懐かしき日々
菊の記憶には長谷での思い出が小さいながらもはっきりと映っていた。菊は二歳になる前にはもう両親はこの世におらず、親戚の家で育てられた。
長谷に家を構える山口の家に預けられた時は菊は五歳であった。それまで関西で住んでいた菊にとって山口の家は初めは遠い異国のような心持ちで過ごしていたが、山口の家の人々の優しさに触れ、いつしかこの家こそが自分の家であったと思うようになった。
菊は十八になるまではこの家で暮らしを共にしたいと言い、高校を卒業する日までは山口菊として育った。
目の前の家には文学者として名を馳せるK先生が住んでおり、家族絡みでの親交があり、今思うと、菊が後に小説家となったのもK先生との交流があったからではないかと思われた。
最も菊自身はそれはほんの小さなきっかけでしかなかった。
山口の家での縁側で庭を眺め、静けさに心を寄り添い、すぐ近くの部屋で菊は尊敬するO先生の小説を読み耽り菊はいつしか、文学の世界に入り込み、その世界を自分で広げて行きたいと思い始めていた。
情欲の美という言葉を菊は心に宿し、ある夜に菊は初めて、筆を手に取り、物語を書き始めた。
その拙い小説が菊のその後の道を決め、菊自身は自身の後に書かれた小説は全てこの処女作の二番煎じであると思う程に、自身の処女作は強い衝撃を与えた。その原稿用紙を部屋で広げながら何度も読み、O先生の影響を受けながら、菊自身は自身の書いた文からの作風を入れ込んで行った。
学生の頃には菊も恋を経験した。康雄という山口の家の近くに住む書生で菊よりも三つ程歳が下であった。
山口の家には和館の他に洋館があり、和館の廊下を渡ると洋館のダンスルームへと開けた。
このダンスホールで時たま行われたパーティーで菊は康雄と出会った。初めて菊が人に恋をした瞬間であった。
陽の光が入り、高い天井にぶら下げられたシャンデラの下で菊は康雄を思い、恋仲になった後はダンスホールで人には見せられるものではなくめちゃくちゃなダンスを二人で演じるように行った。
その時に菊は小説家として生きることを学生に伝えた。それからは二人は時々、誰もいないダンスホールで本を読み合った。康雄は菊の好きなO先生よりも近所に住むK先生の小説を好んだ。そして、いつしか、K先生と顔馴染みにまでなるほどであった。
「あんた、K先生といつのまに仲良うなったん?」
「家で何時間も待ってたんだよ。先生ったらぎょろっとした目を更に浮き出すように僕を見ていたさ」
そんな所に呆れながらも菊の心の奥底に広がる寂しさは消えるように無くなっていたかに見え、そんな所が愛おしかった。
そんな恋も菊が上京し、小説家として活動し始め、康雄も戦争へ行くことになり、二人は離れ離れとなり、いつしか過去の人として終わっていた。
それでも時折、菊には良い思い出としてどこか儚い恋として夢に出てくることもあった。
御成町の電車沿いを二人で歩いていた際、康雄はすぐ横を走った電車を見て、小さく瞬きをした。
菊にはそれが色っぽく写り、女性を見るような目で彼を思った。
今まで康雄にそんな思いを持ったことはなかった。何故急にそんな風に思ったのか、菊にもわからなかった。そう思った時にはもう康雄に女性らしさは無くなっていた。
その一度の瞬間だけであった。それを思うと彼に女性が憑依していたかのようで不気味にも思えた。
雨が降っている日であった。水溜りがで靴が汚れ、小川に濁った水が流れており、一つの傘の下、二人で入っていた。菊は康雄に体をくっつけ、康雄は菊の肩に手を回していた。雨に濡れ、冷えた体に康雄の暖かさは小さなマッチのようであった。
マッチに火をつけるのを菊は後になってそう思っていたが、その時は寒さに震え、康雄の暖かみなど雀の涙であり、彼の女性らしさの可笑しさを思いながら寒さを紛らわしていた。
「山の裾から途切れ途切れに冷たい風が入ってくるわ」
「雨に濡れた風だからしょうがないさ。カフェエでも寄るかい?」
「イワタさんの所やろ?戻るやない」
「だけど、菊はそこが好きじゃないか」
「あまり遅いと心配されるわ。うち、この前やってあんたとのんびりしとったせいで怒られてしもうたんやで」
菊は康雄の顔を見つめながらそう言った。康雄は優しい流し目で菊を見つめ、そのあとに小さく謝った。
康雄は菊よりも歳が下でありながら、菊よりも大人びていた。菊の扱いがうまく、菊の機嫌を損ねることはあっても、自分が怒る事はなかった。菊は別れてから康雄の寛大さを思い出す度に恥ずかしくなるほど思い知った。
地震が起こる前の事であり、彼が生きているのかすらわからない。混乱の中、菊はなんとか一人で生き延びていた。人一人が死ぬのが楽な時代に皆がそれに逆らっていた。反乱の中の写しを菊は尾形秋陽として書き連ねている。