第三十二集 テンシ
「祁旌殿はテンシってご存知ですか?」
「……皇帝陛下のことじゃないのか?」
よく晴れた日の午後、二人でお茶をしていると、霓瓏が話題をふってきた。
「それは天子でしょう? 違います」
「じゃぁ……、あの、なんとかっていう宗教の絵に出てくる、翼が生えた裸の子供のことか?」
「それは天使ですね。もう。仕方ないので書いてあげましょう」
そういって霓瓏が取り出した紙にサラサラと書いたのは〈甜子〉だった。
「甘い子供? ……知らないな。なんなんだ?」
「別名、〈甘露子〉とも呼ばれているのですが、すごいんですよぉ」
「よくわからん。ちゃんと説明してくれ」
「こほん。甜子というのは、この世界を終わらせる力を持つ存在のことです」
「……は?」
霓瓏の突拍子もない言い方に、祁旌は間抜けな声を出してしまった。
「今、この世界は〈人間〉の世界です。その前は〈神〉の世界でした」
「なんだか余計にわからなくなってきた……」
「まぁ、とりあえず聞いてください。戦乱の世は続いていますが、その加害者も被害者も主に人間ですよね?」
「そりゃ、そうだろう」
「ですが、この世には魑魅や鬼魅と言った邪悪な存在がいることもご存知ですよね?」
「……そうだな」
「で、彼らのような邪悪な存在がこの世界を欲するとき、どうすればいいかというと、その甜子に世界を破壊させるのが一番早いわけです」
「……つまり、〈人間〉の世界を終わらせて、〈魔〉の世界を始めるってことか?」
「その通り! 流石は朱燕軍の将軍ですね。ものわかりが早くて話しやすいです」
「はぁ……。で、なんでこんな話を?」
「中原のどこかの地域で、甜子が目撃されたかもしれないと、実家……、というか聖域から連絡があったのです」
一瞬、脳が理解するのを拒んだように、霓瓏の言葉が頭に入ってこなかった。
「……はあ⁉ まずいんじゃないのか⁉」
「そうですねぇ。闇に堕ちれば、きっと魔王にでもなるでしょうね」
「そんなのんきな……」
「ただ、まだ噂の段階なのでどうすることも出来ません。本当に甜子なのか証拠があったわけでもないですし」
「そ、そうか……」
「甜子は百年に一人必ず生まれてきます。今までもいたんですよ。でも、〈人間〉の世界は変わりなく続いてきました。すぐにどうこうなるってことでもないので安心してください」
「ううん……。じゃぁ、なんでこんな話をしたんだよ」
「祁旌殿は不思議な人です。祁禮殿も不思議ですが、どちらかと言うと変人です。祁旌殿ならば、そのうち出会ってしまうのではないかと思ったのです。甜子に」
祁旌は、普段はあまり真剣にこういったことは言わない霓瓏が、まっすぐと目を見て話してきたので、少し驚いた。
「……心に留めておくよ」
「はい! そうしてください。きっと素敵なことになると思うので」
「なんか気になる言い方だな」
「ふふふ」
☆
中原大陸のはるか北方にある山岳地帯。
平地とは違い、山頂にはまだ雪が残っている。
吐く息が白い。
心臓まで凍ってしまいそうな夜。
今まさに、息を引き取ろうとしている青年がいた。
「義兄様!」
黄金の細工が美しい、木で作られた輿の上。
敷かれた布が赤い血に染まり、その範囲は青年の呼吸とともに広がっている。
「莅月……。私は、もう……、助からない……。お前が……、仲間を、率いていくのだ」
「そんな! 私など、そのような器ではありません! 義兄様がいなければ……」
「しっかりしろ!」
青年は声に力を込めた。
口の端から血があふれ出る。
「……我が愛しき義妹よ。お前ならば、一族を救えるのだ……」
「義兄様……」
「莅月……。一族を……、頼んだ……、ぞ……」
声が口の中だけで紡がれ、音が外に出ていく力を失っている。
呼吸が次第にゆっくりと浅くなり、最後に一度深く吸い込むと、そのまま空気が抜けていく音とともに、命が果てていった。
「うわああああああ!」
莅月は人目もはばからず声を上げて泣いた。
周囲を取り囲む一族の戦士たちも皆涙を流し、身体についた乾いた血が再び色を取り戻すように流れていった。
「許せない……」
莅月は義兄の遺体に覆いかぶさるように抱きしめながら呟いた。
「人間どもめ……。絶対に許さない!」
莅月の叫びに、泣いていた大型の兎たちが一斉に人の形に変化し、雄たけびを上げ始めた。
「よく聞け、玄兎の戦士たちよ! 私は必ず仇をとる。そして、この世界を、玄兎族のものにしてみせるぞ!」
雄叫びは低く響き渡り、木々を根から揺らした。
「私のこの身体は〈人間〉だ。たった一袋の食料のために売られた私を、悪辣な環境から奪い去ってくれたのは玄兎族だ。だから私は心をささげた。身体は変えられなくとも、私は玄兎のために戦う。だから……、安心して眠ってね、義兄様……」
莅月は義兄の額に軽く口づけを落とすと、戦士たちを見渡して言った。
「復讐は焦ってやっても成功の見込みは薄い。まずは小さな集落で慣れていこう。さぁ、作戦を立てるぞ!」
戦士たちは声を上げ、腕を突き上げて興奮した。
空には満月。
その月灯りが、冷たく木々を染めている。
「待ってろよ、慧国軍。いつかその喉元にこの刃を突き立ててやる……」
莅月は涙を拭い、空を見上げた。
雲が流れていく。
強い風が吹き始めた。




