存在するもの
秋陽はロビイに一人先に着き、忘れ物を取りに行くと行って、部屋に戻った千重を待っていた。
昨日に、秋陽は千重にここを離れることを伝えた。千重は秋陽の思惑に外れ、意外にも淡々とした表情をしており、そのことに秋陽を面を食らったような思いをした。
影が少しずつ、消えかける想いを感じ、その残った寂しげだけに心を打たれながら、秋陽はそれから逃げるような気持ちに襲われた。
蝉の声に安堵していた秋陽は無性に襲ってくる寂しさがこうして、千重を横に置いたとしても無意味に長い期間、心の奥底に住み続けてしまうのだろうと思った。それはいずれ、別の何かに変わるか、記憶が風と共に流れていくのであった。
千重が戻ってきた時、その風音のような足音に軽井沢の風が染み付いてしまったように思った。
ふと昔の出会った頃の千重を思うと、すっかり千重は秋陽が好む女に変わってしまった。ただ、それでも彼女の中にある彼女らしさは永遠に消えることはないように思えた。
「さあ、そろそろタクシイが来るで。荷物はもう大丈夫やな」
「ええ、忘れ物はありませんわ」
千重はどうも秋陽と話すときは少女らしさを見せつけているように思えるが、それは恐らくわかっていてのことなのである。人に好かれるために千重はこうして、日々自分を演じているのだ。
その初々しさに似た悲しさが秋陽は千重を強く愛する理由でもあった。
「先生は今日はお酒を飲んでないのですか?」
「帰る日は飲んだらあかんよ。帰れんくなるかもしれへんよ。うちが多く飲んだら手つけられへんし」
秋陽はそう言って笑って見せると、千重もそれにつられた。それがなによりも秋陽の心の温かみを悲しい程強くさせた。
通りの小路に炙り出したかのように浮き出る淡い色の日の光が風に木が揺らぎ、まるで踊っているようであった。
秋陽のそれを見る目につられ、千重はその光を見て、安らぎがそこに存在していると思った。
「ああ、そうや。千重、うち、少し用を足してくるわ。まだ迎えは来ないと思うから、少し待っとって」
秋陽はその言葉とは裏腹に慌てたようなそぶりは見せず、悠々と歩きながら千重から離れて行った。
その一人の時間が恐ろしく長く、千重は秋陽が二度と戻ってくることはないのではないかという思いに殺された。