第八集 明日に備えて
「いよいよ明日の早朝から馬市だ。競りは兵部侍郎殿が行う手筈となっている。ただ、金額の交渉が上手くいかなければ、簡単に乱闘になると心得ておけ」
夕方、朱燕軍の軍議の場となっている一番大きな天幕にて、護衛任務に関する話し合いが始まった。
一応、兵部侍郎とその侍従も数名参加はしているが、彼らの視線は時折、霓瓏に集まっている。
(……仙子だと露見したかな)
嫌な視線だ。霓瓏は何度かわざと視線を合わせ、侍従たちを焦らせてやった。
ただ、兵部侍郎はひるまず、むしろ笑いかけてくる始末。
(腹立つなぁ)
一時間ほどそんな攻防を繰り返し、霓瓏は無視することに決めた。
「クハルゥ族は霓瓏のおかげで好感触だ」
「いえいえ。元から朱燕軍の主師と祁旌殿の評価が高かったのです。慧国のことはあまり好きではないでしょうが、朱燕軍は大丈夫でしょう。でなければ、軍医であるわたしを族長に触れさせたりしないでしょうから」
「それはどうも、霓瓏。だが、あちらから申し出てくれたんだ。クハルゥ族は霓瓏への恩義から、何があっても朱燕軍に剣は向けない、と」
「照れますね。まぁ、ここにいる間は診察を続けようと思っているので、当然と言えば当然ですが」
「そうだな。だが、問題はまだある。馬市に参加しているのはクハルゥ族だけではない。主催がクハルゥってだけで、騎馬民族が十以上は来る。それも、すべて冷戦状態のな」
「でも、どうして売ってくれるんですかね、軍馬なんて戦力に直結しそうなものを」
「中原全体で商売するための金が欲しいからだ。銀子や金子は共通するものが無い紙幣や貨幣とは違い、その重さによって価値がはかられる。どこの国でも金の代わりに使えるのだ」
「なるほど。だからいくつもの箱に分けて大量に銀子を持ってきたんですねぇ」
「ああ。軍馬は重要だ。慧国でも種馬を買い増やしてはいるが、生育に時間と手間がかかる。すでに調教までされた馬を手に入れられるこの機会は逃せないのだ」
「兵部侍郎殿には頑張ってもらわねばなりませんね」
「ふんっ」
今の今までまったく声を発していなかったくせに、兵部侍郎は不機嫌な相槌を返してきた。
「しっかり護衛を頼みますよ、将軍殿」
「ええ。無暗に不遜な態度で周囲の騎馬民族を刺激なさらぬよう、頼みます」
「……ふんっ」
「もう終わったのなら帰らせてもらう」と、兵部侍郎たちは天幕を後にした。
「絶対問題を起こす気ですよ、あれ」
「今回はクハルゥ族が協力的な姿勢を表明してくれているから、いつもよりは安全だと思うが。用心はしておこう」
軍議を終え、それぞれが各々の天幕へと帰って行く中、霓瓏は祁旌に呼び止められた。
「族長殿はどんな様子だった?」
「正直に言えば、余命はあと半年ってところでしたが、わたしの薬で治療が進むので、寿命まで生きられるでしょう」
「そうか。よかった」
「……跡継ぎ様が問題なので?」
「いや、末子のウォダ様は温厚だ。長子が問題なのだ。今回の馬市には来ていないが、長子のソオイは危険だ。各一族の長子たちを集めて、慧国のみならず、この中原全土を手に入れようと画策している。すでに八つの一族が呼応していると聞く。彼らの目下の敵が深国だから、まだ慧国は脅威にさらされていないってだけだな」
「中原は本当に争いの多い大地ですねぇ」
「仙子の国はそんなことはないのか?」
「ううん……。仲の悪い妖精王族はそれぞれいるみたいですけど、戦ったところで力は拮抗。あまり意味はないって感じですかね」
「そうか。もし援軍が必要な時は言えよ。駆けつける」
「それは心強いですね」
祁旌は優しく、義理堅い。とても善い人間だ。
混沌とした中原では、それは才能とも呼べる。
「いつまでも素敵な祁旌殿でいてくださいね」
「なんだそれ。気味の悪いことを言うな」
「またそうやって! わたし、もう寝ちゃいますからね!」
「夜食はいらないのか?」
「……食べます」
「あはははは。来い。作ってやる」
「ぐぎぎぎぎ」
顔もよくて体格もがっしりしていて性格も素晴らしくて料理もうまい。
(神はまことに不公平である)
霓瓏は仙子族にしては少し小さめの自分の身体を見て、「けっ」と小さく悪態をついた。
「今日の夜食は何ですか」
「寝る前にあまり胃に負担のあるものは食べない方がいいんだろう?」
「そうですよ。寝つきも悪くなるし、眠りが浅くなります。翌朝、胃もたれもするでしょうし」
「じゃぁ、粥だな。生姜と大蒜、葱、枸杞、鶏肉……」
「ふひひ。それがいいです! 最高です!」
「……いや、明日は人と話すことも多いだろうから大蒜はやめておこう」
「ああ……。それもそうですね」
「待ってろ。すぐできるから」
祁旌はいつもの笑顔を浮かべながら、天幕から出ていった。
霓瓏もすぐ後に天幕を出て、自分の天幕へと向かった。
城ばかりの天幕の中で唯一深緑色をしているので、見つけやすい。
そして何より、祁旌の天幕には見張りが立っている。
その隣に建てたから、夜でも見つけやすい。
扉を開け、中へ入る。
幻華天雛も、現世と同じ時間が流れている。
夕闇が桃花の影を落とし、空には星々が煌めきだしていた。
「ふぅ。自分のこと、結構頭いい方だと思って生きてきたけれど、戦術に関してはさっぱりわからない。わたしって軍議に参加する必要あるんだろうか」
祁旌と将たちが話している護衛についての作戦も、正直半分くらいはよくわからなかった。
そういうところでも、自分は他の仙子族とは違うのだなぁと思い知らされる。
「明日から十日間、極力平和でありますように」
そう祈りながら、霓瓏は屋敷の中へと入って行った。
夜食が出来るまでの間、兵法の本でも読んでみようと思ったのだ。