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灯油販売車の音楽が聞こえたときに・入り組んだ迷路で・山高帽を・見ていて隠された意味に気がつきました。

 生け垣の迷路に黄昏のヴェールがふわりとかかると漆黒が現れる。本来なら若々しい緑が人間によって切り刻まれた瑞々しい残酷な切り口から、植物の悲しみのように草草しい臭いがむんと漂う。緑に赤々と力強い夕日がかかると、互いの良さを殺してそれだけにとどまらずに暗黒へと変わってしまうのだ。目を凝らせば、緑はまだ夕日の中で生きているのだが、迷路に迷い込んだ者は夕陽が目に染みることがある体であるので、目を凝らしはしない。生け垣でその人物は息をひそめ、身を潜めてなんとか迷路の影で何事もなかったように迷路にいないものと装っている。この迷路を楽しめるのであれば、人物にとってどんなに良かったか。独特なリズムによって機械が打ち込んだ音楽が、どこからか聞こえてきた。灯油販売車の到来の音である。耳にそのリズムが聞こえたとき、人物は懐かしさで胸がいっぱいになった。

 まだ走ることに夢中であった頃は、音を頼りに車を見つけては追いかけては遠ざかるレースを楽しんでいた。自転車に乗れるようになったら車にいかに追いつき追いつかれのレースを勝手に行った。ある程度の大人になってしまうと物珍しくもなくて、車はもう路傍の石と同じものになった。だが老いた今では、活力を漲らせて走り回った己への恋慕に近い懐かしさがこもって、悲喜こもごものの中から懐かしさだけが胸の中を覆っていく。昔ならば出来たのに、とあまりに悲しい想起が、人物の胸をじんと冷たくして身までも凍えたのか鼻水が出た。


 鼻水をすする。その音が予想以上に大きかったので、人物はぎくりとして迷路の中で目をぎょろぎょろと見回した。その手には上質のフェルトが、乾燥した指にぴったりと張り付いて離れようとしない。汗をかかなくなった老いた身でも、フェルトを張り付けるだけの汗は滲んでいた。

 そのフェルトが形どっているものはいわゆる山高帽である。この生け垣の迷路を作り上げただろう、富豪の持ち物である。かの富豪が亡くなった時に、まだ信用などがツケ払いであった時代だったため滞留した支払いの担保代わりにと近くの商店の人間が押し入った。その集団の中には只の知り合いや火事場泥棒などもいただろうが、咎める間もなく家人や使用人がふるえる側で高価なものを物色し、嵐のように立ち去ったのだ。彼らの怒りはもっともであった。だから警察も到着してからの調査は少し身を入れなかった。富豪はこの広大な屋敷と庭園を目に見える担保として実状の伴わない豪勢な暮らしをしてきたのだから、町の人間からの反感を買っていたのは目に見えていた。だが富豪が亡くなり、引き取り手のない屋敷だけが残されて二年が経った頃に、突発的衝動によってある人は屋敷に盗みに入ったのである。

 

 かの者と富豪は親しかった時期があった。それは灯油販売車を一緒に追いかけて競争した時の思い出であり、死が近付いた身にはその瑞々しい若さがまざまざと枯れかけた身に迫ってくる。だから富豪の家に忍び込んだ時も、子供のいたずら心による探検のようなものでわくわくと心臓が高鳴っていたが、いざ中に入ると動悸は別のものに変わった。どきん、と心臓が跳ねたのは、荒れ果てた屋敷が蜘蛛の巣と埃にまみれているからで、この動悸はぐずぐずと足下から頭にのぼっていった罪悪感で、頭から罪をかぶった時にその者は駆け出した。慌てた様子で二階にある富豪の部屋まで駆け上がり、その時だけは若返ったように軽やかで、どきんどきんと死に近付くかのような心臓の早鐘を、天使が勘違いしてその者の両腕を掴んでいるような、まるで浮いたような心地で部屋に飛び込んだ。目に付いたのが、今手に掴んでいる山高帽である。

 上質なものだ。深いブラウンの生地に、何故か白い埃が付いていないので目に付いた。だから盗った。富豪が死んだというのに、まるで毎日の手入れがされているようなものだった。新品というには使われているが、持ち主に使われるごとにそのフェルト生地は生き生きとして、人間の汗を吸って若さを保っているかのような。

 「やあ親友」

 気付くと、人間は山高帽に声を掛けていた。そうこうしているうちに周囲が黄昏から夜の闇へと変わっている。この闇の中なら逃げ出せるのだろうとかの者が立ち上がると、屋敷の中にいっせいにぱっと電気がついた。太陽よりもまばゆい光は、山高帽の盗人を照らし出す。老人であった。皺が刻まれた男らしい老人だ。彼はその光をぽかんとして、まぶしそうに目を細めたあと、眼球を通して脳にまで光が届く小さなとげのような感覚がしたあと、弾けるように飛び出して逃げていった。小さな罪である。しかしあってはならぬ罪が、人間が生み出した大量の電気によって浮かび上がって、太陽よりも濃い影を生み出して、本人にまとわりついて離れないようにさせている。老人は山高帽を返すという判断が残っていなかった。ただ己の罪から逃げるだけである。この山高帽が手入れされている意味があったのだ。それならば何故埃を払わないのか、あるいはこのまばゆさ自体が全て老人の死に近い幻覚であったのか。どちらにせよ、山高帽をかぶることはなかった。彼が死んだ後に、妻がこんな上等なものをどこでと首を傾げたぐらい適当な箱に入れてそのものが目に見えないようにしていたのである。だが箪笥の上に置いていた。目の届かないところに置くのが、どうしても怖かったからだ。彼の死後、葬儀の時にばたばたと物を片付けていた妻は気が利くから、棺の中にその山高帽を入れてやった。誰も止めはしなかった。老人は罪と共に焼かれるのだ。きっとその肉体が失われた先は罪深い者を裁く土地なのだろう。だが老人には口がない。あの屋敷の富豪と同じである。口のない彼らは、罪の意味を死後に知るのだ。


原典:一行作家

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