つきぬけて
柔道を習ってみたい、と思っていた。
オリンピックに影響を受けたわけではない。確かに日本人選手が大会三連覇を成し遂げるかどうかの瀬戸際で、なんとなく心がうきうきしていたことはあるが、断じてそんなミーハーな気持ちからではない。だからといって、純粋に柔道を極めたいとか、スポーツとしての柔道を楽しみたいということでもない。
護身用として必要を感じたからだった。
ここのところ、身辺で妙なことが起きている。
それらは一見微々たることである。色が崩れないよう注意して使っていた三色歯磨き粉の中身がいつのまにか混ぜ合わされていたり、止めたはずのない目覚し時計が止まっていたりはたまた仕掛けたはずのない時間にアラームが鳴ったり。スリッパが裏返されていたり、調味料の蓋が開けっぱなしになっていたこともあった。
はじめは勘違いだと思った。何かの気のせいだと思った。しかし、思い返せば何をどう気のせいにすれば起こった事実を勘違いにできるのか不思議なことではある。
これらはわたしのミスではない。特に塩の蓋については百パーセントない。わたしは人一倍塩の蓋の開け閉めには気を使っているのだ。だって開けっ放しにしておくとすぐに岩塩化してしまうじゃないか。そんな塩を使うのは嫌じゃないか。
仮にわたしのミスだとして、それが二回、三回ならば勘違いのせいにもできよう。だがこうも度重なるとわたし以外の何者かの意思を感じざるを得ない。
誰かがわたしに挑戦している。
今日の目覚めも訳のわからないものだった。目覚し時計の針は早朝五時四十五分を指している。昨夜わたしはわざわざ電話で時報を確かめたうえ、七時にセットした。間違いはない。
何故毎朝五時四十五分に起きねばならないのか。嫌味に微妙な時間なので、二度寝するにはためらいがあり、起きてしまえば、まだ眠い。
セットしなおして二度寝したこともあったが、やはりアラームは七時に鳴らず、八時に鳴った。以来二度寝する勇気はない。
一体こんなまねをするのはどこのどいつだ。
嫌がらせを受け初めてもう数ヶ月がたつ。常日頃穏健派と名高いわたしの神経にも限界というものがある。やはり、ストーカーの仕業だろうか。
ストーカー。流行を乗り越えて一般的な犯罪行為として定着してしまった感がある。わたしは決してそんな被害にあう柄ではないが、悪くいえばみみっちい、もっと悪くいえば陰湿ないたずらの数々に「ストーカー」という犯罪を考えざるを得ない。
人に恨みを買うような覚えはない。誰かに手ひどく冷たくしたことも、異常に好意を持ったり持たれたり、ましてや振ったりなんてしたこともない。思えば穏やかな、実に平坦な人生である。が、このご時世、どこでどう因縁をつけられているかはわかったものではない。
対策を打たねばなるまい。
まず、部屋の鍵を変えた。加えて、ピッキングに対応したものとしては最高の品質を持つ、A社の鍵を、本来の鍵とは別に二つ設置した。いたずらの質から見て明らかなことだが、賊はやすやすとわたしの生活空間に侵入している。なんらかの手段で部屋に出入り自由なことは明白だ。
鍵を付け替え、合鍵を作らないことで部屋への侵入は食い止められる。
わたしは久しぶりに安心して布団に潜った。
翌朝五時四十五分。アラームが鳴る。
何故だ。
冷えるような驚きに飛び起きて、玄関の鍵を確認する。ちゃんとかかっている。キーもちゃんと揃っている。一体何がどうなっているのだ。
悄然と部屋に戻ると、今昇ったばかりの太陽の光がカーテンの隙間から零れていた。窓……そうか、侵入経路はドアだけとは限らない。カーテンを引くと、澄んだ空気を直進してくる黄色い光線が眼の奥に痛い。窓の鍵はかかっているし、ガラスにも異常はない。
一般には知られていないトリックだかテクニックだかがあるのだろう。とりあえずホームセンターでサッシを固定するタイプの鍵を買い、とりつけてはみたが、安心できない。
わたしの部屋はマンションの最上階だ。屋上は立ち入り禁止になっているはずだが、その気になれば上階から伝い降りてくることは可能だろう。
そこまでしてわたしの目覚ましを狂わせて何の特があるのかは全くわからないが、嫌がらせの類というものは概してそういうものだ。だからといって、彼または彼女を理解したいわけではない。ひとつひとつは些細なこととはいえ、こうもしつこく念入りに度重なると追いつめられた気分だ。
そんな気分になりたいわけもないので、解決案を考えてはいるのだが、敵を知り己を知れば百戦危うからず。賊のトリックを知らねばそれを防ぐアイデアなど出るわけがない。
よって、鍵を強化してから数日。トイレの電気をつけっぱなしにされたり、塩を岩塩にされたり、洗面所の蛇口を微妙に弛められたりしながらうんうん唸っている。
この状況で警察に届け出てみたところで、失笑されるのは目に見えている。友人に相談してみたら、 「ちょっと神経質なんじゃないの」と言われてしまった。そうか、わたしは神経質なのか、なんて自分を省みることなどしないぞ。友人はわたしではない。わたしの身に起こっている事実は変えられない。
考える人のポーズを取りながら、防犯について思いを巡らしていると、階下から物音が聞こえてきた。このマンションは床や壁が薄く、まるで他の住人と同じ部屋にいるかのような錯覚を起こすことさえある。
以前、何気なくダンスのステップなど踏んでみたところ、床から突き上げるような音がしたことがある。おそらく、何か長いもので天井を叩いたらしい、下の住人の抗議のしるしだろう。
以来音を立てないよう、慎ましく心がけているのだが、抗議をくれた階下の住人は自らの生活音には憚るところがないらしい。ドアの開け閉め、テレビ、ステレオ、笑い声、等々、生活パターンを推測できるほどに音を漏らしてくれている。くれている、といってもこれは皮肉であって、階下の住人が三十前後の男性で、自炊はほとんどしなくて、毎日の晩酌が唯一の楽しみで、硬派を気取っているが実は十代前半の某アイドルのコアなファンで、おそらく彼女がいないことなど、知りたくて知ったわけではない。
哀れと迷惑を感じながら、音を絞ってテレビをつける。本日は柔道の最終戦で、金メダルを争う二人の選手がしっちゃかめっちゃかと引き合っている。観戦することしばし。日常のすべてのわずらわしいことを忘れた。ストーカーなんて小さなことだ。おっさんの歌うアイドルソングなんてどうでもいい。手に汗握る興奮と緊張感の中、際どい接線が続き、ついに勝負は劇的に幕を下ろした。まさかの大外狩りだ。あれ、背負い投げだったっけ? どちらにしても大技には違いない。技を知らなくても、決せられた勝敗の達成感、力を尽くした選手の放つ爽快感に代わりはない。
やはり柔道を習おう。いざというときに対抗できる技が身についていれば、それだけで力強いものだ。
肩に羽が生えたようだ。気分が晴々としている。
明日も多分五時四十五分起きだ。早めに寝ておくとしよう。
わたしは一色になった三色歯磨き粉をとっくに乾いているはずなのに何故か濡れそぼった歯ブラシに出しながら、ふと鏡を見た。何か黒いものが見えたのだが、気のせいだろうか。
鏡を見ないように凝視する。眼の端にやはり黒いものがかかる。その黒いものは円錐型で、錐の部分が頼りない感じに下を向いている。サラサラと揺れて、黒いものを掻き分けるように横になった目鼻が見えた。
それは、丁度鏡を横から除きこんでいる人間の頭部のようだった。
出たな。
わたしはストーカーの正体を直感した。トリックもテクニックもない。そういえば季節はもう夏。相手はYのつく日本の風物詩だったのだ。実体がないものに鍵が、ドアが、物理的な手段が通じるわけがない。こまごまとしたいたずらが続いたのも、それしかできなかったのだと思えば説明がつくような気がする。
整った顔立ちだが、横を向いた目の回りは落ち窪み唇は不自然に色がない。光のない黒目がこちらを見て、視線が絡んだ。馬鹿馬鹿しい。
わたしは鼻で笑うと歯磨きを続けた。今まで微妙ないたずらに怯えを覚えていたのは、それがいたずらではすまない犯罪に膨らんでしまう危険を感じたからだ。Yのつく風物詩など、今までされたことから考えても恐れるに足りない。
歯磨き粉が一色になったからってなんだ。塩が湿気で固くなるくらい割り箸で砕けばいいさ。
Yのつく生き物……じゃない、死に物はせっかく姿を見せたのに無視されたことに焦った様子で、鏡の周りをぐるぐるしていたが、空気だと思うことにしたわたしの敵ではない。そう、こんなものは空気だ。今も階下から漏れ聞こえてくるアイドルソングと同じだ。ないことにしてしまえばいいのだ。
精神を集中、あるいは拡散したとき、流れるバックグラウンドミュージックはその存在を拒絶される、すなわち無として扱われる。
消し忘れたテレビのリモコンを取りに戻るわたしの後ろを、戸惑った気配が後追いしてきたが、そんなものは知らない。わたしは強靭な精神力でもって平穏な日常に戻ることを選択する。
テレビでは丁度何かのコーチがスピーチをしていた。
「気合です! 勝利は気合によって導かれます!」
そうか。気合か。いい得て妙だ。
スピーチを聞くために立ち止まったわたしの肩に、ひんやりとした気配が昇ってきた。それほど無視されるのが嫌なのか。だったら最初からきちんと気づかれるように挨拶して玄関から入ってくればよいものを。さすがのわたしもイラっとするものを押さえ切れなかった。
階下からは相変わらず浮ついた野太い男の声がキュンキュンとアイドルソングを歌っている。
肩には馴れ馴れしい冷たい指が絡んでいる。
わたしの精神は、強靭である。だが、ものごとには限度というものがある。
「気合です! 気合なのです!」
わたしはすっと腰を落とすと、肩にかけられた手を思いきり引きつけ、冷たいものを背に負い、ぶん投げた。
黒ずんだ顔が驚きの表情を張り付けたまま床に吸いこまれていき――。
階下から野太い悲鳴が聞こえた。