第三十一集 蠱毒
「なんと! 黒幕は廃后の嫡子であったか」
さすがの祁禮も、この事実には驚いたようだ。
心底楽しそうな顔をしている。
「まるで蠱毒のような奴だな」
「それがもう、とってもにこやかで……。笑顔が怖かったです」
「ううん、まずいぞ」
「え?」
「おそらく、今この時も調べているだろう。金 蓮という青年について。情報網は掃いて捨てるほどあるだろうからな」
「そ、それじゃぁ……」
「潜入はこの時点をもって失敗だということだ」
「じゃぁ、どうするんですか?」
動揺する霓瓏。
ただ、祁禮の隣に座っている祁旌は思いのほか冷静なようだ。
「真正面から行くしかないのでは?」
「さすがは弟。それが一番いいかもな」
「しゅ、朱兄弟は何を考えているんですか⁉」
霓瓏はへたすればこの望灯から生きて出られないかもしれないという状況において、こんなにも落ち着いている二人に驚いた。
「お前が焦るのもよくわかるぞ、霓瓏。だって、相手はこの望灯の裏の主だと言っても過言ではない人物だからな。商いも長いとなれば、地盤も固い。大袈裟に言えば、ここ望灯は奴の国なのだろう」
「廃されたとはいえ、皇族の血筋と言うのはかなりの影響力を持つからな。……おそらくは、望灯の貴族たちも抱き込んでいるかもしれないですね」
「二人とも、そんなに淡々と……」
「ここで慌てていても仕方ない。明日の夜、三人で行こうじゃないか、妓楼へ」
「ええええ」
「霓瓏のことを隠していても、朱燕軍がこの街に来ていることは相手方も知っているのだし。だったら、乗り込むのが手っ取り早いではないか」
祁禮は楽しそうに「何を着て行こうかな」などと言いだした。
「き、祁旌殿! 本当にいいのですか?」
「まぁ、大丈夫だろ。兄上は負ける戦はしないからな」
「これは戦争とは違うのですよ⁉」
「同じ同じ。そんなに気ぃ張るなって」
「のんきすぎませんか……」
戦ならば、戦って勝てば大抵のことはそれで治まるが、今回のことはそういうわけにはいかない。
そもそも、どんな終わらせ方をすればいいのだろうか。
何も単純な答えなど見つからないまま、霓瓏はため息ばかりが出た。
祁禮と祁旌には、何か展望でもあるのだろうか。
「良い妓楼だな!」
夜、祁禮は歓甜楼を眺めながら、満足そうにうなずいた。
このままだと意匠についても話し出しそうだったので、さっそく中へと入ることに。
「さぞ儲かっているのだろうね。美女ぞろいだ。あの妓女は高価だったろうに」
「え、女性の金額がわかるんですか?」
「あの妓女は元名家のお嬢さんだ。見たことがある。没落したのか、させられたのか……。そういう点でも、この妓楼は闇が深そうだな」
「うえええ」
祁禮は「ますます楽しくなってきたぞ!」と目を輝かせている。
祁旌は「兄上、あまりはしゃがないでください」と、流石に呆れている様子。
三人で話していると、ほどなくして女主人が現れた。
今日はもう、誰が呼んできたとかではなく、自主的に。
「おやおやぁ。朱燕軍の若様方ではないですか。ようこそいらっしゃいました」
「あなたがご主人ですか。お美しい」
「ありがとうございます。日々、努力を重ねております」
「今日は紹介してほしい人がいてね」
「おや、どちら様でしょうか」
「趙 透殿をお願いしたい」
女主人は一瞬目が泳いだ。
「あらぁ……。そうですか。でも、ここは妓楼ですよ? 是非女の子たちと遊んで行ってくださいな」
「それはまた今度にしよう。どうやら、本人が来たようだ」
女主人が振り返ると、中央にある大階段の真ん中に、目を丸くした趙 透が立っていた。
その時、趙 透の隣に立っていた髭面の男が叫んだ。
「あ、て、てめぇは!」
霓瓏を指さし、震えている。
「あ、どうもぉ。その節は、傷口に布を巻いてくださりありがとうございました。ただ、薬術師から言わせていただきますと、清潔な布のほうがいいですよ、と、助言を申し上げたく……」
髭面の男は顔を真っ赤にした後、趙 透に睨みつけられ、一瞬で大人しくなってしまった。
「その声……。なるほど。昨日の青年はあなたでしたか。さすがは仙子族ですな」
趙 透は霓瓏を睨みつけながら、口元だけで微笑んだ。
「ここでは不都合でしょう、趙 透殿。どこか静かにお話出来る部屋はありますかな?」
祁禮の美麗な微笑みとにじみ出る余裕が癇に障ったのか、瞬きほどの間だけ微笑みを崩した趙 透。
しかし、すぐにいつもの胡散臭い微笑みに戻ると、「では、こちらへ。女将、あの部屋を借りますぞ」と言い、三人を案内した。
「良い妓楼ですね。名家の淑女が多いと見えます」
「……たまたまです。自分で言うのもおこがましいとは存じますが、なにぶん、顔が広いので、名家の経済状況などはある程度把握できているのです」
「なるほど。それならば、没落させるのも簡単でしょうね」
「朱燕軍の軍配者ともあろう方が何をおっしゃいますか」
趙 透は額に青筋を浮かべながら微笑んでいる。
心の中では憎悪の感情が煮えくり返っているのだろう。
貼り付けたような笑顔では隠し切れなくなっている。
「では、こちらの部屋へお入りください」
趙 透は髭面の男に目配せすると、部屋のすぐ外に立たせた。
「あなたは入らないのですか?」
霓瓏が尋ねても、髭面の男は答えるどころか目も合わせなかった。
「さぁ、どうぞお席へ」
中へ入ると、そこは昨日霓瓏が案内された部屋よりも少し広く、幾分、壁も厚めに作られているようだ。
「それで……、私をどうするおつもりですか?」
全員が席に着いたところで、単刀直入に趙 透が話を切り出した。
誰と話せばいいかをよくわかっているようだ。
祁禮をまっすぐに見つめている。
「仙子殿からすべて聞いたのでしょう? 弟に人攫いをさせていることもご存じのはず。言い逃れは致しません。無意味ですから」
どうやら、髭面の男は趙 透の弟らしい。
「趙 透殿は潔くていらっしゃる。何年このような仕事を?」
「二十年以上です」
「稼いだ金を賄賂にしたことは?」
「もちろんありますとも」
「帳簿はつけていらっしゃいますか?」
「ええ。事細かく。日時、場所、人、金額、天気、会話内容の一部まで記してあります」
「それはすばらしい! では、今後一切自身の出自について他言せず、さらには人命を奪わないと誓うのならば、私がどうにかしましょう」
「……は?」
趙 透は予期していなかった祁禮の言葉に、唖然とした。
そして、霓瓏も同じような顔をして祁禮を見つめた。
呆れて溜息をついているのは祁旌だけだ。
「それは、ど、どういう……」
「ああ、そうそう。故意に名家を没落させるのも控えてくださいね」
「だ、だから、どういう……」
祁禮はとても愉快そうに微笑むと、「私は〈毒〉が欲しいのです」と言った。
「毒……?」
「この戦乱の世では、綺麗事に意味などありません。どれだけ恩と仁義で繋がろうとも、そこには限界があります。私は護りたいのです。私が愛しているすべてのものを。そのためならば、一匙の〈毒〉をあおることなど、何も怖くない」
祁禮の瞳に、恐ろしいまでの炎が見えた。
それはまるで、宝物を護る龍のようであった。
「あなたには私のために情報収集という任についていただきたい。情報の集め方については口出ししません。ただ、人を殺めなければいい。どんな手段を使っても、私が望む情報を私が望む質でもたらしてください。それが出来るのなら、救いの手を差し伸べましょう」
「で、でも、慧国の役人の中には簡単に私を殺せる権力を持つ人々が……」
「安心してください。汚れた金を受け取るような奴らは、私が排除します。あなたの情報によってね」
「は、排除⁉」
「朱燕軍についてコソコソ嗅ぎまわり、あることないこと吹聴して回る小汚い蠅共を一掃するいい機会です。ふふふ」
趙 透はすでに顔から微笑みをなくし、自分よりも二十歳以上若い青年に怯えた。
霓瓏も、初めて見る祁禮の姿に恐怖を感じるとともに、どこか羨望めいたものを覚えた。
ただ、祁旌だけが、少し悲しそうに、困ったような笑顔を浮かべていた。
趙 透は震える手を握りしめながら、椅子から立ち上がり、身を低く低く折り曲げ、「謹んで、お引き受けいたします」と言った。
祁禮は「では、おって連絡します」とだけ言い、祁旌と霓瓏を伴って部屋を後にした。
「き、祁禮殿……」
「ああ、すまないね。心配させてしまったかな?」
「あの……」
霓瓏はなんと話しかけたらよいかわからなかった。
すると、祁旌が「兄上、もう霓瓏は家族です」と言い、祁禮の肩に触れた。
「そうだな……。霓瓏が朱燕軍へやってくる半年ほど前のことだ。私の妻の妹が自ら命を絶ったのは」
霓瓏は静かに聞き入った。
「義妹は結婚して五年経っても子が出来なかった。あんなにも、子供が好きな心優しい女性なのに。そこで、私は妻に頼まれて、不妊に詳しい医師を探した。幸運にも、すぐに見つかり、義妹に引き合わせると……、とても慌てた様子でこんなことを言われたのだ。『その紅はどこで手に入れたものなのですか⁉』と」
霓瓏は察した。ひどく醜い、卑怯な手段を。
「やはり、お前なら気づくと思ったよ。その通りだ。その紅が問題だったのだ。女性の身体を芯から冷やし、妊娠するのに必要な生殖機能を衰えさせる薬物が練り込まれていた」
祁禮の手に、力が入った。
「その紅を義妹に贈ったのは、皇后陛下の兄の妻だった」
霓瓏は涙が出た。
止まらなかった。
「未だに、誰が黒幕なのかはわかっていない。皇后陛下なのか、兄君なのか、その妻なのか。ただ、誰が仕組んだのだとしても、私を大きく傷つけるのには成功したわけだ。私の妻は妹の死に耐えられず、一週間も経たずに流産したのだからな」
祁禮は力を込めていた手を解き、天を仰いだ。
星が瞬く、美しい夜。
「私は誓った。相手が〈毒〉を用いるのなら、私も容赦はしない、と。どんなことをしてでも、家族を、朱燕軍を護ってみせる、と」
祁禮は霓瓏に視線を移し、その頬を伝っている涙をぬぐった。
「涙を流してくれるんだな。霓瓏、巻き込んで済まない」
「いえ。いいんです。わたしは、わたしは朱家のみなさんが大好きです。朱燕軍も大好きです。だから、わたしもみなさんを護ります。共に、戦います」
「ありがとう。私も、祁旌も、霓瓏が大好きだよ」
もう号泣するような年齢でもないのに、と思いながらも、霓瓏は涙が止まらなかった。
支えて歩いてくれる祁旌の腕に少し体重を預けながら、心に誓った。
この二人の為ならば、〈薬〉だって〈毒〉になるのだ、と。




