掠れた美しき声
秋陽は康雄の滞在するホテルに訪れていた。タクシイから降りて、その建物を見上げた時に、秋陽は別荘のような印象を持った。
夜であったので、暗闇の中に光り輝くホテルが異様に美しく映っていた。
時折、風のざわめきともいうべき物音が静かに響き、後ろを振り向くも何も見えず、秋陽はホテルに吸い込まれるように入って行った。
用があり、康雄に電話を掛けたが、不在であり、その日の夕方に康雄から折り返しの電話があった。二人っきりで話をしたいと秋陽が言うと康雄は満中ホテルへ秋陽を誘った。
康雄は秋陽とロビイで会うと彼女を部屋に通して行った。康雄の滞在する満中ホテルにはバアが無く、話をするには自室が良いと康雄は思った。
「バアで酒でも飲みながら話そうと思ってたんやけど」
「喫茶店ならあるけれど、夜はもうやってないからね」
「どのみち喫茶店じゃ雰囲気出えへんわ」
康雄の部屋に着くと、康雄は扉を開けて、秋陽を通した。部屋は広く、真ん中にベッドが二台あり、その周りに襖があった。窓際には紅色のソファと白い丸いテエブル、その後ろを向くと、ベッドがあり、それを囲うように壁が建てられていた。
秋陽はそれを一目見終わると、康雄に目を向けた。
康雄は秋陽の視線に気付き、奥の窓際まで秋陽を案内した。ソファに座り、秋陽もそれに倣った。
「ワインがあるけれど」
「それでええわ」
康雄がワインを注ぎ、グラスを秋陽の前に置いた。小さな音をグラスが立て、ワインは微かな波を作り出した。
二人はそれを一口飲み、秋陽は酔いが回る前に要件を言ってしまおうと、グラスをテエブルに置いた。
その仕草に康雄も彼女が何か言い出すのを思ったらしく、手にしていたグラスを止めた。
「あんた、千重の事好いとるやろ?」
その核心についた言葉に、康雄の指先の震えがワインに伝わった。
「あのお嬢さんは良い子だとは思うけど」
そう言った康雄は秋陽を見ながら、グラスをテエブルに置き、体を彼女の方へ向かせた。
「僕は君を愛してる」
その震えに浪漫の欠片が欠如したことを秋陽も康雄も認めた。
「千重の事はどうなんや?」
「僕はあの子のことは何も思っていない」
「ほんまかいな」
秋陽の腕がソファを撫でるようにしなやかに伸びた。
「あんた、うちがいない間に千重に会いに行ってたんやろ?」
「ああ、君の秘書とかいう子に対して、どうしても君達がそれ以上の関係に見えたから確かめにね。それについて謝るよ」
「嘘やな。最初はうちもそんな事や思うとったけど、あんたを目の前にしたら、なんだか、前に会うた時とは違って、よそよそしいように見えてわ。鎌をかけてみたんやけど、見事にかかったな」
秋陽はそのまま固まったように動かず、それは康雄がどう動くかを見ているからのように思えた。
「千重ちゃんと一緒にいるからか、彼女に対する目の色の違いがよくわかるね。菊の読み通りさ。僕は久し振りに君と再開して、すっかり舞い上がってた。そしてできることならと昔のような関係に戻りたいと思ってた。だが、そこにいたのは千重ちゃんだった。少女が君と関係を持っているとは思わなかった。僕は二人の関係に興味が出て、千重ちゃんを探ってみたが、すっかりやられた。彼女には嫌われるし、僕は彼女のことを好きになってしまう。それも一目惚れだ。情けないよ。僕は勝手に千重ちゃんに菊への嫉妬と優越感を晴らすことを思ってライバルと思っていたのに、いつの間にかそれが菊に変わっていたんだから。彼女の魔性の性質には根を上げるばかり」
「せやろ?あの子の深みはうちですら知らん。あの子ですらわからんのやないの?」
康雄は突然笑い始めた。秋陽は康雄の気が違くなったのかと驚いた。
「千重ちゃんは僕には釣り合うことがないね。勝てることがないよ。降参だ」
「なんや今更、偉そうに。千重はとっくにうちの恋人や」
康雄は手にしたワイングラスをテエブルに置いた。
「認めるのか。君達が愛し合ってるってこと」
「康雄に嘘ついてどないになるん?もうこんくらい勘づかれてるんに」
秋陽は笑って見せ、康雄も自然とその笑みにつられた。
「千重に手を出さんかったのは感謝するわ。もし千重を傷つけていたらうちはもう康雄のことを軽蔑しとった。でもお前はやっぱり昔のままの良いやつやったわ。うちは嫌っとらん。お前と愛し合っとったことは昔の良い思い出として今でも時々思い出すくらいや。でも、もう今はあんたとうちは昔とは違う、お互いもう恋人同士ではないんや。うちはもうあんたを愛してはいない」
「それはわかってる」
康雄の目には悲しみが隠れきれずにそれが潤んだ瞳となって現れていた。その水波が光の濁りによって夜の景色には似合うことはなかった。
「でも、大人になって、偉い男前になった康雄をうちは姉のように嬉しく思うし、誇りに思うわ」
秋陽は顔を康雄に近づけ、耳元で囁いた。掠れた声色が恐ろしく夏風に似ていた。それが酔いによって成しているのかは康雄にはわかるはずがなかった。