったり暗くなったりした。
秋陽は目の前にいる男が未だに康雄とは思えなかったが、目を閉じるとそこは康雄の声が聞こえ、昔の思い出を蘇ってくるようであった。
目を開けるとそこには大人になったというとよりは別人になって変わった康雄がいたのであった。
「後ろの子は?」
康雄は千重の存在に気がついた。
「うちの秘書や」
千重は康雄に軽く頭を下げ、康雄も頭を下げた。
「菊のことは色々と聞いてるよ。小説も読んでるし」
「それは嬉しいことやな。おおきに。せやけど、あんたはなんでここにおるん?」
「僕も今は物書きで生きてるからね」
康雄の語り口には淡々としたものがあった。季節風のようなからっとした事実が秋陽には些か意外でもあり、当然のことのようにも感じられた。
「前に出した本が売れて、今回このパーティーに初めて呼ばれたんだ。出席者の中に君の名前を見て楽しみにしていたよ」
秋陽は康雄と話をしていたが、酒が回っていたせいか、何を言っていたか思い出せなくなっていた。
パーティーの終盤近くに秋陽は近くで千重を待たせ、煙草を吸うために外へと出た。
夜風を浴びた瞬間に秋陽は他に煙草を外で吸っている姿に気がついた。
「あんたか」
そこにいたのは康雄であり、外で煙草を吸っていた。
「あんた、なんて名前で本書いてるんや?」
「秋川勇蔵って名前だよ」
秋陽はその名前には聞き覚えはあった。だが、それが康雄であるとは当然思いもしなかった。
それに対する驚きも混じってはいたが、秋陽は面影を消した康雄に対しての驚きの方が大きく、知らない人に康雄の魂を入れ込んだような不思議な感覚に陥っていた。
「あれ、あんたやったん?なんでまた小説家になろうと思ったんや?」
康雄の吐いた煙草の煙が暗闇に溶けていった。
「菊に憧れたんだよ。君が尾形秋陽という名前で本を書いていることに憧れを覚えたんだ」
秋陽は照れ臭さから、右の手を口に当てた。その仕草を康雄は何も言わずに見つめていた。
「僕はK先生に弟子入りをしたんだよ。K先生のそばで身の回りの世話を行いながら、先生のような文を書くためにずっといたんだ」
「あんた、K先生の小説が好きやったもんな」
「だから、初めての小説をK先生の推薦で新聞で連載をさせてくれたのは感謝してもしきれないんだ。でも、僕を作家として羽ばたかせてくれたのはK先生だけど、僕に作家の夢を持たせたのは菊なんだ。だから、こうして会えて嬉しいよ」
康雄は煙草を手から離した。その立ち姿に秋陽は銅像と錯覚しそうに思えた。
「本当にありがとう。僕は本当に菊に感謝をしている。君が小説の世界を教えてくれたから、こうして僕はここに立っている」
秋陽は真っ直ぐ見つめてくる康雄の視線に耐えきれず、ただ、外の林を眺めるようにしていた。ホテルの光に二人の影が庭に伸び、その影がカラマツの根元に届き、なんとも弱々しくぼやけたように浮き出る影が秋陽の目に儚く映った。
夜の暗闇に佇む二人を秋陽はホテルの喧騒を忘れ、寂しげに思ったものであった。
「うちはそんな感謝されることはしてへん。康雄がただ一人でそこまで行っただけやとうちは思うわ」
煙草の火を秋陽は見つめ、その先端の白く細い煙が無意味に空へと帰っていくのを秋陽だけが心のうちに思い思いに別れを惜しんだ。
康雄は何も言わずにいた。それが何を思っていたのかは秋陽はわからずにいたが、理解しようとも思わなかった。それが例え、悲しげ、怒り、非情であったとしても、秋陽は関係のないことであると割り切っていた。ただ、秋川勇蔵が康雄であるという事を秋陽はその欠片が忘れ無くなった時、ふと思い出し、そんな虚構とも思われるような事実に夢心地の感覚に襲われるのであった。
パーティー会場へ千重と戻ると、先程の外での静けさが嘘のように感じられ、秋陽はそれ以上は酒に手をつけることはなかった。
「先生、蒸留酒をお持ちしたのですが」
「悪い千重、うちはもう何も飲めへんくなった」
「気持ち悪いですか?」
「そういうことやないけどな。考え事してもうて。どうも酒が喉を通らんのや」
千重は何言わずにいたが、秋陽には自分の心のうちが見透かされているのを知った。千重の表情が先程よりも曇ってきていたのであった。
パーティーでは千重のような若い少女は参加している者からの興味の対象に常になっていた。特に男から声を掛けられることも多く、その中には千重とは親子程歳が離れている者からも愛人にしようと思っているのか声を掛ける者もいる。千重自身はそのような者の扱いにはもう慣れてしまい、顔色を変えずに返事をうまく交わしながら、秋陽の肩がくっつくくらいそばに立ちすくんでいた。
秋陽も現在は千重の声掛けには慣れてしまい、その千重がうまく男から逃げ仰るのがわかっているので、千重に声を掛ける男がいても何も言わずに千重だけを見ていた。
千重の純粋な少女像は初めて見ると、その美しさに誰も惹かれて行くのが秋陽にもわかるが、その目の奥に潜む自身への愛を恐ろしくなるほどに秋陽は把握しているので、日に日に鮮明になっていくそれにカアテンから零れ落ちる光がいつの間にか窓を開けたようになっている想像を無意識に行っている。
冬の間に伸ばした髪に青いドレスを纏った彼女は女から見ても可憐であり美しくもあった。
千重の最も脂の乗った最盛期の始まりを感じさせた。
その裾が歩くたびにひらひらと蝶のように舞い、風が吹くのを思わせる足取りに秋陽は恐ろしい程に女としての完成が構築されていく千重に寂しさと共に同じ女として嫉みを感じさせるほどであった。そしていつしかは自分を超える存在になり、秋陽は千重の存在が大きくなりすぎていることに自身の幻想を強く恥じた。
秋陽の思いとは裏腹に千重自身はただ、秋陽の女としての部分を眺め、毎日を学びとして自分を磨いているに過ぎなかった。ただ、そうしているうちに秋陽を日に日に愛するようになり、異性という存在が邪悪なものへと変わっていくことに、当然のような恐ろしさが煙のように見え隠れしながらそこに潜むようになった。
やがで、パーティーは終わりを告げた時、ホテルの外にはタクシイが止まっており、出席者の多くはタクシイに入り込み、その場を離れていった。
林の中にいくつもの光が途切れ途切れに走り、それが秋陽の目には川に反射する東京の街並みの一つに思えた。
秋陽と千重は御坂ホテルに滞在をしており、パーティーがある二日前に街に着いた。七月になり、梅雨が明け始めたくらいに避暑を目的にこの街を訪れ、千重はあまり触れることのない西洋の文化と、秋陽は静けさに身を預け、自然を頼りに小説の構想を練っていた。
秋陽の朝は早く、パーティーでの疲れから、その日は千重と共にすぐに横になっていた。千重はまだベッドで横になっており、秋陽は千重を起こさぬよう、音を立てずに部屋を後にした。
手には小説の構想を書いたノオトと煙草を持ち、ロビーに出るも、待合人が三人程佇んでおり、秋陽の朝はそのまま外へと出向いた。
午前の九時を過ぎた頃に、テニスコオトで男女がラケットを手にテニスを始めていた。ホテルの前にあるベンチに腰を掛けていた秋陽はそのボールの跳ねる音とラケットのぶつかり合う不規則な音に耳を阻害され、ホテルへと入っていた。日が昇り、暑さが顔を出し始めたのも理由であった。
ホテルの中にあるカフェで冷たい珈琲を秋陽は頼んだ。ペンを手にし、ノオトに構想を練って行くうちにいつしか、自分の書く話の世界を作り上げるとともに入り込んでいた。
ペンの触れた時は冷たかった先が秋陽の体温で温かみに変わる頃には、テエブルに珈琲が運ばれてもその事に気がつくことなく、ノオトに目を向けており、髪を捲し立てた際に初めて珈琲に気がついたが、その時には氷が溶け切っており、生ぬるい温度になっていた。
その珈琲を飲みながら、休憩がてら、秋陽は昨日の康雄の事を思っていた。
別人のように変わっていた康雄、戦争での後に小説家になり、名前が知られるようになるまでは想像以上の苦労が伺えた。そう思うと、顔つきが変わるのも無理はないと思われた。
煙草に火を灯し、遠くで何か作業をしている音が静けさとぶつかり合っていた。この空虚の中で一から構想を練っていると、軽井沢の自然が頭に浮かんだ。親縁が広がり、向日葵が顔を出し、野道に小さく咲く花が誰も目にしないような場所で色づきながら美しくあり、美しい国から来た西洋人の男女が歩きその高い背丈にぴっしりと来た服を着て、異国のようなモダンが漂う街を思い、舞台は整ったように思えた。
この想像した景色は本当に存在するのかと思われる程、精巧に思い作られており、秋陽はこの街の香る想いは人々の想像の中で創られているが、それが人々を掻き立てる源であり、想像を現実に変えていっているのだと思った。
窓の外に向日葵がいくつか咲いていた。秋陽の想像はそこに咲く向日葵によって彩られたのかもしれなかった。外に出る気分ではなかったので、秋陽はカフェを後にすると、窓の際に立ち寄って、ガラスの向こうに日に当たる風に顔だけを揺らしている向日葵に目をやった。
三、四輪程に思われた向日葵が近くまで行くとそれが五輪の向日葵だったことに驚きを持ったが、それは扉から僅かに入る夏の風によって遠くへと飛んで行った。
風はその後に吹くのをやめたのか、向日葵は顔をこちらからそっぽを向いてしまった。向日葵の後ろ顔を秋陽はじっと見つめ、その黄色い花の部分よりも真ん中の後頭部にあたる白く緑色に輝く場所の方が目を惹きつけた。いくつもの葉が無作法に生え、それよって不思議な構造が出来上がっていた。
ロビイには男の二人組がやってきて、新聞を手に取りながらそれには目を向けず、話をし始めた。そしてまた女の二人組が男二人のすぐそばに座った。秋陽はこの四人は知り合いかと思ったが、男女は顔を向け合うこともなく、男は男と女は女同士で話をしており、全くの他人であった。そして騒がしくなってきたロビイを秋陽は後にすることにした。
廊下は一人としてすれ違うことはなく、ロビイの穏やかなような騒がしさがなくここはまさに無音が笛のように長く奏でている音色を消した空間であった。
部屋の扉を軽くノックをし、その後に扉がゆっくりと開いた。
千重は扉の隙間から小さく顔を覗かせた。黒い髪が光り輝いていた。髪の先がまだ滴っていた。
「ただいま、千重。何時くらいに起きたんや?」
「九時を過ぎていたと思います」
千重は白いロングなワンピイスを着て、昨日の綺麗な青いドレスとは違う印象を受けた。昨日の姿が大人になりつつある少女であるならば、今の千重は少女そのものであった。昨日の姿が見た者に処女らしさを感じさせ、少女のようでもありながら大人の近づきを思わせる。その貴重な時期を好む男が多いためか、パーティーでは常に声を掛けられるが、今秋陽の前で見せているこの姿であるならば、声を掛けるものはいないだろうと思った。
少女の大人らしさは罪悪感すらも味わいになるが、少女の年相応の格好は罪悪感のみに苛まれるのがわかるからである。
秋陽は女であるが、男のこの気持ちには深い理解があった。ただ、そこは女としての本質のためか、やはり、どちらも罪悪感に苛まれるのであった。ただ、千重はその罪悪感に苛まれながら愛する秋陽が愛おしいらしいのである。
「風呂入ってたんか。まだ髪の毛が乾いてないで」
「タオルで拭いている時にノックされたものですから」
千重の言葉とは裏腹に千重は特にその事に皮肉を込めたつもりはなく、秋陽もそのことはわかっていた。
「それなら、すぐ乾かしていき。お前の髪はうちよりも長くなってるんやから」
「はい」
千重はそう言ってバスルームへ向かっていった。秋陽はベッドで倒れ込み、千重が髪を拭き終わるのを待った。そしてそれは十分以上もかかって終わった。
その間に秋陽は窓から見える庭を部屋の中から眺めていた。
テニスコオトにはもう人の姿が見えず、ホテルの入り口の門からは一つの馬車が入ってきていた。
ホテルも昔は馬車で駅から送迎があったそうであるが、現在は自動車が主流になっていた。そんな中にホテルに馬車で入ってくるのはなかなかに珍しかった。
馬車が止まると中からは一人の老西洋人が出てきた。部屋からはその白い口髭がよく見え、顔立ちは目が奥まっており、白い肌が夏に当たり、汗が光っていたように見えた。
杖を着いている姿は明治時代の日本人のようにも見えた。だが、その歴とした立ち姿は彼自身の人生の壮大さが物語っているようであった。ここには休暇で訪れたのだろうか。避暑にしたって他に良い国はたくさんあるだろうにと秋陽は窓際に腕を置きながら思っていた。
老西洋人の姿が消え、馬車もその場を後にし、再びホテルの庭は朝のような人が見えない世界が広がった。
暑さによるものであり、賑やかさは失われていないのである。ただ、窓が額縁のようになり、この人の静けさによるものが絵画のようだと思うと笑みが自然と溢れるようであった。
窓にふと、薄く自分の姿が映った。その姿に笑みを秋陽は認めたのであった。そして、秋頃よりも短く髪を切り、髪を束ねる時も楽にはなったが、肩を超えた千重の髪を見ると、伸ばしたままでもよかったとも思った。
肩にかかるまでにはあと半年程は掛かるように思えた。ただ、夏に備えて髪を切ったのは正解であった。千重は今頃になってやっと髪を乾かし切ったのである。それも乾かしている最中、汗で髪が再び濡れてしまうのであり、秋陽は千重よりも我慢がきく性格ではないので、梅雨の時期にその降り頻る雨に別れを告げるかのように切り落とした。
「髪が長いと暑い時期は不便やろ?」
「ええ、でも、先生はこの方がお好きと申しましたので」
千重の言葉の端々に秋陽への愛が挟まっており、その目はしっかりと秋陽に向けられていた。
「うちの言葉のせいで、千重はこんな思いをしてるんか?」
「いえ、私の意思でもあります。私は長い髪が好きですし」
千重は秋陽の隣に腰を掛けた。ベッドに座ったので、その座った時の衝撃が秋陽のお尻に緩やかに伝わった。
「先生、私、髪を短くしたら似合うと思いますか?」
「千重は可愛い子やから似合うんやないの?」
秋陽がそう言った時、秋陽の唇は暖かいものに確かに触れた。目の先には少女の黒い目があり、その中にまた自分の目が映り込んでいるのがぼんやりと見えた。
秋陽は千重の勢いに身を任せ、ベッドに倒れ込んだ。身体の上には千重が乗っかっていたが、小柄な千重は重みは感じるものの苦しみはなかった。
秋陽の右の肩に千重の顔があった。秋陽の手は千重の髪に寄った。髪に触れ、千重のくすぐったいとも言えるような声があがった。後ろの方から首に掛けて何度も撫で、首あたりに手をやると、千重の体の温かみが秋陽の冷たい手に伝わった。
秋陽の冷たい手に驚いたのか、千重は先程とは違う声を上げ、秋陽は謝った。
「冷たかったな。ごめん」
「いいえ、驚きはしましたけれど、先生の手は冷たいので、暑い時期ですと気持ちが良いです」
秋陽は起きあがろうと体を動かし、千重もそれに気づき、体を起き上がらせた。
起き上がった秋陽は千重の両頬に手を当てた。
「うちの手は氷のようやろ?」
「ええ、手は氷のように冷たいですね」
千重の屈託のない眩しい程の笑みに秋陽は心が洗われる気がした。そんな千重が男を巧みにあしらうことができるものなのかと関心するようでもあった。秋陽はこの子を守ってやらなかった事で自己防衛を身につけたのではと思い、その自身の至らなさに何も知らない千重を前にしてふと、反省をした。
「この後、街の方へ出よう。女の子には魅力的に映るやろうな。まあ、男もたくさんおるけれど、うちが千重を守るから」
「まあ、嬉しいですわ」
千重は麦わら帽子を深めに被った。一瞬、目元が隠れ、そこから出てきた美しい目は吊り上がったようになり、その凛々しさに秋陽は新しい発見を見出した。
秋陽は赤い夏のドレスに着替え、小さめの白い帽子を被った。日傘を持ち、ロビイでタクシイの手配をした。
昼前だと言うのに、太陽の輝かしさは火の致した後のようにじんわりと伝わり、玄関で、椅子に座っていた千重が額に汗をかきながら、窓の外を覗くように見ていた。
この日は天気は良いが、午前のうちに風が終わってしまいそうに思われた。秋陽の千重への輝かしいとも言えるものはこんな時にですら休みなく現れてきた。
さざなみ無き後、タクシイの走る音が一層辺りに響いた。
秋陽は先に立ち上がると、千重に手を差し出した。
千重はその手に触れているのかわからないくらいに自分の手を乗せた。立ち上がるのも自分で立ち上がった。
秋陽の見えない糸に引き寄せられながら、千重は秋陽と共に玄関を後にした。
外に出た途端にホテルの壁に沿って緑色の草が並んで立ちすくんでいた。その鮮やかにこれから押し寄せる立秋が感じられた。
タクシイに乗り込むと、秋陽は行き先を伝え、タクシイは走り出した。その急な走り込みに二人は椅子に背中を打ちつけた。
秋陽は何も言わずに千重のそばにより肩に触れた。窓から吹き刺さる切り込んだ風が二人の髪を強く靡かせ。秋陽は千重の肩に手をやり、千重の髪が風によって吹き荒れないよう、包み込んだ。
夏の風と言えども切り刻むものはやはり冷たいものがあったが、避暑地に吹く風であるのか、さらさらとした風のようでもあった。
景色が林から街へと変貌し、そこで二人はタクシイを降りた。
「随分と荒いタクシイやったな。千重は大丈夫やった?背中痛くないか?」
秋陽の言葉に千重は何も言わずにはにかんだ。せせらぎのような音が頭の中に響き、秋陽はそれ以上は何も言わないよう努めた。
街に一歩踏み入れるとその街に二人は息を飲んだ。
軽井沢に着いてからは自然に囲まれたホテルにしばらく滞在し、そこの生活は喧騒とかけ離れた素晴らしいものであり、秋陽に取っては、パーティーのついでにしばらく、滞在し、仕事を片そうと思いながら滞在していたが、どうも、千重が退屈している様子が見て取れていた。秋陽自身もホテル内のテニスやプウルだけでは娯楽にどうも飢えてしまう所があったので、街に出て、二人で歩くだけでも懐かしいような新鮮なような気分になれるのであった。
都会の人間が田舎に憧れを抱くように、田舎の人が都会に憧れを抱く。秋陽はその二つは常に相反するものであるのだと思った。常に静かさを追い求めていた秋陽であるが、いざ、静けさに包まれると元の騒がしい生活を求めてしまうのであり、現金なものであると自分自身の身勝手さを受け入れた。
メインストリイトのそこかしこに店が並び、日傘をさしながら歩く西洋人がいくつも目に入った。
その日傘から顔がちらちらと覗き見られ、日傘の先にある西洋人の青い目と目が合うと、秋陽は西洋人の彫刻のような美しさに自分がどれだけ、西洋風になっても彼女達には叶わないのだと思った。
この場所を都会とは思わないが、静かな場所に喧騒が生まれている所を見ると、軽井沢の中では都会らしくあった。
二人は道の端に立ち、そこがまるで異国かのような印象を受けた。二人の前を歩くのは優雅なそれでいて、彼らはここで一般市民として暮らしている人々なのである。
「なんだか、気が引けるようやわ。うちらのいる場所やないように思わされる」
秋陽は心のうちで思ったことをつい口に出し、咄嗟に千重を見た。千重は真っ直ぐに秋陽を見つめていた。その瞳からは秋陽が抱いたような気後れを感じていないようで、この異国情緒溢れる街に少女らしく輝くものがあった。
千重に取ってはこの雰囲気などは絵や写真などでしか目にかかれないものであり、この小さい紙に描かれた景色がこうして自分がその中に入っていることが御伽話の中に入るような感覚なのかと秋陽は思うと、その秋陽が一人でに抱いた千重のいじらしさに手を引いて歩き出した。
パン屋、喫茶店、服屋などの千重や秋陽の目につくような店から、生活必需品などを売っている店があった。
千重などは小物などを売っている店を見て回り、秋陽はそれに着いていきながら、時折、酒屋に寄り、買いはしないもののその店の酒を見て、味を想像していた。
人の流れに沿って歩きながら、二人ははぐれないよう手を繋いだ。そのせいもあってか、秋陽は日傘をさすことができなかった。
千重の被る麦わら帽子の所々に隙間の影ができており、その影から千重自身によるあどけなさが追憶のようにすり抜けていくようだった。
この暑い街も半年もすれば人も自分の居場所へと戻り、ここは閑古鳥が泣き、その泣く声と共に雪が辺りを降り頻るのだろうと秋陽は感じた。とても今目の前に広がる街の雪景色が想像できず、一瞬頭の中に浮かび上がった雪国の景色が夏の暑さによって国諸共溶けていった。
秋陽は作家である宿命か、喫茶店をよく好んだ。旅行に出かけてもまず、喫茶店をよく探すほどであった。それは幼き頃によく通った鎌倉の小町通りの喫茶店のせいのように思えた。
ただ、そのおかげで秋陽は千重と出会うことができた。二人が出会ったのは東京の名も覚えていない喫茶店であった。
秋陽は珈琲の味にうるさいわけではなくよほど不味いものでなければ大抵のものは美味しく頂く、むしろ店内の雰囲気に目を向ける女であった。
喫茶店の雰囲気によって秋陽は小説の作品の質が変わるのであった。よって普段は静かな喫茶店を好んで通うのであるが、こうも人がいると、集中ができるはずもなく、旅行の際は人通りの少ない場所に立つ喫茶店を探すか、または、作品のアイデアを考えたりするのを諦め、騒がしくても珈琲を味わう為に店に入るのであった。
今回はやはり、人も多く、秋陽は一息入れる気持ちで千重と共に喫茶店へと足を踏み入れた。
そこで煙草を吸いながら、千重の買いもので手に入れたものをじっと眺めた。そこにはネックレスと言った千重の好みの品が数えられる程にあった。それらは金色、銀色に輝き、本物でないその輝きが虚しさを秋陽に思わせた。
「千重は宝石が好きなんか?」
「へえ、好きと言いますか、憧れに近いですね。女の子ですもの」
秋陽はなるほどなと唸りをあげた。千重はその人生が激動に満ちているものであるのに、どうしてこうも純情でいられるのであろう。秋陽の落ちる煙草の吸い殻にはそんな千重に対する憧れが汚れた形でこぼれていた。
ホテルに帰った時、フロントの従業員が秋陽宛に電話が来ていたと言い、秋陽は千重を一瞥し、少し考えてから、千重を先に部屋に帰した。
電話主は康雄であるそうで、彼は今、同じ軽井沢の満中ホテルに滞在しているようで秋陽はすぐに満中ホテルに電話をした。
ホテルに繋がると、すぐに康雄の名前を出すも伝わらず、秋陽はホテルの名前を聞き間違えたのかと思ったが、間を置いて、秋川勇蔵の名前を出すと、電話の向こうにあるホテルの従業員は少々お待ちくださいと言い、しばらくして、康雄が電話へと出てきた。
「あんた、昼間に電話してきたんやってな。うちら、昼間は出掛けていて留守になっていたんや。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。この前は急に声を掛けて申し訳なかった。酒に酔ったせいで、あんなに親しそうに」
どこかよそよそしさを秋陽は電話越しに感じていたが、康雄はどうも酒に酔われるようであった。
「なあ、菊。せっかく同じ街にいるんだ。今夜、食事に行かないかい?」
康雄の言葉を聞いて、秋陽はまず千重の顔を思い浮かべた。
「........ああ、今夜か」
それからお互いに何も言わずにいる無言の時があった。
断ろうか、千重のために。ただ、康雄の申し出をあしらってしまうのもどうか。
「僕が、そっちに行こうか?」
康雄がそう言った。その言葉の無音にそのロビイの静けさが重なった。
「それはうちは助かるけれど」
「僕は気にしないよ」
秋陽はそれから、康雄がホテルに訪れる時間を聞き、電話を切った。今はこの静けさに少しばかりの恐ろしさをひしひしと感じた。
秋陽は部屋に行くのを躊躇い、日が暮れるまでロビイで立ちすくんでいた。