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晩夏

 千重が煙草を手にしているのを秋陽は驚きを持って見た。

「あんた、煙草吸うようになったんか?」

 千重は秋陽の目を見て、しばらくそのまま何も言わずにいた。秋陽にはそれが肯定も否定もない答えそのものであるのではないかと思った。

「いえ、先生の煙草の箱の絵柄がはいからで、素敵だなと」

 千重は秋陽にそう言うと、手に持っていた煙草を秋陽に手渡した。

「なんや、うちはすっかり、千重が煙草を吸い始めたんかと思ってびっくりしてもうたわ」

「私もいつかは先生のように煙草を吸うようになるんでしょうか?」

「うちにはわからへんな。千重が決めることやし。せやけど、うちが吸い始めた歳より後に吸ってほしいわ」

 秋陽の手に渡った煙草は彼女のポケットに仕舞われた。そこの中には秋陽の持つ悲しみが千重に隠すように入っていた。

 箱の絵柄に惹かれた千重にその悲しみを理解されたくないと秋陽は思った。悪魔の誘惑がすぐそこまで来ていながらもこの少女はその誘惑が透明のようになり、目に映らずその美さの表面をなぞるように見ているのであった。

「先生はいつ頃から吸われたのですか?」

「内緒」

 無意味なような物音を感じさせながら秋陽は呟いた。その右手の指が三本、左手は全ての手が開いていた。

 それが千重に見えていたのかは秋陽にはわからず、敢えてそれから目を逸らしていた。

 彼女の文化への純血は決して破ってはいけないと秋陽は思っていた。自然のままに彼女が少女の皮を脱ぎ去った時、その処女は幻となり、過去の美しい存在となって目に見えないこの世の美しい詩のように忘れ去られて行くのだろうと思われた。

 お盆を過ぎた辺りで、軽井沢の避暑で訪れた人々は元のいる場所へ戻って行った。ホテルからも人が徐々に消え始め、七月のような静寂が再び姿を表し始めていた。

 その頃に、康雄からも手紙が届き、軽井沢を離れるとのことが書いてあった。秋陽も小説の舞台は整い、いつでも完成まで書き終えられるだけのプロットは出来上がっていた。それをここで書き上げるか、それとも家に戻って、思い出の美しさに浸りながら書き上げようか悩んでいた。

 軽井沢の静けさの波に秋陽は飲まれて行こうか、それとも抗って行こうか、千重の様子を見て決めようかと思っていた。

 煙草の箱に見惚れていた少女はこうして大人の味を少しずつ舐めるように知って行くのであり、千重の気持ちに秋陽は合わせていくつもりであった。

 ある日、三角屋根が美しく映るカトリック教会の中で千重は祈りを捧げる仕草をして、薄く目を閉じていた。その後ろの席に秋陽は座りながら、千重の綺麗に流れる黒髪を見ながら、彼女の静を愛する心のうちを彼女から受け取るように感じた。

 その姿が修道女のように見え、神を信じ、敬い、それがなんとも言えぬ愛らしさに苛まれるようであった。

 その帰り道に、秋陽は千重の横顔を見ながら、目が合うのを待つかのように話し掛けようとしていた。

 そして二人の指が触れ重なった時、千重が秋陽の方を向いた。秋陽は千重と目が合うと、意識せずに、彼女の手を握っていた。

「教会で何を思ってるん?」

「私達の平穏についてです」

 そのいじらしさはまだ煙草を覚えさせるには早すぎたようであった。

「その平穏についてなんやけど、そろそろ秋がやってくる前にここを離れなあかんような気いすんねん。いつまでもここにいたら、離れることができんくなるし、東京戻らなあかんっていつも思うんやけど」

 秋陽は千重を横目に話して始めた。

「うちは東京の暮らしも良いんやけど、千重は静かな場所を好むように思うんやな。そこでな、鎌倉に引っ越そうか思うんやけど」

「鎌倉ですか?」

「東京からも近いし、静かな場所や。うちは昔、うちが住んでた長谷に家を構えてみたい思うねんけど、千重はどうや?」

「それは、とても良いと思いますわ」

 そのか細い声に含まれた力強い心の声が入った響きを秋陽はすぐに感じ取った。

「そう。東京戻ってからまた考えるか」

「はあ」

 千重の目は窓の先に向けられ、それはこの地を彼女が気に入っている証拠でもあった。その目は寂しげのような思われた。だが、その目の中の光はそれ意外にも希望があったのである。

「千重、うちらは一時の休息でここに来ただけや、ここはうちらが永住する場やない」

 その声が秋陽は自身の声から消えゆく蝉のような囀るような儚さをひしひしと思った。それは自分だけが思ったのか、千重にも伝わってしまったのかはわからなかった。千重はしばらく何も言わなかった。そして口を一瞬だけ開いたが、外に響く鳥の声にすら声をかき消されるほどの呟くような声であった。

 秋陽はベッドに体を横にさせると、千重に向けて、その求めていることを答えさせた。

「私は、先生と静かに二人っきりになれる場所であれば....」

「それなら、誰にも知られない場所やな。せやけど、遠い山の中や孤島はうちは嫌や、隠れ家のような場所が理想やで」

「長谷ではそんな生活ができるのですか?」

「鎌倉は山の近くなら静かやで、喧騒の手先足先が見え隠れはするけどな」

 秋陽はその光景を想像した。長谷の加賀谷の家の周りを思うと、康雄が若い姿で浮かび上がってくるようだった。

 長谷に住むとなると若き康雄の幻影が常に蔓延るのではないだろうか。そんな恐れに似た思いが過った。

「それは、とても素晴らしいものですね」

 ただ、千重はそんな秋陽の思いを知ることはなく、まるで子供のような笑みを浮かべ、秋陽に話し掛けていた。

「そうやな」

 だが、秋陽にとって、若き康雄の幻影など、今、目の前にいる千重に比べれば、気になるものでもない。幻影は触れることできず、見ることもできるのかわからぬものである。せいぜい、感じる事ができるだけであるが、千重はそこに存在しているので、触れることもできるし、感じることも可能であるのだ。

 その時ふと、人の気配が消えたホテルで二人っきりになったような寂しい気持ちが秋陽を襲った。辺りが風の音と鳥の声、そして消えてゆくような蝉の声のみが響いていた。車の走る音が全くと言って言い程に消えてしまった。その底知れぬ不安は千重の姿を見るまでに突如として覆い被さるように秋陽を暗闇に陥れた。

 潮時という言葉を秋陽は思い、千重との会話も火花のようななんて事のない儚き美しいものと思った。

「ロビイのそばのバアはやってるんかいな?」

「さあ、どうでしょう?何か飲まれるのですか?」

「白ワインか珈琲か、どっちがええかな?」

「白いワインか珈琲ですか」

 秋陽は千重が白ワインをという言葉をわざわざ白いワインと呼んだことに、彼女の別離を知った。まだ少女であるが故、そう呼ぶのであると思った。

「ワインを飲もうか、千重には悪いけれどな」

「なんで私に悪いのですか?」

 秋陽はその言葉に笑ってしまった。千重の表情を見ることはできなかったが、その表情は秋陽は想像することができた。

「千重はまだワインなんか飲めへんやろ?なのにうちだけ飲むのが悪いねん」

「はあ、でも、私は別に気にしませんわ」

「千重は不思議な子やな。それは優しさなんか、抜けてるだけなんかわからへんわ」

 秋陽はそう言い、千重の頭を撫でようとしたが、以前よりも千重の頭が遠くなった事に気がついた。

 そしていつの間にか、秋陽は自分と千重の背が同じくらいになっていることを嬉しく思った。不思議と以前には感じていたはずの寂しさは全くと言っていい程に無かった。そのことが秋陽は自分自身の成長を感じさせた。

 千重はそんな事に気づいているのか気づいていないのか、秋陽の表情に目をやりながら、絶えず少女の姿をして、秋陽はそれを見て、少しばかりの寂しさを感じた。千重に残る最後の少女らしさがそれであるのだと思われた。

 秋陽は涙が出てくるようであった。それが何故なのかは自分でもわからず、寂しさが悲しさとなり、急に思いが込み上げて来るのだった。涙こそ出さなかったものの、目の中は潤い、千重は何も言わずにいたが、その秋陽の感じたものをしっかりと見つめている表情に秋陽は自身の弱さを見せてしまった恥ずかしさがあった。

 そんな思いがあってか、結局秋陽はバアに行くのをやめてしまった。扉の外から部屋の前を通る足音が風の音のように聞こえたのもあったからであった。

 鳥の声が聞こえ、それが響いて聞こえることもあった。しゃがれた美しい声と甲高く聞こえる声が交互に合わさり、そのどちらかに辺りを響かせる声を持つ鳥がいるのであろうか。声々に重なられると、鳥の声も海の中に潜ったように判別がつかなくなり、まどろっこしく変わってしまうのであった。

           ・

 その日の夜に、秋陽は一つの手紙を持ったまま、ロビイで一人暗い外を眺めていた。手紙は康雄からで軽井沢を離れるというようなことが書いてあった。煙草の火を見ながらこの手紙を燃やしてしまおうかとも思いながら、手紙に書かれた淡々とした康雄の文章を見ると、彼の書く文学性や作風というのが手紙にも現れているようであった。

 天井の灯がゆったりと揺れながら、秋陽は今日一日を思い出すと、軽井沢に来てから初めて英語を目にしてない日なのではないかと思った。それがなんだか、異国から家に帰ってきたような安心しきった思いになり、そこに静寂に心を潰されるかのような残虐性が隠れていた。

「先生....」

「千重」

 秋陽が千重の姿に気がつくと、千重の駆け寄り、その走る時の揺れた髪に乱れた不穏が隠れて見えた。

「何かされました?どこか、悲しげに見えますが」

「康雄が出て行ったらしいわ。うちが持ってるこの手紙に書いてあったんや」

「そうですか。みなさん離れて行ってしまいますね」

 自身の感情に流されずに、秋陽の声の色のままに千重が言葉を使ったことに秋陽は意外に思うとともに、それがまた悲しさを思わせてしまった。

「今年の夏は静寂を求めて、七月の初めにはここに来て、誰もいないこの地を嬉しく思ったのに、結局は静かになったここが寂しく思ってしまった。うちは喧騒を嫌うようで、それが心地良いのやろうな。虚しさが雪のように固まっていつしか、溶けて、それでもそこに残るものにうちは気が付かなかった」

 秋陽はなんとなく、千重と目を合わすのを躊躇い、窓の方を見た。窓は光を求めた小さな虫が窓に引っ付いていた。それが静かな場と時を求めてやってきた自分のように思えた。

「でも、うちは静かな時は好きや。なあ、千重。二人っきりって静かな時やから感じられるんやで」

「ここはロビイですので」

「せや、部屋に行くで」

「....はい」

 千重の可愛らしい大人びた哀愁がある顔に秋陽は愛おしさをより感じた。

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